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「北方領土返還要求運動強調月間」の札幌と岩見沢―イベントと展示を少しだけ見る―(2023年8月。写真中心。その1)

「北方領土」に関して、北海道とその他の地域とにはいわば温度差がある。
私の記憶では、1960年代から70年代の頃は、町のあちこちに「北方領土返還」に関する旗やポスターが見られ、学校(小学校や中学校)でも、社会科の授業で北方領土に関する説明にかなりまとまった時間が取られていた。個人的な記憶では、高校の社会科の教師の一部(最も強烈なのは一人)は今思っても相当の左翼思想の持ち主で、徹底的な日本の「国体」批判をベースに授業を進めていた。その先生の授業を含め、高校で北方領土に関する話が出ることは少なかった。しかしその時期はどうやら巷における北方領土返還の旗やポスターが減って行く時期に当たっていたらしい、と今振り返ることが出来る。1970年代後半の時期であるが、私の言う旗やポスターの数が本当に減っていたのかの真実は分からないので、印象に過ぎないが。因みにその頃私が住んでいたのは横浜の中心から少し南に行った辺りである。
しかし勿論、北方領土という言葉が人々の間から全く消えてしまった訳ではない。特にソ連崩壊後の数年間、エリツィン政権の時代(日本は細川護熙政権、橋本龍太郎政権)や、その後の安倍晋三政権(ロシアはプーチン政権)の時代には、北方領土は、「返還」という言葉とのセットにおいて大きな話題となった。ロシア・ウクライナ戦争の勃発以降は、北方領土との民間交流が途絶え、人々の関心を惹いている。(北方領土を巡りロシアと日本の間で何らかの活動を長年続けて来た鈴木宗男の支離滅裂な言説のバックにも、常に北方領土の存在があるのではないかとも推測される。)
しかし北海道に来て見ると少し様子が違うのは以前から感じていた。実際、「北方領土返還」に関する旗やポスターや立て看板などは、少なくとも「本州」よりは多く見かける。散歩していると、何気ない町角に現れることが何度かあった。北海道は地理的に北海道に近く、歴史的にも北方領土(及び樺太や千島列島)と関連が言うまでもなく深い。と言うより北方領土の歴史は北海道の歴史の一部である。また最近のロシアによる北海道さえ自分のものだと言い出しかねない(と言うより言ってしまっている)態度(恫喝)を見ていれば、具体的に心配になるのは当然のことだ。
私の研究・思考の文脈においては、私が『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』(新曜社)という本で唱えた物語戦(Narrative Warfare)との絡み、特に日本の物語戦との絡みでは、北方領土もまたその一つの重要なキーワードとなる。日本には、ロシア・ウクライナ戦争を巡ってはウクライナの自衛権を認めず、ウクライナはさっさと降伏・停戦せよと主張した勢力(橋下徹や鈴木宗男は分かりやすいが、その他和田春樹東大名誉教授、映画監督想田和弘等々大勢。その一部は上掲書で取り上げた)がいる。さらにびっくりしたのは、今回のハマスによるウクライナへのテロ攻撃に当たって、イスラエルの自衛権を認めず、あまつさえ自衛権を行使するイスラエルは残酷だとする勢力がマスコミの大勢を占め、それだけではなく日本政府はその立場を取り、G7の一角から脱落したことである。つまり、どんなに、何をやられても、じっと耐えて・辛抱して、破壊され続けるのだ、というマゾの本性が完全に染み付いて、おまけに他者に対してすら窮極のマゾヒズムを求めるようなとんでもない変態達が、日本のマスコミや政権中枢部を占めていることが、どんどん明らかになっている。

そのような文脈から論理的に推論(演繹)してみると、北方領土は、これを取られても、そのきっかけとなった大日本帝国の暴虐は誠に許しがたいものであった、それに義憤を感じた、理想共産主義建設の夢に燃えたスターリン閣下とソ連国民が北方領土を日本帝国主義の手からもぎ取り、自らの手で理想の社会を作るための一つの場として利用するに至った顛末は、誠にもって理想の事態の流れと考えた方が良いものである。つまり結論としては、日本は「北方領土を取られた」というレトリックを使うのはやめて、「北方領土を差し上げた」と(真実をより反映した表現に)変えて、北方領土の開発をして下さるロシア様を支持・支援するべきだ、といったことを言いだす輩とて出かねない。論理的には、「(無駄な?)抵抗をやめて北方領土は諦めろ」という論理を主張する輩が多く存在することは、恐らく明らかである。
思想以前に、意識の問題が大きいのかも知れない。一旦マゾの快楽にどっぷり嵌ってしまうと、快楽という感性が思想という論理を支配してしまうのだろう。すべてを投げ出して丸裸になり、ケツや全身を叩かれ続けることの快楽に、抵抗する術がなくなってしまうのだろう。かつて御主人様はアングロ・サクソン系白人でなければならなかったが、今や、黄色人種でも、アラブ系でも、スラブ系でも、誰でもお構いなしだ。マゾの快楽のためには人種差別も撤廃してしまった。但し、ユダヤ人差別だけは行っているのが、現今の日本人だ。ナチスの残党か。マゾナチス。冗談にもならない。

前置きはこの位にする。
私は今年の七月頃、何処かで、「北方領土返還要求運動強調月間」という言葉を見つけた。どうやらこれは日本政府主導のもので、毎年2月と8月が強調月間として定められているらしい。知らなかった。今年(令和5年、2023年)の8月も、全国規模で強調月間の行事やイベントが行われていたらしいが、その当面の最大の目的は、人々の意識啓発と基礎知識の涵養にあるのかと思われる。そこで、推測では、「本州」よりも北方領土に対する意識が高いと思われる北海道に行き、強調月間のイベントを少しだけでも覗いてみようと思った。最も良いのは、北海道東部や根室に行くことなのだろうが、8月は諸般の事情から行かなかった(その代わり9月に根室に行った)。以下、2023年8月の札幌と岩見沢における、「北方領土返還要求運動強調月間」と関連するイベントや展示の様子を、写真中心で紹介する。

北海道庁ウェブページの以下のページで、強調月間の北海道における諸行事を閲覧することが出来た。

1.令和5年度(2023年度)計画.pdf (hokkaido.lg.jp)
2.強調月間内の開催予定の北方領土パネル展等.pdf (hokkaido.lg.jp)

日程が限られているので、札幌のうち幾つかと岩見沢だけ回ってみることにした。札幌駅大丸向いの紀伊国屋書店などで関連の本を少し仕入れた後、まず、チカホ・北大通交差点広場(西)で行われている「北方領土啓発ブース」を見に行った。上記サイト1の説明では、「北方領土のジオラマやデジタルサイネージ等の展示」となっている。
因みに、「樺太、永遠なる大地」、「沈黙の自伝的民族誌」といった本も買った。

「チカホ」というのは札幌駅から大通り公園に延びる地下歩道のことを言うらしい(北海道の住民でないので)。札幌駅から地下に潜り、10分程真っ直ぐに歩いて行くと、右側に北大通交差点広場(西)があり、イベントが行われていた。入り口から中を見るといろいろな展示物がある。

啓発ブース入り口

展示等の内容が書かれている。

啓発ブールにおける資料や展示の種類

パネル展示で、北方領土や北方領土問題の概要を捉えることが出来る。

「北方領土」と「北方領土問題」概要パネル

まずは、人々の生活と、住んでいる動物達について語られる。

生活と動物

そもそも「北方領土」を構成するのは、どんな島々なのか。正確に答えられる人はそれ程多くないと思われる(私の推測)。私自身、名前位は答えられても、その脳内地図はぼんやりしている。
まずは、歯舞群島と色丹島の説明。歯舞は、「群島」であり、小さな島がたくさん集まっている。

歯舞群島と色丹島

国後島と択捉島はもっと大きな島である。共に沖縄本島よりも大きい筈。

国後島と択捉島

次のパネルからは、日本とロシア(ソ連)との間での交渉の経緯について説明している。
まず、日魯通好条約(1855年)、樺太千島交換条約(1875年)、ポーツマス条約(1905年)、サンフランシスコ平和条約(1951年)、という四つの条約についての説明がある。また、ポーツマス条約とサンフランシスコ平和条約の間には、満洲・北朝鮮・樺太・千島列島へのソ連の侵攻(日ソ戦争)という戦争の記述が挟まれている。日ソ戦争の終盤、北方領土はスターリンのソ連によって不法に占領され、現在に至るのだ。

四つの条約と日ソ戦争

その後の比較的新しい時代から現在に至る交渉の状況が次のパネルで示される。

新しい交渉状況

次に、日本における北方領土返還の運動が、その歴史的経緯に沿って説明される。日魯通好条約が締結された2月7日(1855年)が、「北方領土の日」と定められている(しかし祭日ではない)。

北方領土返還運動

次の二枚のパネルでは、北方領土に隣接する北海道の幾つかの町の紹介も行わている。まず、根室市と別海町である。

根室市と別海町

次に、中標津町と標津町。

中標津町と標津町

これらのパネル展示を見ることによって、北方領土や北方領土問題の全体像を把握することが出来るだろう。と言うより、もしじっくりと読めば、素人としてこの問題を考えるための基礎的な知識を得ることが出来るだろう。
このところ町の資料館、博物館等を訪れることが多いが、何れも、資料や展示物、その説明は、対象に関する専門家を交えて綿密に構成・記述されていることが多いのに感心する機会が多い。ざっと通り過ぎるだけでは意味がないが、例えば写真に撮って後で勉強などすれば、本当に驚く程の知識を得られると感じている。
パネル展示が切れた所に大きなモニターがあり、その前に幾つか椅子が置かれていた。次のように、北方領土に関する以下の四種の啓蒙ビデオが上映されていたので、椅子に陣取ってすべて視聴させていただいた。

①知ってる? わたしたちの北方領土
②令和4年度北方領土動画作品入賞作品
③北方領土サポーターになろう!
④北方領土サポーターが北方領土の元島民にお話を聞く動画

このうち①と④を見ることが出来た。特に興味深い所は動画を撮影したが、それは個人の勉強用なのでここでの紹介からは外す。写真を撮った一部分だけ、紹介させていただく。

動画上映メニュー

まず①の動画を視聴した。
分かりやすい北方領土の地図が映った。

北方領土全域地図

歯舞群島の島々も良く分かる。

歯舞群島の島々

国後島は北海道本土の最も近い所から僅か16キロの距離にある。

国後島の距離感

北方領土の動物についての映像の中から、エトピリカは綺麗だったので写真に撮った。

空を飛ぶエトピリカ

風景を何枚か写真に撮った。

歯舞群島の朝焼けの風景

歯舞群島ほ美しい草花である。

歯舞群島の草花

色丹島の自然と町並みであるが、家々の風景しはロシア不法支配下のものであろう。

色丹島風景

択捉島のビラ海岸の風景は、奇形である。

択捉島の風景

ここからは、北方領土の島々の在りし日の様子を示す写真(上と同様動画からのスナップショット)である。まず、歯舞群島の中の勇利島における金刀比羅神社祭の様子を示す写真記録である。

歯舞・勇利島の金刀比羅神社祭の模様

同じ歯舞群島であるが、こちらは多楽島での昆布採りの際の人々の様子を示す記録である。

歯舞・多楽島での昆布採り

歯舞群島志発島には缶詰工場があった。多くの人々、特に女性従業員が働く姿が映っている。

歯舞・志発島の缶詰工場

次は色丹島のマグロ船入港の様子である。

色丹島の港

同じく、色丹島での鯨の陸揚げの雄大な記録もある。

色丹島・鯨の引き揚げ

色丹島の色丹神社における、鯨骨で出来た鳥居の貴重な写真である。

色丹神社の鯨骨鳥居

こちらは、国後島の缶詰工場で働く人々の写真である。確か日本の私小説の作家の小説の中で、国後島の缶詰工場で働いた経験を描いた場面を読んだことがある。

国後島の缶詰工場の記録

国後島のポンドマリは、町の名前か。(ドマリは、「泊まり」と関連するか?)

国後島のポンドマリの光景

次も国後島であるが、鉱山作業所での労働の様子の記録である。

国後島の鉱山作業所

次は国後島、賑わう古釜布市街の写真である。

択捉島での鮭漁

択捉島にもどさんこ馬がいた。

択捉島のどさんこ馬

次は、択捉島の日本人の町の風景である。

択捉島・市街風景

択捉島の小学校と生徒達や先生と思われる人の姿も記録されている。

択捉島・小学校の校庭

次に④の動画を視聴した。その内容は、択捉島の留別村出身の元島民松本侑三さんに当時の生活を聞くというものであった。

択捉島出身の松本侑三さん

様々な写真も紹介されると共に、当時の町の地図も示された。

北方領土での暮らしを示す写真

この地図は、択捉島中部の単冠湾岸の町を示す。

湾岸の町の地図

これらのビデオはずっと映写され続けていて、私は途中から見た。④の視聴が終わった後、再び①に戻り、見ていない部分を見た。
まず「北方領土問題の歴史」と題する部分である。

「北方領土問題の歴史」の始まり

1644年成立の『正保日本図』の北方領土の部分が紹介されている。

『正保日本図』の部分

次の写真は、択捉島のカモイワッカ岬に建てられている「大日本恵登呂府」の標柱である。これは江戸幕府の近藤重蔵らによって18世紀終わりの頃に建てられたものとされている。

「大日本恵登呂府」の標柱

引き続き地図と共に旧三条約の説明がされているが、非常に見やすいので写真を載せておく。
日魯通好条約では、択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、一方樺太は共有地とされた。

日魯通好条約

国境線の部分を拡大した写真が以下。

国後島と得撫島の間の国境線

樺太千島交換条約では、樺太がロシア側に帰属し、千島列島が日本側に帰属した。

樺太千島交換条約

日露戦争後のポーツマス条約では、南樺太が日本の領土となった。

ポーツマス条約

ここまでを前史として、次に「北方領土問題」の発祥、経過、現在についての映像があった。

話は「北方領土問題」に入って行く

1945年8月、ソ連の日本侵攻は複数のルートで行われたが、下の図はロシアから日本領である南樺太へのルートを示している。

ソ連ぐの南樺太不法侵攻

下の図によれば、北方領土は、樺太からのソ連軍隊と千島列島を南下する軍隊とによって、八月末から九月初頭にかけて、占領された。

北方領土の被占領過程

下の写真は漁の風景ではない。国後島民の小舟での脱出の模様である。

国後島からの決死の脱出

下は、恐らく歯舞からの北海道本土への脱出時のものか。

北方領土から退去した時の写真記録

同じく「退去時」の写真とされているが、ここは北方領土内の港だろうか? 北海道本土の港だろうか?

退去時の写真

それから六年後の昭和26(1951)年、サンフランシスコ平和条約が締結され、図のような領土となった。千島列島と南樺太に色が付いていないのは、これらがソ連領となったものではない、ことを示す。スターリンのソ連はこの条約にサインせず、また日本が「放棄」した土地がソ連に引き渡されることは条約に書かれていない。

サンフランシスコ平和条約と領土

その後、と言うより最近の経緯も描かれる。エリツィン大統領の当時の一時期、返還への希望が萌したこともある。

東京宣言・細川総理とエリツィン大統領

森らによる外交交渉も続けられた。この時の記憶に囚われた森達は、今ではロシア擁護・ウクライナ非難活動で暗躍している。

森とプーチン

安倍晋三とプーチンとの度重なる会合は、マスコミの話題を浚い、ワイドショーは親しみのあるプーチンイメージの喧伝に余念がなかった。クリミア不法併合やドンバス不法占領はもとより、チェチェン戦争批判等により数多くのジャーナリストや知識人が「公然と」暗殺されている情報が世界中に発信されている情況にも拘らず。

安倍とプーチン

この後、北方領土返還要求運動についての解説が行われる。

北方領土返還要求運動の解説へ

返還要求運動に関する多様な取り組みがあり、現在に至っていることが分かる。

返還要求運動の多様な取り組みの解説へ

戦後、安藤石典根室町長(根室に市制が敷かれる前)功績が大きかったことが様々な資料に記述されている。

安藤根室町長

安藤根室町長によるマッカーサー宛の陳情書も残っている。

安藤町長によるマッカーサー宛陳情書

署名活動、イベント等様々な行事の記録も残されている。

札幌雪まつりの際の著名活動の様子

下の写真の北方領土フェスティバルも雪まつりの際のものだろうか?

2020年の北方領土フェスティバルの一場面

返還要求の街頭行進も行われている。下の写真は札幌だろうか?

街頭行進

今回紹介しているのと似た、北方領土パネル展も以前からおこなわれていた。

北方領土パネル展

ここで紹介しているビデオにも上述のように元島民によるお話が含まれているが、対面での「語り部」での講話も行われている。

北方領土の語り部

北方領土サポーターのネットワークもあるという。

サポーターのネットワーク

最後に、「四島交流等事業」について紹介する。
今たまたま、「ロシアのウクライナ侵略の影響で「北方四島と連絡取れない」千島連盟」(朝日新聞社デジタル。 2023年10月26日)(千島連盟「北方四島と連絡取れない」 ロシアのウクライナ侵略の影響:朝日新聞デジタル (asahi.com))という記事を見た。それによると、「ロシアによるウクライナ侵略の影響で、元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)が、北方四島側や四島を管轄するロシア・サハリン州当局と連絡がつかない状況になったことが25日、わかった。北海道とサハリン州の連絡体制も細っており、自治体や団体レベルでの交流ですら難しい現実が示された格好だ。」(直接引用)ということである。
このビデオでは、これまでどんな「交流事業」が行われていたのかが紹介されている。

以前の「四島交流事業」の紹介へ

現在の国後島古釜布市街の様子の写真である。

古釜布市街の様子

ホームビジットが行われていた。

択捉島におけるホームビジット

「日本文化体験」のロシア人との交流も行われていた。

「日本文化体験」のイベントの様子

日本人とロシア人との意見交流会も行われていた。どんな意見が交わされたのだろうか?

意見交流会の様子

墓参りは最も重要な「交流」事業である。但し、「交流」という言葉はそぐわず、純粋に日本人の権利である筈であるが。
下の写真は、墓参の出発式の様子である。根室港だろうか?

墓参出発式

墓参に訪れた人々の写真なのかは不明。

色丹島で小さなボートを降りる人々

歯舞群島での墓参を撮った写真。

歯舞群島フルベツ墓地

国後島の古釜布墓地での墓参の写真。

国後島での墓参

択捉島のフシココタン墓地へ向かう日本人の人々も写されている。

択捉島の草原を墓地に向かい人々

以上に一部を紹介したビデオを見ていると閉場の時間が迫り、係員にせかされながらも何とか最後まで見終わったが、最後の方は写真を撮ることが出来なかった。立ち上がって会場を出ようとすると、北方領土隣接地域の特産品を紹介するパネルがった。知床の羅臼町も含まれている。

特産品紹介パネル

出口の所には、下のような幟が立っていた。

北方領土早期返還を求める運動への協力の呼び掛け

この啓発ブースのパネル類やビデオの内容な非常に充実しており、その内容を一通り読み・聴き、補足して勉強すれば、北方領土や北方領土問題の概略を十分に把握することが可能である。非常に体系化されている。それだけの歴史と蓄積があるということなのだろうが、一方で、その解決への道筋は不透明である。ロシア・ウクライナ戦争のせいだけではない筈である。この種の啓発活動に日本政府や自治体が熱心なことは今回分かったが、それが具体的な政治的行動に結び付いて行く地点において不透明さは増す。
例えば鈴木宗男に見られるように、北方領土問題へのコミットの経験が、不当で一方的な他国侵略を図ったロシア擁護・ウクライナ非難に結び付くという極めて捻じれた異常な展開、ストーリーは、早々に克服されるべきものである、と私は考える。












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