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「モヤモヤ研究員」になりました@さとのば大学

今日の講義は「モヤモヤ研究」。晴れて私も正式なモヤモヤ研究員になったのです。おめでたい。

ブレインストーミングをするだけしていた

私はここ3年間くらい日記がてらブレインストーミングをほぼ毎日Googleドキュメントにしていて、毎日毎日よくもまあこんなにも嘆きやどうしようもない怒りで溢れているなあとちょっと落ち込んだりもしました。

こんな些細な悩みでいちいちつっかかってないほうが絶対生きやすいし、カズレーザーもどっかの番組で「どうして人生はハッピーなのに自分でバッドエンドにしたがるの?悪いほうへ行きたがるの?」と言っていて余計落ち込んだりもしました。些細なことで悪いように捉えたくなくても捉えてしまう私が悪いのか?と。

ブレストするお題が全く出ない日もありました。苦しみや辛さが無くてお題が無かったというわけではありません。むしろ生きている意味が感じられず、目の前のことにも集中できずに自分そのものを否定していたからだと思います。

「ただのモヤモヤ」から「研究員へ」

「モヤモヤ研究」のやり方をこのタイミングで知ることができたのは運命だと思いました。

またnoteに残そうと思ってますが、私は今

①終わり

②終わりと始まりの間

③始まり

の三段階のうちの真ん中である内面的な変容期、つまりトランジション期にいると先日の授業で気付かされました。

このトランジション期は非常に辛い。安定せず、モヤモヤしていて自分が何者なのか探し回っている状態です。

今までの私はそのトランジション期に対してマイナスなイメージを持っていました。嘆くだけで終わっていたからです。焦りばかりが生じて考える前にまず手を付けるだけしといてやめるか、キャパオーバーになるかのどっちかでした。

「モヤモヤ研究」というのは、そもそもモヤモヤしても良いし、そのモヤモヤはもしかしたら自分だけではなく他人も思っているのではないか?という大前提のものだと私は捉えました。

心理的にもその前提があるだけで安心してモヤモヤできる(言葉の組み合わせおかしいですけど)のがまず運命じゃないかと。

更にそれが私だけの問題ではなく他の人も持っているモヤモヤならば話は違います。もし近しい将来私と同じモヤモヤを抱えた人に出会ったら、かけられるありったけの言葉やしてあげられる行動を考えるべきじゃないかと感じたのです。

「モヤモヤ」から、「もっとこうすればいいんだ!」「こうしたい!」というワクワクするような具体的な行動を出す道しるべとなって機能するやり方をここで学びました。

つまり、トランジション期にいかにモヤモヤしたかによって、③の段階で返ってくるものが全く異なると思うのです。

モヤモヤ研究メモ

最初は「モヤモヤマップ」と言って、例えば「最近イライラしたことは?」や「いつも怒りや悲しみを感じてしまうニュース」といった具体的な言葉を参考にしてまず出していく。これは私はいつもしていることだったので参加者の中でも一番出ていたんじゃないかと思います。

講義中ではモヤモヤや、そこから洗い出した自分の願望を二人ペアになって誰かと対話しながら思考を深めていきました。

毎回ブレストするたびに「ブレストって内向的になってやるもんだと思われがちだけどそもそも悲観的な私が一人でやってたら物事は悲しい方向にしか行かないのではないか?」と思ってたりもしたので、その対話形式でモヤモヤを可視化していくシーンは本当にありがたかったです。

そこから更に、どのようなニーズを求めているのかキーワードを探し、そして最後にIからweに変えて考えていく。

そんな流れでしたが、正直終わってから時間足りねえ~~とモヤモヤしました。これは絶対私だけじゃないはず。はい。

モヤモヤテーマ

私が今まさに感じているモヤモヤは「自分がどうするべきなのか曖昧すぎる問題」です。

具体的に言うと、他人にはこうあるべきだとかこれが合ってるとか言えるのに、自分に関しては曖昧で「これでいいのか?」みたいな不安が常につきまとってくる。

他人の道は示してあげられる。いくらでも背中を押すことができるし、肯定することもできる。でも自分には獣道しか示してあげられないし、自己否定を繰り返す。

そんな問題が私の中に常にあります。もっと楽に生きたい。自分のために生きたいなと強く思う。そう思うのに、なぜかうまくいかない。こんなにも100%の力を振り絞ってどうやって生きていくのか考えているのに。

肩の力をもっと抜いて生きていきたい。それも自分の納得する形で。

そんな自分の切なる願いを叫んだところで、ペアで話していた方に「周りと違う感覚を持ちながら、それにずっと悩んできたんだね」という言葉に背中をさすられたような気持ちになりました。

周囲とは「違う」という感覚、「成功者であれ」とか「人生はいかに耐え忍ぶかだ」とか「お金がすべて」と言う大人に、「成功者って何を以てして成功したと言うの?」「人生は自分のためにあるのに、なにを我慢するの?」と正直に言うと「お前はまだ幼いから人生のなんたるかを分かっていない」とよく怒られました。小学校のころ、正月に「お年玉なんかよりもお父さんとお母さんが仲良くなってくれたらそっちのほうが嬉しい」と言うと「青木家は夫婦仲が良くないと周囲に思われたらたまったもんじゃないから皆の前では喜びながら受け取れ」と怒られました。

周囲の大人が思ったような子供にならないと、違うと怒られる。いつの間にか肩肘を張るようになったのです。

よっしゅさんは講義の中で「他人の願望をいつのまにか自分の願望だと思っているときがある」と仰っており、まさに私はいつのまにか「本当に自分の望むことよりも誰かからの期待や世間体を大事にする」人間になろうとしていたのです。周囲の大人の願望を私自身のものだと思っていたのですね。

自分の在り方は?

しかしここでまた「肩の力を抜いた私はどんな私?」と想像がまったくつかなくなったところで今日は終わりました。

「ありのままの自分」を受け入れるにも、ここまで話しながらおかしいのが「肩肘を張っている自分」に疲れていることは事実なのですがむしろ生きている実感さえ感じる瞬間があるのです。

それすらも「ありのまま」と捉えるならば、それでいいのかもしれないのですけど。

そんな感じで、あとは晩御飯食べて、明日の講義に備えたいと思います。

おやすみなさい。




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