追記

ところで、そういう命題を突きつけられた時にどう答えるべきか、というのは永遠のテーマなのかもしれないな、ってときどき思う。真摯に伝えることと、いい加減に濁らせることの差異はどこにあるんだろう。それは受けとめる側が感じることであって、人によってはそれが熟考した末の答えとして感じられるかもしれない。ある人にとっては中身のない空虚な答えとして映るかもしれない。その本質はどこにあるのだろう。真摯といい加減とはどう違うのだろう? 

たとえばこれは最初の投稿なのだけれど、あたかもタイトルを何かの続きであるがごとく付けていることで、受け手によっては「なにか元の文章があって、その補足として付けたのだろう」と思うかもしれない(ここでは受け手がいないという前提はなるべく考えないようにする。どちらでもいいけれど)。というよりも一般的に「追記」とはそういう性質の事柄であるのだから。でも元の文章はない。最初からこのタイトルを付けるという行為自体が冒涜なのかもしれない。けれどそれを「冒涜」として受け止めるか「挑戦」「奇抜」などといった類の意味合いで受け止めるかはきっとその人の感覚による。文章の好みもあるかもしれない。こうやって断定しないまま憶測で収束させようとする文体を好まない人にとっては決してポジティヴには受け容れられない。逆に断言しない文章であるがゆえに好意的に感じる人にとっては興味も持たれるかもしれない。文章を書く以上、そうであればいいとは思うけれど。

全ての体験が過去のものである以上、ここで時系列ごとの体験を綴ってもあまり意味をなさない気がするので、どこかへ出かけた時の体験をランダムに残して行こうと思っている。ほんのすこしだけね。もちろん飲んだ分だけ書いてます。そう。飲んだ分だけ書いているのです。だから文章の呂律が回っていないのは致し方ないのである。飲まないと書いてられないけど、書くことが楽しいというのもまた事実。そうやって生きながらえている。


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