『伝説なき地』(船戸与一)

「早起きすると、どれくらい得するんですか?」と、塾の生徒に質問されました。「江戸時代の1文は25円でしたから、75円の得になります。しかし、健康は、お金には換算できないでしょうね」酒、たばこ、不規則な生活などがたたって、すでに無に帰した友人は少なくありません。まこと「後悔先に立たず」です。

若いころ師事していた直木賞作家の船戸与一さんは、酒飲みで、たばこを日に100本も吸っていました。当時の私はシュラフ持参の無宿人で、よく泊めてもらったから知っているのですが、彼は、朝起きられない人でした。だいたいお天道様が昇り切ったころ、ごそごそし始め、ふたりで荻窪の中華食堂に行くのでした。健康的とは言えない生活でした。部屋は散らかり放題、畳が見えませんでした。彼は、自堕落を自覚していましたが、「別に長生きしようとは思わねえ」と開き直っていました。彼は、洞察力の人でしたが、自らの洞察通り、老いて肺ガンにかかり、数年間の入院生活の後、2015年、71歳で天国か地獄に行ってしまいました。強健で、一腹太い人でした。余命1年と言われながらも、しぶとく数年生きて、大作『満州国演義』を完成させました。創作への執念が彼を長らえさせたのかもしれません。老いても好奇心は枯れてはおらず、もっといろいろ書きたかったに違いありません。

船戸与一さんは、ルポライターから小説家に蝶のように華麗に脱皮した人でした。『ゴルゴ13』のゴーストライターなどもやっていました。「だいたい一話80枚なんだよな。最後に標的の眉間に風穴を開ける時は、快感が走ったよ。しかし、最近は、快感がなくなったな。そろそろ止めないとな」と話していました。当時、私は、彼の口利きで『POPEYE』(平凡出版)の専属ライターをしていました。デスクは、西木正明さん、やはり早大探検部の先輩で、後に彼も直木賞をとりました。今考えれば、何と豪華な人材の間をピストンしていたことでしょうか。誰も信じないと思いますが、船戸与一さんが最初の小説を書くとき、「成川、講談社から小説の注文があったが、小説というのは、どう書けばいいんだ?」と聞かれました。当時、彼の主宰する『真砂』という同人雑誌に私がいくつか小説を載せていたからでしょう。

船戸与一さんは、小説を書くために生まれてきたような人でした。ドストエフスキーのように、小説を楽しんで書いていました。やや類型化してはいますが、物語が泉のように湧き上がってくるのでした。最初の小説が、『非合法員』ですが、私は、あれはあまり感心しません。それなりの評価もあり、彼は自信を持っていましたが、その後の超ど級の大作の群と比べれば、駄作です。その他の作品は、ルポでも小説でも人間造形の奥行きがとても深く、完成度が高いと思います。世に出てからの彼は、はにかみからか、やたら悪ぶっていましたが、私は知っているのです。彼は、倫理観の強い、心の温かい人でした。彼の混沌この上ない作品世界を背後で支えているのは、実は、高い倫理観のように思います。探検家としての取材能力も非凡でした。彼のスケールに匹敵する作家は、古今東西どこをどうさがしても見つからないでしょう。

朝日新聞記者を9年やってから退職し、現在、韓国で映画評論家のような仕事をしている娘が、中学時代に「お父さん、何かおもしろい小説なーい?」と聞くものだから、船戸与一さんの『蝦夷地別件』を勧めました。長編ですが、すぐ読み終えて、娘が言いました。「どうしてこんなにおもしろいの?」

私は、船戸与一さんの作品の多くを読んでいるのですが、『伝説なき地』(上下)が最も心踊りました。結末はいつものように皆殺しの挽歌で、主人公たちの命がけの活躍は、「無駄な抵抗」に終わっていますが、……。彼が、『硬派と宿命』(ルポ)を書き上げた時、私は彼に質問しました。「硬派は権力に立ち向かって行きますが、必ず負けますね。負けるとわかっていて、どうして立ち向かって行くのですか?」すると、彼は、苦虫をかみつぶしたような顔になって応えました。「それは、心の満足の問題だよ」彼は、生涯独身でしたが、この「心の満足」を恋人にしていたのかもしれません。

私は、東京からはすっかり心が遠のいていて、お世話になった船戸与一さんにもご無沙汰していました。最近会った探検部の同輩によると、「成川は、作品が出るたびに感想を送ってくれて、かわいいんだよな」と話していたということでした。私が早大に入学した時、彼は、法学部の6年生で、まだ学生でした。「なかなか卒業させてくんねえんだよな」とこぼしていました。

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