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(連載7 最終稿)ポストコロナ時代の大学選び

7. 大学が変わるための処方箋 

 7.1 問題点の整理
 

 前章までにいろいろ取り上げてきた日本の大学の問題点を簡単に整理してみます。
1)大学全体について
1)18歳人口の減少、進学率の飽和で今後大学進学者は漸減する。大学を選ばなければ志願者全員を大学に収容できる時代が来ている。少しでも偏差値の高い大学に入りたいという競争があるため、定員割れする地方や小規模の私立大学で経営困難校もでてきている。
2)大学卒業のためには国公立大学であっても、私立大学ではさらに高額な学費を必要とするが、現状では卒業して会社等へ就職してもその費用に見合う収入が得られていない。無利子の奨学金であっても、まして学費ローンの返済は卒業後の生活のなかでかなりの重荷になることが予想できる。
3)国際的にみた大学の評価はアジア新興国の大学の後塵を拝するようになってきている。
4)学力の低い学生も入学するようになり、学力補充のために補修や初学者教育を実施している大学が増えている。
5)国際的にみた研究のレベルも低下してきている。大学院の博士課程進学者も減少している。博士の学位を得ても研究者のポストがない。企業も博士課程の修了者を採用する熱意がない。
6)コロナの収束がいつの時期になるかによるが、オンライン授業の効果を評価し、今後、対面授業とどのように組み合わせるかを真剣に考えていく必要がある。
7)新型コロナの流行につれて社会そのものが変化しつつある。リモートワークが推奨され、仕事は必然的に従量制、成果評価に変わる。大学を卒業して一斉に正社員として採用され、そのまま在籍していれば定年まで安心だという世界は過去になりつつある。

2)国立大学法人について
 運営交付金は法人化後には10%以上減少しています。交付金の80%は教職員の給与であり、魅力のある給与体系をつくることができません。長期的な人事計画ができないため、若手教員については任期無し雇用から任期付き雇用で採用せざるを得なくなっています。あるいは給与の少ない任期つき特任教授の採用も増えています。光熱水料など大学維持のための経費が増加しており、消費税増税などの影響も大きく、人件費支出がさらに窮屈になっています。施設整備にかかわる経費は運営交付金とは異なる予算建てとなっているが、その予算は低いままで抑えられ、経年50年以上の老朽化施設が増えています。留学生宿舎、外国教員用宿舎なども未整備であり、米国はもとよりアジア新興国の大学と比較しても魅力あるキャンパスとなっていません。
大学改革答申への対応、中期目標・計画の作成、あるいは各種競争的資金の申請書準備に対応する時間が増えて、教育、研究に費やす時間が減少しており、有能な教員ほど教育・研究以外の作業に追われているのが現状です。
 以上のような問題については2015年(平成27年)に国大協がデータを挙げながら「国立大学法人の直面する問題点」として詳しく発表していますが、あまり社会の注目を集めたとも思えません。国立大学に対して国の財政支出を増加して欲しいという要望書にとどまっており、大学をどのように改革していくかという展望が抜けていることが原因です。確かに、国の教育に対する公的支出は対GDP比でOECD加盟国中34位の最低であり、国が高等教育にもっと財政負担を増加させるということがなによりも重要ということは強調しておかなければなりませんが、国の財政事情の現実と、いったん高等教育の市場化に舵を切ったかぎり、国立大学側の方が抜本的な再生策を模索しなければならない状況に迫られているのではないでしょうか。ただ、断っておきたいのは、文科省、政府、政治、経済、基本的には社会の大学に対する認識を根本的に変えないと 大学だけがどんな再生案を提案しても実行は困難であるということです。

7.2 国立大学法人の統合再編の提言
 

 法人化が開始したときは一大学一法人のシステムでありましたが、地方の小さな単科大学は合併再編した方が効率的な運用ができるということで、北見工業大学、帯広畜産大学、小樽商科大学で2022年(令和4年)を目途に合併して一法人を目指すことで合意したと報じられたりまています。また、名古屋大学と岐阜大学にも合併再編の動きがあることも報じられています。単科医科大学の地域大学への合併は浜松医科大学を除いてすでに終わっていますが、静岡大学との合併で、しかも工学部は浜松市にあるので医工学の分野で新機軸が期待できるということでやはり浜松医科大学でも合併の話が進んでいるようであります。合併再編については文科省も賛成のようで積極的な法律改正を考えているようであります。この合併再編の目的は法人として効率的な運営が可能になり、財政規模の小さな大学にとっては運営経費の節減にもなり、教育・研究費が捻出しやすくなることはもちろんでありますが、なによりも法人によって財務、人事、企画等を担当する専門職員が不足している事実を解消したいという期待もあるようです。もともと大学の職員の採用は法人化におけるこのような業務を想定しないで来ています。すなわち、法人化前は事務部門の課長クラス以上は文科省の天下り職員で占められてきたこともあり、他の大学職員はこれらの上司の指示に従って丁寧に仕事を進めることができるかという基準に採用されていました。法人化以来16年も経過すれば新しい基準で採用された職員もいることですし、この間に研修で新しい体制に慣れてきた職員もいるででしょうが、しかし役職員のほとんどが法人化前の職員であります。したがって、各部門のトップは教員である副学長が責任者となっている大学も多く、副学長もリーダーの学長も教育・研究以外ではプロフェッショナルではないので、法人としての執行体制は弱体であるといわざるを得ません。また、中期目標・計画の策定や評価資料の作成、相次ぐ改革策に要する資料作成など事務作業も含めて大きな法人としてまとまることが人的資源からみても大きな意義があるのではなかろうか。距離は遠いがさきほどの北海道内3大学一法人というのは、単科の専門分野もまったく異なるので総合大学に近くなる。これに旭川医科大学と室蘭工業大学が参加すればなおいいと思っている。名古屋大学と岐阜大学の場合は経済圏は重なるものの、同じような学部が複数重複するので前3者の大学の合併再編より難しくなりそうなのでどのような結論が出るのか興味深いところです。
 筆者は、国立大学の受け入れ学生の定員の見直し、したがって教員の人数も見直しなどを考慮しながら、とりあえず合併再編で国立大学法人の整理をすることに賛成であります。大学の自治を尊重する限り、大学自自身で決心してもらわなければなりませんが、戦後新制大学として発足した経緯が各地域の大学で異なることもあり、日頃は無関心でも合併統合となると市民や県民の反対、自治体の反対が必ず出てくることが予想されます。同窓会も反対します。大学教員自体、危機感を感じないでこのままでよいという反対者、地域の大学は守るという民族主義者が必ず出てくることは間違いありません。確かに、地方にある国立大学は高等教育の機会均等のための役割を果たし、地域における経済効果をもたらし、地域の市民に対する学び直しの機会を提供してきています。しかし、国の大学運営や設備整備の財源措置の強化がなければこのままそれぞれの大学がじり貧になることは明らかであります。現在のキャンパス当分そのままにして、大学名も変えないでまずひとつの法人としてまとまり、その後に大学内の学部やキャンパスのについてよりよい選択と集中を十分議論して決めることにしたらどうかと考えています。 国立大学の合併・再編など夢物語といわれるのを承知で少し頭の体操をしてみます。まず、大学同志の合併再編というのは、法人としての合併再編であり まず、小中校の教員養成は単科の教育大学に任せるということをはっきり方針として出して、このような教員養成系大学は目的が同じであり、法人としての目標もあまり変わらないはずであるので同一法人にしてはどうかと提案します。北海道教育大学、宮城教育大学、東京学芸大学、愛知教育大学、上越教育大学、京都教育大学、大阪教育大大学、兵庫教育大学、鳴門教育大学、福岡教育大学、奈良教育大学の11大学が該当します。これで一法人、東日本と西日本と分けても二法人となります。同じ趣旨で長岡科学技術大学、豊橋科学技術大学で一法人、お茶の水女子大学と奈良女子大学で一法人とはならないでしょうか。同一県内にありながら、医科大学が単科大学になっているところ、たとえば、前述した浜松医科大学と静岡大学、滋賀大学と滋賀医科大学とそれぞれ一法人にはならないかと考えます。旭川医科大学は北海道の三者合併・再編に加わります。さらに、地域を大きくみて、北東北では弘前大学、岩手大学、秋田大学の三大学、筑波大学と茨城大学、北関東では宇都宮大学、群馬大学、埼玉大学の三者、東京では東京農工大学、電気通信大学、東京外国語大学、東京海洋大学の四大学であまり専門領域が重複しない合併となります。北陸地域の金沢大学、富山大学、福井大学、山陰地区の鳥取大学、島根大学、山口大学の三大学、四国であれば徳島大学、愛媛大学、香川大学、高知大学の四大学、九州では佐賀大学と長崎大学の二大学、大分大学と宮崎大学の二大学などが考えられます。広域での合併・再編は東京地域を除けば似たような学部が重複設置されているので効率を考えると選択と集中せざるを得なくなると思います。合併・統合して法人を減らすというのは前述したように大きなメリットがあると思いますが、実際には、教員採用数が激減して各地域での教育学部が不要になることも分かりながら、20年かかっても改組、廃止などの措置を十分とりえない大学も多いのが現実であることから難題ではあると思っていますが、これはまず取り合えずの提言であります。もっとドラスチックに変える必要があることは後述します。

7.3 中期目標・計画と国立大学の役割の再考
 

 現在、国立大学は第3期の中期目標・中期計画に基づいた法人経営の中途であります。各国立大学の中期目標、計画については文科省が毎年度認可したものを文科省のHPに公開しているのでいつでも読むことが可能であります。各大学の目標と計画を比較してみると、頭についている大学名を外してみるか、大学名を取り換えてみてもあまり違和感がありません。つまり、教育・研究、業務運営の改善、財務内容の改善、自己点検・評価などについては細部は異なる表現になっていますが、どこの国立大学についてもほぼ同様の内容の目標が設定されているのであります。ほとんどの新制大学では心豊かで、自立心のある専門性の高い人材の養成を目指すことを目標にするといってますがこれはあたりまえのことを繰り返しただけで。さすがに、旧制帝大は世界的なリーダーを育成といいきっているところなどが少し異なるようですが、国際化、FD,シラバス、アドミッション・ポリシー、カリキュラムマップ、地域や社会との連携、インターシップ、学長のリーダーシップなどという中教審答申で出された単語と方針が随所に散りばめられており、基本的にはまったく横並びで個性がありません。われわれが知りたいのは、世界のリーダーを育成というならば、どの分野でどのように活動できるようなリーダーをどのぐらいの人数養成するかなどを知りたいと思うし、地域との連携であれば、どの分野でどの相手と具体的になにについて協力するのか知りたいのであります。そこまで踏み込ん初めて他の大学ではまねのできない個性が表われるのはないのか。研究論文を権威のある学術雑誌に5年間で○○編以上という計画もありますが、どの研究領域(複数でもいい)を中心にしてなのかが明示されていなければ大学の特徴が少しも伝わってきません。このような問題を含めて、文科省の中期目標・計画認可、毎年度のチェックは形式的なものに過ぎないのではないかと疑ってしまいます。

7.4 国立大学の大改革の提案
 

 もう少し大胆に国立大学改革案を提案してみます。
 まず、大学の本来の役割は高度の教養と専門知識を身につけた人材を育成することにあるのは言うまでもありません。米国の大学の教員は教育のプロフェッショナルといわれています。研究が一流でなくても、あるいは年齢を重ねたり、研究領域が話題でなくなって競争的資金を得ることが難しくなっても教育のプロとして評価されていれば給与が保障され、仕事ができるかぎり定年さえもなくいつまでも勤務できるようになっているます。これに対して日本の大学教員の場合は、どの大学であっても教育と研究の両者を仕事の遂行を求められます。どこの大学でも教育より研究の方で教員の資質・能力を評価する傾向にありますし、教員の採用基準もまずは研究業績であります。しかしながら、学部教育としては、教養教育、語学、情報リテラシー、学部による専門基礎科目をしっかり身につけさせることが重要であり、研究の延長上にある先端的な知識や学説を習得することはあまり必要はないのではないだろうと考えます。さらにこれらの高度な専門知識を学ぶためには大学院修士課程、研究者を目指すならば博士課程とすればよいはずです。つまり、すべての国立大学が教育と研究の両者にこだわるのではなく、教育が主、研究は従という大学があってもいいのではないかと思います。言い方を変えると研究の合間に教育をするのではなく、教育の合間に研究することもできるというシステムにするのであります。教育に重点をおくならば、一人の教員がもっと多くの教科の講義を担当できるし、学生に手間をかけることができるはずであります。教育においては人件費はコストではなくリソースであります。教育に対するリソースと割り切りをして教育へもっと力と時間を割くことができるようになれば、全体的に教員数を減らして給与を上げることもできるはずです。例えば学部教育でいえば、講義2教科、4単位を通年で担当するならば、週1回、90分から100分の講義をすることになりますが、これ以外の時間は講議の準備や学生に課した課題の採点に十分時間がとれるはずです。オフィス・アワーはもちろんのこと教科書執筆や調査研究の時間もとれるはずであります。ゼミや実験指導があるといっても準備を含めてやはり十分な時間の確保できます。設備整備も研究棟の増設ではなく、学生が快適に勉学できるためのキャンパス整備に力を注ぐこともできます。教員の給与の年俸化という提案も文科省からあるようであるが、ジョブ型給与システムとして、担当講義数、ゼミ数、卒業研究などの担当時間(単位)で給与を決める方法もあるのではないでしょうか。教育主、研究従の大学では大学院も廃止するようにします。
 一方、研究を主とする大学では教育は大学院生のみとして学部学生を募集しないようにします。いわゆる大学院大学であります。この場合は研究遂行のための給与が支払われる。基礎研究は10年程度の期間、応用研究は5年間を一区切りとして研究に専念すれば研究者としての業績の評価もできるでありましょう。研究には個人的能力のほかにテーマの選定や運も伴います。努力したからといって必ずノーベル賞級の実績がでるわけではありません。また、後年になって評価される研究もあります。いずれにしても大学の研究というのは個人の能力にかかわる問題であり、企業のようなチーム力で行うということは全く異なります。このような大学院大学、あるいは研究大学を基幹校として、複数の学部教育主体校が一つの法人となれば、学生の大学院進学、研究から教育へ移りたい教員、あるいはその逆の人事も法人内ということで現在より容易になるではないでしょうか。研究大学ではキャンパス整備より研究棟、外国人教員用宿舎、留学生宿舎の整備に力を注ぐようにします。
 国立大学の入学定員は約96千人、公立大学は約29千人、私立大学は約478千人である。私立大学は最近定員の超過に関しては文科省が厳しい態度を示しているが、平均して定員の1割を超える人数を入学させています。国立大学は平均して志願者の16%を入学させていることになる。基幹研究大学を旧制帝国大学として学部学生は募集しないとなると国立大学の定員は17千人ぐらい減少します。今後の18歳人口の減少に対応して、各大学が一律に定員を減らすより前向きな対応策となるのではないでしょうか。東大あるいは京大卒業というようなエリート学閥を無くするためにも役に立ちます。この案は戦前の旧帝大と旧制大学に対する旧高等学校、あるいは戦後の学科目大学と講座制大学に戻るという批判もありますし、旧帝大だけが優遇される結果になるという批判もあるでしょうが、すべての国立大学が平等に衰退していくことと比較すればこのような形の選択と集中を決心する時代に面しているのではないでしょうか。
 ここで初めて先に提案した、地域ごとによる国立大学法人の合併が有力になります。地域ごとに研究を中心とする国立大学法人○○大学を置き、教育を主とする大学はそれぞれの地方における○○大学▽▽校とすればよいのではないでしょうか。

7.5 カリキュラム、シラバス、セメスター・クオーター制

 前にも述べたように、理工系でも人文・社会系であっても、対面では講義:演習、実験などは30人、多くても40人ぐらいのクラスでないと学習効果があがりません。教養、人文・社会系の教科では大教室で100人を超えることがあります。これでは学生も教員も授業に集中できないし、互いに緊張感も得られません。このような人数での教育を実現するための方法としては、学科単位で募集しているところでは募集定員を減らすことであります。募集定員を減らせば当然偏差値が高い方にシフトするので、より優秀な学生を入学させることができますが、入学定員を減らすことは大学経営に直接影響を及ぼすため実際に実施するのは難しいかも知れません。募集定員を変えずにクラス人数を減らすには担当者は違っても同じ教科の講義を同時に複数提供することはひとつの解決法です。教室数の問題はあるが教員側の努力で解決できるはずであります。また、一部の国立大学ではすでに実施されているが、たとえばある学科が学生60人を募集するとすれば、学科内に二つ以上のコースを編成する。共通した基礎科目があっても合併授業は行わないことを原則にすれば30人以下の授業も可能であります。
 オンラインでの講義に関してはまだ評価ができていません。オンライン講義では、少人数であれば双方向で講義をすることは可能ですが、大人数では一方的な講義に終わってしまう可能性があります。ただ、録画を可能としておけば本人次第で何回も繰り返し見て勉強できることはメリットとなります。問題は単位を認定するための試験をどうするかということになります。大学でのコミュニテイが出来ている高学年の学生に対してはオンライン授業、初学年の学生に対しては対面授業とするなどの工夫もあるようですが、学生には確かに大学へ入学したという喜びを味合わせてやりたい、孤立しないように友人ができる機会を与えたい、サークル活動や部活動に参加する機会を与えたいという大学の気持ちはよく分かりますが、感染対策が十分でない今の大学では無理なことかも知れません。実施するとすれば少人数コースを編成して、担当教員や職員を置きながら注意深く大学での生活管理をすれば別かも知れませんが、大学に入学してまでも学生は生活指導を望むとは思えません。やhり,ひとつ大事なことは大学で学ぶということは、あくまでも知識や知識の応用などの社会に必要なキャリアを磨くことであって、 サークル活動などでコミュニティをつくることでもなければ、社会へ出るまでのモラトリアム期間でもないということに気が付くべきべきであります。そのような期間と考えてしまうと前にも述べたように学費のコストパフォーマンスはまったく釣り合わなくなります。
 さて少人数でのコースを編成するためには、大学就学後のコース終了後に得られるべき国家資格、社会的評価などのキャリアをはっきり示すことが必要です。また、そのためにはそれぞれのコースにおける必修、推奨、選択必修、自由選択科目などの4年間のカリキュラムマップあるいはカリキュラムフローを示すとともに、シラバス集が集で終わらないためには、大学としてはしっかりとマップとのひもづけを明確にしておく必要があります。
 学期をセメスター制にしている大学がほとんどでありますが、あえてクオーター制にしなくても、90-100分で15週、2単位を7.5週で週2回の授業あるいは週3回で5週間ということが勧められます。これはオンライン授業であっても変わりません。理由はアクテイヴラーニングというならば予習・復習の機会を催促するためにも週2度あるいは3度ぐらいは顔を合わせて学習指導をした方がよいと考えるからであります。また、5G時代に入ってきているのでもっとクラウドを使ってe-ラーニングを活用した方がよいと考えます。講義を録画し学生に付与したID、パスワードで帰宅してからもオン・デマンドで復習などができるようにすることもよいし、試験前に講義を聞き直すことも可能になる。授業の現場では後からでてきた疑問をメールして次の授業で答えるなど、工夫次第で学生の学習意欲を高めることができるのではないでしょうか。アップロードする講義画面は担当者が毎年改定してもよいし、あるいは2,3年そのままにしてもよい。講義に対する学生評価を実施せよという意見も聞きますすあまり意味はないように思います。分かりやすかったか、あるいは分かりにくかったなどということは、学生の学習に対する熱心さや基礎知識の量が大きく影響するからです。講義録画画面を学内の誰もがみられれば教員同士の相互評価も可能であり、他の講義でどの程度のことを学習しているのかがシラバス以上に分かって参考になります。
 また、厳格な成績評価も答申で求められているが、これは当然のことであります。レポート、出席などを総合的に評価して単位を認定することになりますが、年間に修得すべき単位最低単位を義務付けておく方がよいでしょう。 2年間でこの最低必要単位の修得ができなかったときには退学勧告するというように厳格に進級の条件を定めるのもよいかも知れません。いったん入学させれば卒業させるという日本の大学のシステムが間違いであり、成績不良であれば躊躇なく退学勧告を出すということで、卒業者はやはりそれなりの高度な教養と知識が備わっていることを社会に信用させることが大事であります。
以上の提案は、中教審の高大接続改革:「三つのポリシーに基づく大学教育改革のなかの二つ:1)卒業・学位授与方針、2)教育課程編成・実施の方針の明確化に合う改革でもあります。

7.6 入学試験、入学時期


 三つのポリシーのもう一つは、3)入学者受け入れ方針、いわゆるアドミッション・ポリシーであります。前にも述べましたが、このアドミッション・ポリシーはどの大学のHPをみても、結局は「優秀で意欲のある志願者」というように読める内容なっています。この表現がもっと具体的にならないと受験生にはあまり役にはたたないことは明白です。学部、学科、あるいはコースで大学の目指す人材養成、キャリア形成には方針があるはずであります。このために必要な項目と要求する基準を具体的にはっきりと示して欲しいと考えます。
 筆者は大学入試共通テストの実施については、1)記述式テストの採点が不公平になりやすい、2)英語について民間業者の資格・検定テストの利用は経済的負担も大きく、地方の受験生には不利であるという今回導入の延期をした理由が解決しても、思考力・判断力・表現力が評価されることで偏差値による大学の輪切りという従来の共通一次テストや大学入試センター試験に見られた問題が解決されるとは思いません。自己採点ができ難くなるということはありますが、受験産業は数年もしないうちに新テストによる大学の偏差値による順番づけを行ってしまいます。したがってやはり大学の偏差値に輪切りという根本的な問題を解決しないとどうにもならないと考えます。したがって、このような全国一律試験は廃止にして、AO選抜と大学の個別試験による選抜というように簡易にした方がよいのではないかと考えます。高校の学力の到達度ということならば、答申のなかで議論された「高等学校基礎学力テスト」(仮称)の実施で十分ではないでしょうか。後で大学入学時期を変えることを提案しますので、このテストを高校3年の卒業間際に実施することにより十分高校における学習時間を確保することができます。
 AO入試合格は9月ごろに決まってしまい、合格者は高校の勉学に身が入らなくなり、多くの大学ではAO入試合格者に対して補修授業を行わざるを得ない状況になっていることも聞きます。また、就職後の学生採用ではAO入試合格者を避ける風潮があることもいわれています。結局、大学の教育の質がまったく信頼されていないということになります。米国のようにすべてAO入試で学生を入学させるためには、それなりの経験と情報の積み上げが必要であり、日本でそのまま取り入れることは困難であります。しかし、このままでは根本的な入試改革はできないことになります。したがって、まったく違った発想で考える必要があります。ひとつは大学を秋入学にして大学の入試選抜は高校3年を卒業してから行うことするということも考えられます。入学者選抜はAO入試に約半年ぐらいかけて丁寧に行います。受験者は「高等学校基礎学力テスト」結果と内申書、課題エッセイなどを合わせて志願することにします。秋入学の問題は新型コロナによる小中高の休校が長かったこともあり、一度議論に上がりましたが、社会がそのような雰囲気ではないため議論するのは時期尚早ということで打ち切られましたが、大学だけならばセメスター制やクオーター制を厳密に実施すれば可能です。文科省はアドミッション・オフィスの強化を要請しているが、専門のスタッフの養成をするための時間が必要でありますが、当分は教員が中心に選抜を続けざるを得ませんけれども、前述の教育を主とする大学においてはこのための時間は十分確保できると思います。また、個別学力試験を受験する場合は遅くても7月ぐらいまでに入学が決まるぐらいでどうだろうか。入学校が決まればアルバイトで社会体験するのもいいし、海外英語学校への旅行などで識見を広げることもよいと思います。

7.7 就職問題
 

 現在、大学3年生の3月に説明会解禁、大学4年生の6月に採用面接という従来の方法を経団連は廃止するということになっていますが、混乱を防ぐためこの時期を踏襲するというのが文科省の考え方であります。採用を予定している企業は、この約束には必ずしもしばられないからさらに前倒しということもあり得ます。大学1年生や2年生のときからインターシップを行い、もっと早めに内定をもらうことが有利という勧めも聞こえています。学生はネットを通じてあちこちの企業へエントリーシートを提出することになっています。しかし、この新型コロナ流行のために採用を減らす企業も多くなっており、また、通年採用に切り替える企業も増えていることから従来の就職のプロセスが適用されるかどうかも怪しくなりました。
 もちろん、就職活動は学生にとっては社会へ出た後の生活にかかわる重要なことであることを認めますが、大学3年生の3月に説明会で4年生の6月に内定というスケジュールでさえもともとおかしいとは思いませんか。学位授与、卒業認定を厳格に行うことになればその時点では卒業できるかどうかさえまだ分からない状況のはずであります。大学生が4年生になったとたん就職が内定するまでは講義や実験などは上の空でそわそわして落ち着かないというような状況のなかで、経団連などが4月の一律採用の廃止、通年採用、また終身雇用を前提としないジョブ型雇用の採用ということを提案したことは歓迎すべきことです。卒業期の一括採用は廃止するという転機にしてもらいたいと思いますし、日本の大学が4月に入学、3月に卒業という制度を変える契機にもなるはずです。在学生にも、今後の社会が終身雇用ではなくジョブ型の働きに変わり、AIの発達で不要になる職種も多くなる。いま積み上げている知識やスキルがキャリアとして重要になり、転職など普通になることを徹底的にガイダンスし、在学中は勉学にいそしみ、卒業認定を得ることに専念するように教育するのが大学の本来の使命ではないでしょうか。

7.8 結びに変えて

 これまでの連載のなかで、新型コロナの流行がなくても現在の日本の大学は、教育も研究も世界の水準から低下しつつあるということをデータを挙げながら指摘してきました。この原因はいくつもありますが、度重なる審議会の答申、あるいは文科省の目指す方針が大学の教育と研究を市場化、商業化した結果といえましょう。4年間に学生あるいは保護者が支払う学費も結構高額であり、コストパフォーマンスでみてもあまり有効な投資となっていないことがご理解できたと思います。また、この状況を変えるには、小手先の修正や改革ではもはや追いつかないということもお分かりになったと思います。
 筆者が国立大学に在籍していたこともあって、主として国立大学法人の大改革だけを取り上げましたが、私立大学はそれぞれ建学の精神や経営方針がありますから、改革の意思さえあれば国立大学法人と違って比較的自由に動くことが可能であると考えています。
 ポストコロナのなかでデジタル社会がさらに進み、どこでもいつでもオンラインで講義を受けられ、さらに単位認定も的確にできるようになれば、実習や実験が必要なキャリアが形成を除けば、大学が定めた所定のコース単位124単位を就学期間にかかわらず習得すればそ大学卒業の資格を与えるというということにして、学費は単位当たりで設定すれば入学時期、入学年齢にかかわらず、キャリアアップの機会が増える。もちろん、入学定員も廃止するので入学選抜試験もなくなる。限りなく、現状の放送大学校に近い制度になるが、学位を取得した大学名にこだわらず、本人のキャリアや能力を評価するようになるような社会が実現すればこのようになる。世界はもっと早く変わるかも知れない。日本の茶の間で勉強すればハーバード大学の卒業資格をもらえるかも知れないのである。(終わり)
(連載のカット写真はハーバード大学の中庭の風景を筆者がかつて撮影したものです。)
 


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