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劣等感に打ちのめされた新社会人が「ボヘミアン・ラプソディ」に出会ったら

2018年11月。映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大々的にプロモーションされていた。世界的ロックバンドであるQueenのボーカル、フレディ・マーキュリーに焦点を当てた伝記映画。

直感的に見たくないと思った。

何も知らない私は、「一般人には手の届かないような成功者の栄光を、一般人に紹介する映画」だと勝手に思い込んでいた。

かたや当時の私は周りと自分を比べてばかり。成功なんてものとは程遠い、情けなさのかたまりであった。

大学を卒業して約半年。大学の友達はみんな、誰もが聞いたことのあるような大企業に就職した。一方で私が就職できたのは、名前を出してもほとんどの人が首を傾げるような中小企業。

世間的にエリートと言われる大学を出たのに。会社では「(良い大学を出たのに)こんな会社で良かったの?」と言われて傷ついた。大企業に入った友達の話を聞くのが苦痛だった。もしも私もみんなみたいに"出身大学にふさわしい"企業に入れていたら…空想の中の仕事内容や同僚、社内環境はとてもキラキラしていた。

フレディの人生は、こんな情けなさとは無縁だったのだろうな。恵まれた才能を持って華々しく成功したカリスマなのだろうな。そんな眩しい人生を描いた映画、今の私は観ていられない。こんな風に思い込んでいた。

なのでボヘミアン・ラプソディを一緒に観に行こうと誘われた時、かなり渋りながら着いていった。

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しかし、上映が終わった時、私は己の自分勝手な先入観を心底恥じることになった。才能を持った人が、良い仲間に囲まれて成功していく軌跡を讃えるだけの映画ではなかった。

物語は、彼が「フレディ・マーキュリー」になる以前、決して恵まれているとは言い難い境遇に置かれているところから始まる。その境遇への反発心と、音楽への愛情を持って、1人の青年からフレディ・マーキュリーが誕生する。

それ以降は幸せな音楽人生を歩むのかと思いきや、フレディの心の中はいつも葛藤まみれのようだった。
バンドが順調に有名になっていく裏で、フレディは自分とバンドメンバーの境遇を比べて落ち込む。皆には家族がいて幸せそうで良いじゃないか、自分だけが孤独なんだと訴えてバンドメンバーと喧嘩する。
世間では大スターとして持て囃される裏で、孤独感を膨らませて自暴自棄になり、信じるべき人を間違える。

まあ何とも、人間なら誰もが身に覚えのあるような情けなさの連続なのである。その姿は、世間一般の人々と何ら変わりのない、等身大の人間だった。

しかし、そんな己の情けなさに負けず、音楽への愛、バンドメンバーをはじめ、側にいてくれる人への愛、音楽を聴いてくれる人への愛を持ち続け、ロックスターとしての自分を貫き通したことがフレディの真髄だったのだと思う。

一般人と同じような悩みを抱えてはいるが、ステージ上でパフォーマンスをするフレディは間違いなくスターで、どのシーンでも最高に輝いていた。しかしその輝きは、才能やカリスマという言葉で簡単に片づけられるものではないと感じた。

物語の最初で、フレディがQueenについてこう語っていた。
Queenは世間のはみ出し者の集まり。はみ出し者たちが、居場所が無くて、部屋の片隅にいるような奴らに曲を捧げる。
人間の孤独や弱さを理解し、そこに寄り添うことができる。こういう人たちの集まりだからこそ、Queenのパフォーマンスは唯一無二のものであり、聴く人を、観る人を魅了したのだと思う。

劇中では、曲作りをしている場面も描かれている。We Will Rock YouやAnother One Bites The Dust、そして映画タイトルにもなっているBohemian Rhapsody。

どの楽曲の裏にも、フレディの葛藤やバンドメンバーとの衝突が描かれていた。

Queenの曲は、高校生の頃からよく聞いていた。いや、聞いていたつもりだった。
でも何も聴けていなかったじゃないかと思った。本当に聴いていたら、「ボヘミアン・ラプソディ」が「成功者の栄光を讃える」だけの映画だなんて思い込むはずがなかった。

そもそも何を達成すれば「成功者」と呼ばれるのだろうか。客観的に測れる指標としては、収入、知名度、人気などがぱっと思い浮かぶ。でもその指標を達成して「成功者」と言われるようになったとして、それは本人が本当に望むことなのだろうか。

この映画の中で観客の心を最も鷲掴みにするセリフは、フレディが言った"I decide who I am"(自分が何者かは自分で決める)だと思っている。

フレディが不治の病に冒されていることをバンドメンバーに打ち明けた時に、「決して哀れんだりなんかしないでほしい。犠牲者でいる暇はない。自分はパフォーマーだ。最後まで皆が望むものを届ける。」という文脈で発した言葉だ。
「成功」というものがあるとしたら、フレディにとってのそれはお金でも知名度でもなく、「パフォーマーとして音楽を届け続ける」ことだったのかもしれない。

映画を見終わった後も、"I decide who I am"が頭から離れなかった。自分が置かれている境遇は変えることができない。でも、その境遇をどう解釈して、どう人に伝えるのかは自分次第で変えることができるのだ、ということを教えられた。

その時初めて、私の価値観は就職活動の呪縛でがんじがらめになっているんだな、と自覚した。世間一般に公表されている、企業の規模や平均年収といった指標に踊らされるばかりで、その指標が良ければ「良い会社」、「良い会社」に入れたら幸せなんだと思い込んでいた。
自分にとっては何が重要なのか、自分は何があれば幸せなのかを考える努力が足りなかったのだ。

でも、どうすればその呪縛から逃れられるのかがわからなかった。もっと何回もボヘミアン・ラプソディを見て、物語を自分の中に落とし込むことができれば、何かが変わるかもしれない。

こう考えて、半ば救いを求めるような気持ちで再度映画館に足を運んだ。

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その日は上映時間ぎりぎりに到着した。通路の真ん中の席を予約していたため、既に着席している人の前を通らせてもらい席に着いた。

左隣の女の人の前を通る際に、その人がポップコーン+ドリンクというフル装備で鑑賞体勢に入っていることがすごく印象に残った。

「映画館の売店なんてすごく高いのになんて贅沢な…。やっぱりこういうの買える人は"良い会社"に勤めているのかな?」
冷静に考えればかなり狂った思考であることがわかる。確かに映画館の売店の値段は高いけれど、学生のお小遣いでも買える。
しかし、まだまだ就職活動の呪縛に囚われたままで、何でも就職に結びつけてしまう私は本気でこう思ったのだ。

その翌日。会社へ行くと、同じ部署の先輩に声をかけられた。
「あのさ、昨日ってもしかして映画観に行ってた?」

なんと、私の左隣でポップコーンとドリンクとともに座っていた女の人は、存在しない架空の"良い会社"で働いている人ではなく、同じ会社で働いている先輩だったのだ。

そのことがわかった瞬間、いかに馬鹿げた思い込みをしていたか、ようやく気が付いた。この出来事が起こったあたりから、"良い会社"とか、そういうよくわからない幻想に固執するのはいい加減辞めようと思うようになった。

映画館で隣になった先輩とは、この出来事がきっかけでよく話をするようになった。一緒にボヘミアン・ラプソディを見に行ったり(私は3回目の鑑賞だったが、先輩は7回目という猛者だった)、2人とも音楽好きということが発覚して一緒にライブに行ったりもした。先輩を介して社内の知り合いが増えた。

ちなみに、冒頭で「(良い大学を出たのに)こんな会社で良かったの?」と言われて傷ついたと書いたが、先輩も私にこの言葉をかけたひとりだった。
先輩とたくさん話をする中で性格もよくわかってきて、あの発言は何気ない声掛けのひとつで、まともに傷つく必要も無かったなと思えるようになった。

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今年で私は、社会に出て6年目になった。そして、個人の幸せは人それぞれで、働いている会社の規模や知名度で決まりはしない、という当然のことがわかるようになった。
会社に限らず、大事なのは「どこに居るか」ではなく「なぜそこに居るのか」だと実感する。同じ場所で同じことをしていても、自分がなぜここに居るのかが明確な人は強い。

また、幸せというものが絶対的でないことも知った。1つの事実に対して、その解釈次第で幸せにも、不幸にもなることができる。人それぞれ葛藤を抱えながら試行錯誤して、自分にとっての幸せを見出していくのだ。全てを手に入れることはできないから、自分にとっての幸せに沿うものを取捨選択していくのだ。

社会に出たばかりの私はこのことが全くわかっていなくて、自分史上かつてないほど視野が狭くなっていた。人生は成功か失敗かの2択しか無く、自分は失敗したのだと思い込み、鬱のような状態になってしまった時もあった。本当に可哀想だったと思う。
できれば当時の自分に会いに行って、「じきに良くなるから、大丈夫だよ。」と声をかけてあげたい。でも、多分聞く耳を持ってくれないだろう。

失敗したと思った就職先で実際に働いてみて、「あれ?意外とそんなに悪くないかも」と実感したり、楽しいことも経験したり、色んな人の話を聞いたりして、自分なりに少しずつ納得していけたから、ようやく呪縛から解き放たれることができたのだと思う。

「ボヘミアン・ラプソディ」を観たこと、映画館で偶然先輩が隣に座っていたことは、呪縛に気付くきっかけとなってくれた。

映画公開からもう5年弱が経とうとしているが、私は今でもずっと"I decide who I am"について考え続けている。

フレディが「自分はパフォーマー」と言い切ったように、自分を一言で表現できるような芯の通った人生ではない。芯の通った人生を歩む人を羨ましく思い、自分と比べて落ち込むことも日常茶飯事だ。

でも、私は以前の自分よりも多くのことを知っている。輝いて見える人にも悩みがあること。幸せは絶対的なものではないこと。

"I decide who I am"への答えが出る日が来るのかどうかはわからない。
でも、わからなくても、情けなくなってしまっても、最終的には「まあいっか」と思える自分が何だか好きだったりもする。
とりあえず今のところはそれで充分なのだ。

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