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娘の名前が上場してた話

 今日(もう昨日か)、とても感動する出来事があったので書き記しておく。

 夕刻、娘を保育園へ迎えに行ったときのこと。いつものように担任の先生から今日の様子を聞いてから、娘と手を繋いで園を出ようとする。と、娘が「遊んで帰る」と言うので園庭へ解き放つ。

 「遊んで帰る」はもうすっかり日課だ。お腹すいちゃったから早く帰ろうよ、と一応誘いはするも、乗ってこないことはわかりきっている。わかりきっているし、園庭で遊ぶ娘は、なんだか保育園の楽しみ方を誇らしげにレクチャーしてくれているように見えて、見ていて嬉しいのだ。

 さて、我々のような親子は他にもいる。子は生き生きと遊んでいて、親は早く帰りたそうな、でも穏やかな顔つきで見守っている、ように見える。稀に本当にイライラしている様子で、子に無言の圧力をかけながら見守っている親もいるにはいるが、まあそれは置いといてそんなわけで、園庭の遊具には娘だけでなく他にも数人、お迎え時間が重なった子が同時に遊んでいる。

 「一緒に」ではなく「同時に」と書いたのは、みんなそれぞれ遊んでいるからだ。兄弟姉妹や仲の良い子同士はなんやかんやコミュニケーションをしながら遊ぶが、そうでない子は基本的に黙っているか、喋っても親とだけ。特にうちの娘はこの4月に転入したばかりだし、例のウィルスへの対策のためほとんど登園してこなかったので、まだ本人としてもまわりのお友達としてもまだまだ緊張しているのだろうし、これからのんびり関係を築いて行ってくれればいいなあ、と漠然と思っていた。そう。思っていたのだが、今日、それが覆されるものすごい出来事があった。


 よその子が娘の名前を呼んだのだ。


 よその子が娘の名前を呼んだのだ。


 大事なことなので2回書いた。多分これだけでは何がすごいことなのか理解できないだろうから説明する。させて。

 まずは単純に「もう友達ができたのか」である。となりのトトロのお父さんの台詞である。いとしさと切なさと糸井重里である。と挙げておきながらではあるが、これは十分すぎるほどの感動ポイントであるとはいえ、「ああこどもって意外と慣れるの早いのね」で納得できてしまうことではある。正直なところ。

 僕が驚いたのは、「名前を知ってるとは思ってなかった人が娘の名前を呼んだ」ところだ。保育園の先生とか、じいじばあば、親の友達なんかには、親が名前を教えたり、親も一緒にいる場で本人が名乗ったりで、要は彼らが娘の名前を知っているということを僕が知っているので(ややこしいな)、名前を呼ばれたところで特に驚きはない。

 余談だが、保育園で僕が話したこともなければ顔も覚えてないような(失礼)先生が、通りすがりに「○○ちゃんばいばーい」と名前を呼んでくれるのはめちゃめちゃすごいと思う。全員の名前を覚えているんだろうか・・・。尊敬するが、これはまた別の驚き。

 今回は、ただ「同時に」そこにいるだけだったはずのよその子が、娘の名前を呼んだのだ。チューブ型の滑り台を先に滑り、下から「○○ちゃ〜ん、○○ちゃんもすべって〜」と呼んでいたのだ。初めはあまりに想像の外すぎて、聞き慣れた我が子の名前だというのに、まるで聞こえてなかった。ぼんやり耳に入ってはいたが、誰か別の子を呼んでいるのだと思っていた。誰か別に「一緒に」遊んでいる子がいるのだろうなと、気にも留めていなかった。

 何度かその台詞が繰り返され、(あれ?これはもしかして?呼んでる、のか?)とだんだん意識に上ってきたくらいのタイミングで、娘がチューブからずりずりと滑り出てきた。頭から。満面の笑みで。大声を出しながら。ずりずりと。

 その目線や声、弾けんばかりの笑顔が確かにその子を向いていたもので、やっと確信できた。我が子は確かにお友達から名前を呼ばれ、一緒に遊んでいる。子の名前を呼ばれることがこんなに嬉しいものかと自分で驚いたので、その後も少しの間(ばんごはんが近いので)一緒に遊ぶのを見ながら理由を考えていた。

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 娘の名前は夫婦で決めた。当たり前だが名前がなかった我が子に、名前を作ってプレゼントした。つまりこの名前の価値を信じているのは、その時点では僕ら夫婦だけだった。仮に名前をみっちゃんだとすると、自己資金でみっちゃん株式会社を作ったようなものだ。

 そして親や兄弟、友達や保育園の先生たちに名前をお知らせしていく。いわばみっちゃん株を手売りしている状態だ。それでも、目の届く範囲にしか株は行き渡らないので、みっちゃんの価値はコントロールしやすい。

 そしてついに今回、初めて会う人がみっちゃん株を持っているという現象に遭遇した。これはつまり上場したということなんじゃなかろうか。みっちゃん株式会社、これにてめでたく上場です。おめでとう。

 名前の広がりは、そのままその人の活動範囲やコミュニティの広がりを反映していると思う。そういう意味で、今日僕が遭遇した現場は、我が子が親の手と目から離れたところにコミュニティを持っているということを示唆するものであって、それは、親としてめちゃくちゃ嬉しいってのは当たり前だよなあ、と思い至ったのでした。


 あとなんかうまく説明できないけど、名前を呼ばれるって、その人に存在を認めてもらうというか存在の証明をしてもらうみたいな(言霊的な?)意味もありそうだし、複数のソースから情報を得ると信憑性が増すっていう話とも関係しそうだけど、なんというか娘の存在を世界に認められた気がして嬉しかったのかもしれない。ソフトウェアでいうと知らない誰かのパソコンにインストールしてもらえた的な。みっちゃんソフトが世界OSでの動作確認取れました、みたいな。遠いか。


 娘へ。

 君にとってはなんでもない出来事だったかもしれないし、大きくなってもしもこの文章を読むことがあっても、はてそんなことがあったっけ?と忘れているかもしれないね。
 それはそれでいいんだけど、今日の出来事は父にとっては、君が生まれてからの3年ちょっとの中でも指折りの嬉しいことでした。世の中にこんなに嬉しいことがまだあるのかと、君にはいつもハッとさせられます。ありがとう。
 これからも新しいことをたくさん教えてもらうことを期待しているし、君にも新しい世界を出来る限りたくさん見せてあげたいと思っています。
 これからも一緒に冒険しましょう。

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