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はたらくすべての人へ、おつかれさま


学校という世界で友達との関係が全てだったあの時代の私は、理解を本当の意味でできていたのかなと、今さらながら疑問に思う。
毎日お仕事でたくさん考えて動いてたくさんの人に揉まれて、それでもそれを1ミリも感じさせない父に、子どもの成長を見守ることを選び、家の全ての家事をこなし子どもたちの面倒を見てくれて吐き出し口もあったのかわからない母に、私はそれを等身大で理解し敬意を示せていたのだろうか。いやできていなかった。そして今も尚わかっていないんだと思う。

社会人5年目になって、今年最後の祝日"勤労感謝の日"の意味を初めてじっくり考えた。こんなこと考えるのは私にしてはめずらしい。たぶんこれはきっと、朝早く起きてみさきちゃんと2人でFUGLEN TOKYOというカフェで本を読んだり語り合ったりしたからこそだと思う。普段は平日だとカフェに入れても8時半くらいまでで、水曜日にこうやってゆるりと語らえているのは祝日ならではだなあとふと思った。今日は勤労感謝の日かあと解散した後の移動の電車で祝日の日の名前を思い出して、そもそもなんだ?勤労感謝の日って、となった。

国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことを趣旨としている

wikipedia

新嘗祭という、天皇が新穀などの収穫物を神々に供えて感謝していた日からできた日だという。

そうなのか。普段、なぜ生きるのか、何を理想に生きるのか、その上でキャリアはどう描くのか、なぜ働くのか、理想のために何ができることなのかは考える。だけど、働くことそのものに感謝など考えてもみなかった。

たしかに思えば働く上でたくさんの葛藤を抱えているのだから、ちゃんとありがとうは伝えた方がいいよな、と気づく。

直面する課題が難しくて、私の中にどうやって攻略すればいいのかどこから手をつけたらいいのかすらわからないことがある。抱えきれない量の仕事が目の前にあって、どう計算したってひいたスケジュール通りにいかなくて頭を抱え込むこともある。自分の能力値が低すぎると辟易としてしまうこと、周りと比べて何にもできていないんじゃないかと不安になること、誰かのために本当の意味でなっているお仕事をしているのか、自己満で終わっていないかと考え込むことがある。調整しないといけない人間関係の板挟みになり何をしているんだろうと呆然としてしまうことがある。本当にこのままでいいのだっけと漠然と不安になって理想を考えるけど、これがやりたいという強い気持ちがあるわけでもないし、でもなんでもいいからやってみたいと思えるわけでもない、そんな気難しい自分が嫌になることもある。働く時間とは別で勉強しないといけないとはわかっていてもなかなか手をつけられず怠け者の自分に落胆することだってある。
いつぞや誰かが言っていた、仕事は結局自分との闘いという言葉が、年次を重ねるごとに理解が深まってきた。

そんなちょっとした、だけど当人にとっては重大な悩みを時折抱えながら働いてるのだ。偉い、そう、偉いんだよ。小さくて大きなこの気持ちと向き合ったり、たまに無視したり、並走したり。

頑張っている私へ、いつもありがとう、そしてお疲れさま。仲良しで毎日何かしらやりとりをする家族LINEにもおつかれさまと伝えてみる。


どれほど頑張っているか等身大では理解できていないことばかりだけど、伝えられるうちに伝えよっと。働くすべての人へ、おつかれさまです。(働くに思いを馳せていたつもりだけどもはや働く=生きるで捉えていることに最後に気づいた。なので働くすべての人というのは今日を生きるすべての人へ、だ。)いつもありがとうございます。


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