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人間としてのスターリンの生態(その2)―フレヴニューク『スターリン』に見る

4.仕事の場、生活の場におけるスターリンの生態

 ここからは、最初に出典を示した、オレーク・V・フレヴニュークの『スターリン―独裁者の新たなる伝記』の中に、本稿で私が興味を持っている「人間」としてのスターリンに関連する、ごく小さな部分を見て行く。

カテゴリーAとカテゴリーBから成る、この本全体の構成については本稿の冒頭近くで紹介したが、以下、この中の「スターリンの権力の座」と「読書と思索の世界」の二つの章を対象に(共にカテゴリーAに相当する)、スターリンの人間としての性格やその日々の生活・読書・思索などに関する著者フレヴニュークの記述を辿り、考察して行きたい。 

4.1 クレムリン内部―執務室と映写室

まず、「序文」に続く二つ目の部分である「スターリンの権力の座」の章(pp.19-31)では、スターリンが最近採用していた五人組における仕事のパターンについて記述されているが、このパターンはしかし、五人組において特殊なパターンだったわけではなく、はるか昔から確立されていたスターリンの「仕事」のやり方を踏襲するものであった。
公的な仕事の場としての、クレムリンにおけるスターリンの「執務室」は、「広々としたオーク材の羽目板が張られた書斎」であり、その中にはスターリンの執務机と長い会議用テーブルが置かれていた。壁には「召集された者が到着する早さを監視するために使っていた」振り子時計があり、またレーニンのデスマスクや、レーニンとマルクスの肖像画もこの部屋の中に見ることができた。
ここ30年間にほぼ三千人の人々がこの執務室を訪問した。その中には、スターリンの最も身近な仲間、政府の省庁や企業のトップ、学者、文化人、上級国家保安要員、軍のスタッフ、国外からの賓客などが含まれていた。
しかしながら、五人組など最も緊密な関係を持ったグループとの仕事の場合、この執務室で過ごす時間はあまり長くなかったと言われる。すなわち、その後は、執務室より厳しい入室制限があった場所、すなわち同じクレムリン内部の「映写室」に案内されるのが通例であった。この映写室は、既に1934年に作られており、7.5メートル×17メートルの広さを持ち、20の座席のある部屋であった。ここは、かつてロシア帝国時代には温室があり、皇帝が楽しんだと言われる場所である。この映写室での映画鑑賞は、予想通り、単なる娯楽ではなかった。五人組のような側近にとって、スターリンと一緒の映画鑑賞は次第に義務化して行き、後述のように、ここで行われたのはまさに「仕事」そのものに他ならなかった。
ソ連映画産業を所轄したボリース・シュミャーツキーによる1934から1936年にかけての記録が残っており、フレヴニュークによれば、それを通じてこの映写室におけるスターリンたちの集まりの様子を知ることができる。なおシュミャーツキーは、スターリンによる大テロルの最中、1938年初めに逮捕され、直後に銃殺されたという。
シュミャーツキーのこの記録によれば、映写室での鑑賞会は通例、晩遅くに始まり、翌朝早い時間まで続いた。スターリンは前列に座り、最高指導部メンバーがそれを取り巻いて座った。映画の上映中や上映後、映画やニュース映画についての議論が行われたが、このことは、ここでの映画鑑賞会が、イデオロギーや文化政策を決定する政府のトップレベル非公式会議であることを意味していた。議論の口火はスターリンによって切られた。スターリンは、特定の映画の内容、ソ連映画産業、イデオロギー一般などについて、具体的な指示を部下に与えた。また、その他の議題(国事)―予算問題、政策決定に関わる論文をソ連出版物に公表すること、人事問題など―についてのスターリンによる決定も行われた。しばしば映画製作者も招待されたが、その場で、祝福の他、作品改善のための指導が行われることもあった。 

4.2 「近くの別荘」―小食堂、庭、ホール

身近な客人が案内される次の舞台は、モスクワ郊外ヴォルィンスコエにある(とはいえ、クレムリンのすぐ近くである)、「近くの別荘」と呼ばれる別荘であった。
この別荘の最初の建物は1933年に建てられたが、その一つの大きなきっかけは、1932年11月、スターリンの妻ナデージダ・アリルーイェヴァが自殺したことであった。スターリンは、妻の記憶の残る家からこの「近くの別荘」に拠点を移し、新しい場所での生活に移ろうとしたのである。
この別荘の多くの部分の設計や建築は、スターリン自身の関与・監督によって行われた。「人間味がない」というのが娘スヴェトラーナの評であったが、スターリン自身は気に入っていた。特にその中で最もお気に入りの部屋は、一階のいわゆる「小食堂」であった。1953年3月1日、スターリンが死への発作に見舞われたのも、この部屋であった。
この小食堂はゆったりとした空間であり、床には絨毯が敷かれていた。長さ3メートルのテーブルを中心に、長椅子、食器棚、肘掛け椅子、電話台、暖炉などがあり、双眼鏡や猟銃も置かれていた。この部屋は、ベランダ、テラスと通じていた。スターリンはこの部屋で、眠ったり、仕事をしたり、一人で食事をしたりしたが、訪問者との面会に使われることもあった。
この別荘の周囲は大きな公園になっていた。スターリンは、別荘の敷地での景観設計や農作業を直接監督することを好み、多くの時間を農作業に費やしていた。スターリンは実際、柑橘植物の温室設計を行い、ブドウ園の設備を監督し、自分用のスイカの栽培さえ行い、できたものをモスクワの店舗に送ることもあった。またこの庭の池には魚が泳ぎ、馬や牛、ニワトリやアヒルなどの動物や鳥がいて、養蜂場もあった。
スターリンから、この別荘の領地経営を担当させられたP・V・ロズガチョーフ中佐という人が、数多くの命令(ほぼ毎日)をスターリンから直接受けたことを記録しているという。例えば、「揚げ床にスイカとメロンを五月二〇日に植え付け始めること」、「七月中頃にスイカとメロンのつるを剪定すること」をスターリンから命じられた、とある日の記録には書かれている。

ここから著者の筆は、「スターリンにおける細部の命令癖」へと移る。フレヴニュークは、「スターリンという人物とは根本的に、重要な細部を部下に委ねず、自分自身で管理するのを好む小領主だった」と述べている。そしてこのようなスターリンの性格が、その国家運営にも反映されているとし、「彼が自分の別荘の領地を管理する家父長的な仕方は、はるかに大きな彼の「領地」=ソ連邦を管理する手法でも一貫している」と筆を進める。「彼は国家の資源や蓄えの記録を付け、重要な情報を特別の帳面に手早くメモを取りつつ、その割り振りの管理を担当した。映画の脚本でも、建築計画でも、軍用装備品のデザインでも、その細部に夢中になった。」また、「造園への関心は個人生活の範囲を超えて、モスクワ市の街路にまで及んだ」。

 この別荘の部屋の中で、スターリンがお気に入りだったいわゆる小食堂は、スターリンの私的な生活の基盤として機能するものであったが、その公的な生活の基盤となったのは、もっと広い部屋(ホール)であった。これは、スターリンが、自分の周りの空間を自分の気に入るように形成しようとした一つの成果であり、別荘における社交的中心となる一部屋であった。広さは155平米あり、その中に長さ7メートルのテーブルが置かれていた。主に、会食や、祝い事の集まりのためにこのホールは使用された。
ホールでは定期的に催し事が開かれたが、それらに出席した多くの参加者が記録を残しているので、実際の会合がどんな様子だったのか、想像することができる。
ディナーでの飲食はビュッフェ形式で、参加者は、好きな食べ物や飲み物を取り、好きな椅子に座るようになっていた。このディナーは何時間も続き、終わるのは真夜中過ぎ、時に夜明けになった。
しかし単なる宴会であったわけではなく、ここでの集まりには政治的な意義があり、スターリンや参加した人々は、国家の様々な問題を議論し、決定する場としてその集まりを使った。さらに、スターリンにとっては、このホールでの集まりやディナーは、仲間の様子を監視し、情報を収集する機会でもあった。また、多くの人々と集まり騒ぐことで、スターリンが深く抱えていた孤独感を癒す場でもあったと考えられている。
しかしながら、表面的には、ここでのディナーは通常の宴会のような様相を呈した。それにはアルコールの飲酒という要因が言うまでもなく大きな原因となっていた。スターリンは、特に年を取ると体調の問題から、自分自身は節酒していたが、他の者にたくさん酒を飲ませ、その行動を観察することを好んだ。この辺は、単に目上の年長者の取る態度そのものであるとも言える。会社でも、宴会の場での度を過ごした態度によって、何らかの罰を喰らうといったことはあり得るが、スターリンの場合怖いのは、その権力が度を越しており、時には生命にも関わる結果になりかねないということであった。ともあれ、この部屋でのディナーでは、人々にたくさん酒を飲ませるための「飲酒ゲーム」さえ考案されたと言われる。そうなるともう「乱痴気騒ぎ」である。
人々は、アルコールによる抑制力低下の結果、卑猥なジョークを言ったり、猥褻な歌を歌ったりした。時にスターリン自身も合唱に加わった。部屋にはピアノが置いてあり、演奏されることもあった。また、ダンスもしばしば行われ、スターリン自身がダンスに加わることもあった(3月1日早朝には、ダンスはなかったと思われる)。また、スターリンは2700枚ものレコードコレクションを持っており、この部屋でそれらが披露されることもあった。(本好きで映画好きで音楽好きの大変な文化的教養人としてのスターリン。)
ところで、3月1日早朝にこの部屋を訪れ、最後のディナー(晩餐)に参加した五人組は、その前から毎晩のようにここを訪れていた。フルシチョーフがその頃のことを回想している。容易に想像できるように、彼らにとってこの晩餐会は、一種の「苦痛」であった。昼間に本来の仕事をした上で、毎晩のようにスターリンのディナーに出席し、芝居よろしくスターリンを楽しませるのは困難で苦痛だったと、やはりフルシチョーフは率直に回想している。しかしながら、それとは裏腹に、五人組は不平を言うこともなく、その義務を熱心に果たし、大抵の場合朝方気分良く分かれた。しばしばスターリンは愛想良く客を玄関まで送り、冗談を言うこともあった。逆に、怒りっぽく、客を脅していたとの回想も残っている。
まさに「アメとムチ」であり、国家管理においてもこの特徴が現れていたとされるが、それは極めて普及した一般的な人間操縦術であり、スターリンの場合の問題は、特にムチの方法が、あまりに残虐なことであった。 

4.3 スターリンの気質と政治的行動とのつながり、スターリンの世界観

ここから、著者フレヴニュークの筆は、スターリンの気質・性格と政治的行動とのつながり、さらにスターリンの世界観へと飛躍する。
しかし私の印象では、小食堂や庭やホールを含む「小さな別荘」の私的且つ公的空間におけるスターリンの言動は、ある意味、「偉いおじさん」一般の特徴を示しているに過ぎない。同時に、犯罪者が、表向きは偉い人であったり、大人しい良い人であったりする例は、それ程珍しいものではない。
フレヴニュークによるスターリンの性格評―「残酷で、人への思いやりを欠いた性格」は、これまでの、クレムリンにおける執務室や映写室、近くの別荘における小食堂やホールでの様子から、直接的に受け取ることはできず、そのような評の根拠を明らかにするためには、より突っ込んだ、「人間としてのスターリンの分析」が必要となるに違いない。スターリンが、ホロモドールや大テロルを引き起こし、独ソ戦においてあまりに多数の犠牲者を出したが故に、それらを根拠として「残酷で、人への思いやりを欠いた性格」という結果が得られるのか、あるいは「残酷で、人への思いやりを欠いた性格」であったからそれらの大惨事を引き起こしたのか、その間の回路ははっきりしない。当然、権力が完全に「一人の人間存在としてのスターリン」に行き着いてしまうような独裁の形態が、この回路を強化する最大の要因であったことも確かであろう。
フレヴニュークは、このような人間としてのスターリンの性格を、政治的・社会的・経済的な紛争を解決するための最もお気に入りの方法としてテロルを選んだ、というその政治的行為の特徴に結び付けている。さらに、それを緩和する如何なる理由も考慮しなかった、というスターリンにおける特徴を、もう一つのその性格的特徴―執拗で、柔軟性に欠けた性格―に結び付けている。その政策上の現れが、譲歩や妥協を権力の不可侵性への脅威と見なすことや、理論的教条主義がスターリン体制を規定する暴力の根底にあることであるとされる。
フレヴニュークは、これまで紹介したようなスターリンの日々の生活や暮らしの記述に基づいて、前述のような政策的方針から進めて、その世界観の記述に至る。その間のつなぎがスムーズであるかと言えば、必ずしもそうとは言えないし、また一般論として、ある政治家の性格や生活をその政策につなげる議論自体が極めて難しいものになると思われるが、このスターリンの世界観に関する一つの要約は、本稿の前半で述べたグロスマンによるスターリン批判とも反響するものがあり、興味深いので、ここに取り上げておくことにする。
フレヴニュークがこの部分で挙げているスターリンの世界観は、以下の四つである。 

①  極端な反資本主義

②  ボリシェヴィキ国家の絶対視

③  「敵」との「階級戦争」

④  マルクス主義・レーニン主義と大国主義的帝国主義との調和

まず、①の「極端な反資本主義」観である。スターリンは、レーニンが新経済政策(ネップ)を行った際の限定的な譲歩をも拒絶し、ソヴィエト体制の中に、貨幣、市場関係、個人的財産といった要素を導入することも嫌った。社会主義体制の下では、人々は国家の命令に従って働き、それに対して、貨幣ではなく、国家によって配分割合が決定された必要程度の現物財を受け取る、という原理主義的な共産主義体制の実現を、スターリンは信じていた、とされる。

②の世界観―「ボリシェヴィキ国家の絶対視」については、そのまま引用する。 
「スターリンの世界観によれば、ボリシェヴィキが創出した国家とは、ある種絶対的なものだった。生活全体が完全かつ無条件に国家に服し、そうした国家を人格化した最高のものが、党とその指導者だった。個人的な利益は、そうした国家に役立つ限りは認められた。その国家は、人々に生命も含めていかなる犠牲も要求する疑う余地のない権利を持っていた。国家の行動は無制約であり、歴史的進歩の究極の心理を代表しているために、間違えることはけしてありえない。その体制のどのような行為も、その使命の偉大さゆえに正当化できた。そうした国家による誤謬や罪は存在しなかった。存在するのは、歴史的必然性と不可避性のみであり、場合によっては、新しい社会を建設する産みの苦しみであった。」(pp.29-30) 

さらに、スターリンの三つ目の世界観は、③「「敵」との「階級戦争」」である。これも引用すると、「そうした国家への服従を強いたり、個人的なものや社会的なものを抑圧したりするために優先的に用いられる道具が、国内外の「敵」とのいわゆる「階級戦争」だった。スターリンはこの戦争の最高位の理論家であり、無慈悲な戦術家だった。彼はこう断定した。社会主義の前進が成功を収めればおさめるほど、それだけ階級戦争は激しくなる一方である、と。この考えは、スターリンの独裁体制の基軸となった。現実を解釈する手段の一つとして、この階級戦争理論は強力なプロパガンダの道具でもあった。不十分な政治的・経済的成果、民衆が堪え抜いた困窮、軍事的失敗などの全ては「敵」の危険な策略によって説明することができた。国家の抑圧方法としての階級戦争論は、あの大テロルに、現実の戦争の規模と残虐性の性格を与えた。ソ連の独裁者は、歴史上最も強力で、無慈悲なテロル装置の一人の組織者にして指導者であるとの栄誉を勝ち得たのだった。」(p.30)

最後に、四つ目の世界観は、④「マルクス主義・レーニン主義と大国主義的帝国主義との調和」である。これも引用すると、「スターリンは、マルクス主義の教義やボリシェヴィズム=レーニン主義の教義と大国主義的帝国主義とを、難なく調和させた。一九三七年一一月、彼は仲間に以下のように語った。「ロシアのツァーリたちは数多くの悪行を働いた。彼らは人民を略奪し、奴隷化した。彼らは戦争を仕掛け、地主たちのために領土を奪い取った。しかし、彼らは一つの良いことを行なった。それは、彼らが東方もはるか遠く、カムチャートゥカにまで及ぶ広大な国家を創建したことである。われわれはその国家を継承した。そして初めてわれわれボリシェヴィキは、労働者のために、この国家を単一にして不可分の国家として寄せ集め、そして打ち固めたのだった」。このような率直な言葉は、国の主要な革命祝日である一〇革命二○周年を祝福する晩餐会で語られたものである以上、いっそう本音が露呈している。スターリンによる拡張の結果は、国際関係の舞台では彼をロシアのツァーリの立派な後継者とするものだが、イデオロギー的な建前のみが異なっていた。一九四五年のポツダム会談の直前、ソ連に派遣されたアメリカ合衆国の大使アヴェレル・ハリマンは、ベルリンの列車駅でスターリンに向かって、敗北した敵の首都に勝利者として到達することをどう感じるものか問うてみた。スターリンは、「皇帝アレクサーンドゥル一世ははるか先のパリまで到達したのだ」と答えた。しかしほぼ間違いないことだが、スターリンはツァーリたちを凌いでいた。ソ連帝国はその勢力範囲を拡大し、ヨーロッパやアジアの広大な領域を含め、世界の二つの超大国の一つへと自らを変えたのだった。」

5.読書人/思索者としてのスターリン

前の部分では、クレムリンや近くの別荘でのスターリンの仕事や生活についての話だったが、スターリンはさらに、「物を考える」という作業を当然の如く行っていたであろう。特にスターリンが読書好きだったという話は広く伝わっており、その思索は読書とも関連していたであろう。フレヴニュークは、1953年2月28日から死に向かうスターリンを描く章のグループの中に、「読書と思索の世界」(pp.158-169)という一つの章を用意し、読書人/思索者としてのスターリンについて描いている。
このように、スターリンの生涯最期の数日を枠組みとして、その仕事、生活、思想、家族、人間関係などを、スターリンの視点を中心に辿る章のグループの一つに、「読書と思索の世界」と題された章がある。この章は、目録が作成されている記録などから、主にスターリンがどんなものを読んでいたのかを探り、その思索の内容について記述することを目的としている。
スターリンは若い頃から読書好きだったと言われる。本書が引用しているB. S. Ilizarovの記述によれば、スターリンは日々、平均400から500ページの文章を読んでいたとされている。
しかしながら、当然、政治家スターリンは多忙であり、その日々の生活の内訳はおおよそ、 

  クレムリンの執務机での公文書処理
 
同じく、会議や会見

  「近くの別荘」での晩餐会(ディナー)

  クレムリンの「映写室」での映画上映

  執筆

  その他 

に分かれていた。当然、スターリンの

  読書、思索

は、その残りの時間の中で行われたことになる。
ここで「読書」と呼ぶのは、普通は公的な執務以外での読書であろう。しかし、フレヴニュークはこの章の最初の方の部分で、「公的文書の読書」についても言及している。 

5.1 広義の読書

公的文書の読書は、狭い意味での読書には含まれないに違いないが、最も広い意味での読書には含まれるのかも知れない。実際、著者フレヴニュークは、この章の最初の方でそれについて説明している。
公的文書の中には、まず「書簡」がある。政府関連の最上層の人々からの書簡だけでなく、その他の多くの層の人々からの「書簡」があったことが知られている。
確かに、スターリンへの書簡及びスターリンからの書簡というのは、ソ連時代の小説やソ連に関連する書物を読んでいると、非常に印象に残る要素である。現在も、日本だったら、総理大臣に直接手紙を書くといったことはあまり考えられないが、スターリンには、例えば多くの作家が手紙を書いている。それだけを見ると、「リーダーが国民の意見や気持ちを直接受け留める」という意味での美談的な形容もされそうであるが、それだと、教科書的に捉えられたスターリンの「政治的犯罪」との整合性が取れないようだ。「スターリンへの/からの手紙」がどのような意義を持っていたのか、いわば内在的な観点を持ち合わせない我々には分かり難いことではあろうが、膨大な数の書簡がどのように処理されていたのかという問題を含めて、考察する余地の大いにある主題であり得ることだろう。
次に各種「報告」があった。その中には、外務省や陸軍省からの報告、国家保安機関や情報機関からの報告が含まれていた。
さらに、これらには含まれないその他の資料として、タス通信による外国出版物の要約、モスクワ駐在外国人報道記者による報道の要約、航空機や航空エンジン、戦闘用機器の生産関係などの軍事関連の報告、政府諸機関からの要望などをスターリンが熱心に読んでいたことを著者は伝えている。
公的文書に続いて著者が挙げているのは、ソ連の各種雑誌、書籍、新聞の類である。新聞として、特に『プラウダ』の最新情報には熱心に当たっていた。さらに、メンシェヴィキや白衛軍の出版物、亡命者の新聞や雑誌にも、スターリンは目を通していた。この最後の「(広義の)読書」まで来ると、きな臭さも漂って来る。 

5.2 狭義の読書、真の読書

公的文書や雑誌・新聞類のような、広い意味での読書対象に関する記述に続き、著者の記述は、スターリンにおけるより狭い意味での読書、真の意味での読書の記述に移行する。総論として著者が述べるのは、スターリンは、社会的に意義のある書物を好んで読んだ、という点である。また、文学や小説への知識の範囲は狭かったとされる。ソヴィエト期の文学への造詣は非常に深かったが、一方でロシアの古典文学や外国の古典文学に関する知識は貧弱であったとされる。
スターリンの蔵書目録の中で最も大きな位置を占めるのは、レーニンの著作を含む書籍や雑誌である。スターリンにとって、レーニンの著作は実用的な価値を持っていた。すなわちそれは、スターリンの政治的グループが国事を処理する際の一種のバイブルないし取り扱い説明書のようなものであった。これに対して、マルクスやエンゲルスの作品は、蔵書目録の中に少数しか含まれていなかった。
社会民主主義運動のロシアや外国の理論家による書物や、ボリシェヴィキの理論家による書物も含まれていた。後者には、ボグダーノフ、プレハーノフ、ブハーリン、カウツキー、トロツキーなどの書物が含まれていた(自分が処刑した人々の書物も含まれていた)。
以上のように、その蔵書目録の圧倒的多数を占めるのは、マルクス主義やレーニン主義に関する書物であった。一方で、非マルクス主義系の哲学の書物は少数しか含まれていなかった。その中には、プラトン、アナトール・フランス、少数の経済学書などが入っていた。
一方で、スターリンは歴史好きであり、ロシア史をよく読んだが、政治家としては、それまで分裂していたロシアの地を集め、軍事力を増大し、国内の敵と無慈悲に闘った、ピュートル大帝とイヴァン雷帝が好みであった。スターリンにとって歴史とは、自身の政策を正当化するための手段としても位置付けられたというわけである。歴史を通じて、自分の好みの物語に事実を適合させた。(この点では、プーチンを彷彿とさせる。)
歴史に関するスターリンの蔵書の中には自身の著作も含まれており、党史の大胆な偽造と書き換えを行った偽情報としての『全連邦共産党(ボリシェヴィキ)史―小教程』(1938)もその中に含まれていた。
関連書の中には、クラウゼヴィッツの戦争論や、ロシアの軍事理論家スヴェーリンの著作も含まれていた。 

5.3 スターリンの文学・芸術観

前述のように、スターリンはロシアや海外の古典文学には疎かったが、同時代のソヴィエト文学には非常に詳しかったとされる。それは、以下に述べるような、政治家スターリンにおける独自の、しかしながらそれなりに納得できる文学観に基づくものであると考えれば、納得できる部分もある。
スターリンは、自分の好み(趣味)に合わない文学は抑圧の対象としたが、逆にその内容に関わらず自分の趣味に合う作品や作家には、援助の手を差し伸べることもあった。但し、ブルガーコフに対する支援を見ても分かるように、当然作家にとって何よりも必要な言論の自由の付与という意味での支援ではなかったことも事実である。スターリンは詩人を殺すことはあまりなかったように見えるが、作家を殺すことについては平気だった。
作家にとってはまさに余計なこと以外の何物でもないが、中途半端に文学的・芸術的素養もあったスターリンは、同時代のソヴィエトの文学・演劇・映画等を自ら細かくチェックし、助言を与えたり受賞を決定したり、逆に叱責したり、抑圧対象としたりした。
文学や演劇がスターリンの注意を惹いた理由は、まずイデオロギー上の道具として、そして社会操作と洗脳の手段としてであり、スターリンにとって、公的に許容された作家とは、巨大なプロパガンダ装置の一部として捉えられていた。マクシム・ゴーリキーは、ソ連の作家の指導をスターリンから任された。
スターリンの文学・芸術観によれば、文学・芸術作品は、イデオロギー上・プロパガンダ上の有益さに従って評価されるべきであった。より具体的に、スターリンが評価した文学作品や芸術作品の特徴は、「単純さ」・「近付きやすさ」・「読みやすさ」・「直截性」・「政治的啓蒙性」などであり、これらは重要な美徳(評価基準)であった。
このような評価基準に基づけば、「創造的インテリゲンチャ」の要件は、客観性ではなく、理想化された、正しい・社会主義的な現実を描くことであり、「大衆に、現に今あることではなく、あるべきことをもたらすべき」であって、「大衆の心持ちを日常生活上の困窮から紛らわし、自己利益よりも、党や国家の利益を上に置くことの美徳を称揚すること」であった。
映画も、専らこの種の政治的有用性の観点から評価された。その結果、心驚かせ、陽気で、楽しく、啓発的で、面白い作品が高く評価された。スターリンが最も好んだ映画はハリウッドのコメディーであり、ソ連映画界に対しても、ハリウッド流コメディーのソヴィエト的対応物を求めたのである。
演劇や音楽に関しても、この種の保守的な趣味が貫かれた。スターリンは頻繁に劇場を訪れ(陰謀に基づく見世物裁判をボリショイ劇場で行うこともあった)、古典的な演劇、オペラ、バレエを鑑賞した。このような「審美眼」からすれば、メイエルホリドは滑稽性、奇妙な身のこなし、などの点で批判されるべきであり(周知のようにメイエルホリドは拷問の末銃殺された)、ショスタコーヴィチの新しい音楽形式に対しては激しい反対キャンペーンが行われた。自分の「社会的リアリズム」観に沿わないこれらの傾向に対して、スターリンは「フォルマリズム」というレッテル貼りをした。
なお、スターリンによる言論弾圧、特に文学や芸術に対する「社会主義リアリズム」からする弾圧については、亀山郁夫の『大審問官スターリン』(2019、岩波書店)が詳しい。

その演説の退屈さと同様、著者は、その著述も退屈という特徴を持っていると記す。(私はスターリンの著書を通読したことはないが、高校時代から大学時代に読んでいた吉本隆明や埴谷雄高の評論作品の中に、スターリンの文章の一節が引用されており、それらを通じて断片的に読んでもいた。)
著者によれば、スターリンのこの退屈な言説は、独自の特徴を持っていたという。「彼は聴衆の頭脳に、あたかも叩きつけるかのように、要点を幾度も幾度も繰り返すことによって理解させることを好んだ。」(p.166) 具体的には、その「分かりやすさ」、「スローガンや決まり文句の効果的使用」がスターリンの記述の主要な特徴であり、「教育が広がりつつあるが十分ではない当時のロシア社会では、スターリンの語り口は効果的」であった、とされる。 

5.4 演説と言語

スターリンは、才能ある演説家ではなかったとされ、実際の演説は退屈であったとされる。それが、ロシア革命当時、レーニンやトロツキーに比べ地味な存在であった理由でもあろう。しかし、ロバート・コンクエストの『スターリン―ユーラシアの亡霊』(1994、時事通信社)は、その一見退屈な語り口を、スターリンが少年時代神学校に通っていたことと結び付け、スターリンの演説の方法の中に、宗教的な説教の構造を見出している。フレヴニュークの見解もそれと類似している。

なお、スターリンの演説や著述はロシア語で行われていたが、母語はグルージャ語であり、ロシア語は8歳か9歳から学び始めた。その後ロシア語ネイティブと遜色なくなるが、時に誤りや曖昧さをもたらすこともあったという。その他の言語的知識については不明であるが、おそらく外国語習得についての情熱はあまりなかったと思われる。

5.5 スターリンの精神的特徴と権力者スターリンとの関係

著者の筆は、以上のように、スターリンの広義の読書、狭義の読書、さらにそれらと関連するスターリンの演説や文章のスタイルを跡付けて来たが、それらを踏まえて、「読書と思索の世界」の最後の部分で、「スターリンの精神的特徴と権力者スターリンとの関係」について論述に到達する。ここではそれを以下の二つの観点から整理する。 

①  スターリンの学習、政治的経験、性格のうち、その「単純化」への志向(「図式化」と言っても良いだろう)と政策的な特徴との関連性

②  同じく、その「教条主義と複雑さの拒絶」と政策的な特徴との関連性

まず①についての記述を以下に直接引用する。
「つまるところ、スターリンの学習、政治的経験、性格は、多くの点で人をほとんど魅了しないが、権力を保持し続けるのには、理想的な精神構造を形成した。現実を過度に単純化する彼の思考―それによれば、諸現象は、諸階級間、資本主義と社会主義の間といった、歴史的に対立する組み合わせの観点から説明される―は、スターリン体制より長続きした。この単純すぎる世界観の源がどこにあるのであれ―彼の宗教教育や、マルクス主義のレーニン版への固執であれ―階級という一面からしか理解しない世界観の性格は、独裁者スターリンの生活を単純かつ容易にした。階級闘争原理を基盤にした世界のモデルは、彼が複雑さを無視し、彼の犠牲者を軽蔑することを許容した。それは、スターリン体制の最も凶悪な犯罪を、歴史法則の自然な表現とし、その一方で、無邪気な過誤を犯罪と見なすことを許容したのだった。それはまた、犯罪的意図や犯罪行為を、実際にはいかなる罪も意図せず、犯しもしなかった人々のものと決め付けることをも可能にした。相対的に教育水準の低い国では、単純化は、社会を巧みに操縦するための絶妙な用具だったのである。」(p.168) 

次に②として、スターリンにおけるその「教条主義と複雑さの拒絶」、すなわち過度の単純化が間違った方向へ物事を導く際の「修正能力の欠損」、というスターリン独裁における問題点について、著者が述べている箇所を直接引用する。 
「世界についてのスターリンの理論的モデルとは、実は不安定で頼りにならなかった。過度に単純で、効果のないそれは、おびただしい矛盾と失敗を生み出した。それでもスターリンは、かりにイデオロギー体系への修正を採用したら、国に益となったかもしれないとしても、スターリン体制の安定性を脅かすものと見なした。その結果、実生活の側からの要求に対し、厳格なイデオロギー的、政治的な教条主義で対応し、危機が限界点に達した時に至って、最後の手段としてのみ限定的な変化に同意したのである。スターリンは、自らを現実から遮断し、イデオロギー的スコラ哲学の藪の中へと退却し、さらには、そこへ他の者も共に引きずり込もうとした。彼の個人文書庫の内容は、手元に置いておくに値するという彼の考えを映し出しており、外部の専門家の見方を代表するような文章は、どんな類のものであれ、ほとんど完全に欠いていた。その一方で、広大な国全体が、言語学や政治経済学など多様な分野で、スターリンの「専門」的意見の研究に熱心に従事していた。また「フォルマリスト」や「コスモポリタン」を粉砕することで、彼の命令に従っていた。変化と西側からの有害な影響のいずれをも恐れたスターリンは、遺伝学をはじめ、多数の科学の革新を拒絶した。彼が信じたのは、「自分の手で触れることができる」ものや、彼が理解し、政治的に安全と思ったものだけだった。
この教条主義と、複雑さの拒絶は、国の発展にとって重大な障害となった。しかも晩年に近付いていた時にすらスターリンは、彼に権力をもたらし、一九三〇年代に入念に打ち固めた体制を変えようとする意図を、毫も持ち合わせることがなかったのである。」 

6.おわりに

以上、主に、グロスマンの小説『人間の運命』とフレヴニュークの研究書『スターリン』に基づいて、スターリンの行動、仕事と生活の場、読書と思索について、見て来た。
なおごく最近、ジェフリー・ロバーツによる『スターリンの図書室―独裁者または読書家の横顔』(松島芳彦 (訳)。2023, 白水社)という大部の翻訳書が出版された。私はまだ読んでいないが、関連書として紹介だけしておく。表紙の写真は、まさに「大教養人」としての風情を漂わせている。

歴史書や研究書において統計的・数量的に語られるスターリンの犯罪行為が、その個々の要素における人間としての物語を隠しているのと同じように、その犯罪行為の源流となった方にも、個別的な物語が存在した。その間をつなぐことは、どんな学問分野においても難しいが、特にスターリンのような、曲がりなりにも「巨人」と呼ばなければならない類の人物を巡っては、その難しさは格段のものとなる。スターリンという人物がいなければ、あの大飢饉も大テロルも大戦争もなかったのか、それとも同じようにあったのか。そういう魅力的な問いは、しかし回答不能の問いであることもまた確かであろう。
このような難しさにも拘らず、しかしながら「物語」というものを研究主題としている私にとって、その考察は避けては通れないものである。
南アメリカのマジックリアリズムと呼ばれる小説作品の中には、しばしば独裁者を扱った作品があるが、スターリンもしくはスターリン的な独裁者を断片的にではなく、総合的に、また直接的に扱った作品は寡聞にして私は知らない。その行為の規模があまりに大きく、作家の想像力をさえ超えてしまっているせいなのか、あるいは言論弾圧のこれも巨大さによって、特にロシア語圏においてその表現に対する、何らかの抑圧が働くからなのか、それは分からない。
しかし、例えばロシア語圏の作者にとって(ロシア語圏以外の作者にもその権利は勿論与えられていると思われるが)、スターリンを全体的に描き出すことは、将来において必須の作業になるのではないだろうか。全体の翻訳が未だに出ていないので分からないが、ソルジェニーツィンが大長編小説『赤い車輪』においてロシア革命を全体的に描き出したように(そのように伝えられているが、翻訳された最初の部分を除き未読なので正確ではないかも知れないが)、誰かスターリンとその時代を、事実に基づいた、しかし空想力と想像力をも羽搏かせた小説・物語として、全体的に描き出してはくれないものだろうか。
『人生と運命』はその壮大な予告篇に当たるのかも知れない。また本稿で紹介した『スターリン』は、全体としては研究書でありながら、最初に紹介したその変わった構成の中に、物語への回路を忍ばせている。

 

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