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カルロスの奥さんスタニーがきた

Staniy Leon が来た。

先日、「彼女の夫カルロスがしばらく来ない」と書き込みしたら、スタニイから書き込みがあった。

道でカルロスにあったが後で私の家に来ると言い何も話さないで行ってしまった。

Facebookへの記事ではスタニイも日本にいるらしい。

どうしてこんなに気を揉ませるのか、と思っていたら今日11時ころスタニイが一人で来た。

私はひどい腰痛で温めれば少しは痛みが和らぐかと入浴して、まだ下着だけしか着ていない時に来て、妻が応対していた。

急いで服を着て会ったが、話しがよく聞こえなかった。(耳が遠くなって)

妻の通訳では、市内の工場に二人で勤めているという。

元気そうでよかった。
                    2022年11月30日

六室ばかりしかない私のアパートに、部屋を貸してください、と言って来た四十歳くらいのペルー人がいた。それがカルロスであった。
二〇〇五年五月の事だった。敷金も礼金も取らない私のことは、彼らの間では良く知られているらしいが、彼は敷金どころかそのとき払う前家賃さえ持っていなかった。
「派遣会社から仕事をもらったので給料日には払います」という彼は当たり前の話をしているようで、すこしも恥じる様子もなく、
「支払いは間違いないのでお願いします」と言う。
私は夜学生だった大学時代のことを思い出していた。二つ返事で承諾して、今夜からと言う彼に、使っていないテーブルを貸して、夜具まで与えた。
なんとなく信じていい人と思えたのであった。
入居してから彼が、
「夜勤で昼間時間があるから、部屋の壁を綺麗にする。ペンキを買ってくれ」と言って、綺麗に壁を塗り替えてくれた。
そのうちに、パン代二千円貸してくれとか三千円貸してくれとか言ってきたが給料日に必ず清算するので応じていた。
去年の十二月から奥さんと二人の子どもを呼びたいと、入管に手続きをしているが返事がないと言うので、頼まれて何回も電話をさせられた。
同時に永住許可の願いを出してあったのが、書類の不備で、あれを出しなおせこれも追加せよと、許可のハードルを高くするためのような通知が来る。
お役所用語で、大学で法律を学んだ私にさえ分からないことが多く、その都度東京の入管へ電話で問い合わせて書類を調えた。
今年の八月彼が、
「日本の入管は通ったが、ペルーにある日本大使館が許可を出してくれないので一番偉い人宛に手紙を出したい。鳴沢さんひらがなで書いてください。それを見て自分で書き直して大使館にお願いする」と言う。
ちょっと難しかったがパソコンを使いひらがなでそれらしい文章を書いた。九月に奥さんと子の入国許可が下りて、間もなく三人が来た。
彼の奥さんは、
「あの手紙が着いて次の日に許可が出ました」と言った。まさかそれが功を奏したとは思えないが、ペルーは人脈が物を言う社会らしく、偉い人を通して働きかけるのがあたりまえらしい。
私のアパートでは狭いので近くに一軒家を借りて、学校へも教育委員会へも私がついて行った。
彼らが借りた家の隣には三階建てのアパートが二棟あって、住人はペルー人が多い。
彼の言葉によると、
「ペルーには四つの階層があって、一番下の階層は日本で言えばやくざに近い」と言う。
「彼の隣のアパートの住人はその階層の人たちで、人をごまかしていくら得をしたか自慢し合っている。言葉も悪いし盗難も多い。夜中に騒ぎガラスの酒瓶を投げるのもいる。良いところへ越したい」と言うので、知り合いの不動産屋さんに同じ学区内で良い所を探して貰った。
敷金も礼金も家賃に上乗せして一年払い、と言う破格の条件で契約寸前にこぎつけた。
その夜遅く「ペルーに電話をしたら、奥さんのお父さんが入院するので金を送らなければならない。敷金礼金を上乗せした家賃が払えない」と言う。早速不動産屋さんに訳を話してお詫びをした。
翌朝「不動産屋さん、怒っていたでしょうね」と電話があった。
「それどころか、時間をかけてもっと安くていい所を探してくれるそうだ」と親切な不動産屋さんの言葉を伝えると、ほっとしたようだった。
つい先日、入管からハガキが来て、彼の永住許可も下りた。その喜びようは舞い上がるようだと言って、妻と笑った。
その喜びから幾日も経たない十一月三十日、朝まだ義母を起こしてトイレの介助をしている最中に彼ら夫婦が来た。
子どもが虐められていると言う。
「上の五年生の子を何人かで羽交い絞めにしていて殴ったので、殴られた子が鋏を出して威嚇したと言う。
弟の方も顔にあざができて、問いただすと遊びだと言う。本人が遊びだというが、遊びでこんなに痣やこぶができるようなことは納得できない。
「学校では虐めを遊びだと言い、鋏で威嚇したことで、この子を駄目だ」と言っていると言う。
「二人ですぐに先生に話しなさい。私は教育委員会へ電話をして、いい加減なごまかしをさせないようにする」と言って二人を学校へ行かせ、すぐに教育委員会へ電話をした。
「何人かで抑えていて殴ったと言うことは遊びや悪ふざけでは済まされない。しっかり調べてください。
虐めの事よりも鋏で威嚇したことの方を取り上げて、決定的に重要なことのように言っているそうだが、大勢で押さえながらの暴力にひとりで立ち向かった、この子の事を考えてください」と、訴えた。
「調べてから返事をします」ということだったが、彼ら二人が帰ってきて、
「鋏を出したことを残念だと言ったが、その『残念』と言う言葉の意味が全く違う。彼の言った言葉は、取り返しのつかない意味で、この子はもう駄目だと言われたのだった」
「話しているうちに誤訳だったことが分かったので帰ってきた。これ以上先生に逆らって、後で先生に虐められては困るからもう言わない」と言う。
「先生の説明以上の暴力が何回もあった。先生による虐めもあった。でも、もう言わない」と母親は泣きながら諦めると言う。
私が「それでは子どもたちがかわいそうだ。教育委員会にも訴えて、もう絶対に虐めさせない」というと、その母親は私に抱きついて声を上げて泣いた。
私も虐めは、被害者と加害者の両方を経験している。
こんなことをいい加減には済まされないと思い、教育委員会からの電話を待ちきれず、こちらから電話したが、教育委員会の担当者の説明も学校と同じだった。
翌朝、また二人が来た。日本語が分からないことが一番の原因だから、日本語を教えて欲しいと言うことだった。
日本語が話せるから日本語教育ができると言うものでもない。迷ったあげく小学校へ行って、校長と教頭の意見を聞きに行った。
日本語教育の話しの前に前日の虐めの事になった。
ペルーと日本の習慣の違いが大きく、今度の事も五年生の子が女子生徒に触ったり抱きついたりしたことが原因だと言うことだった。
日本の習慣に慣れるには低学年で一年、高学年で一年半くらいはかかると言うことだった。言葉の分からないまま授業の時間を過すこの子達のストレスの強さは想像もできない。
校長と教頭の話では、鋏を出して威嚇したことについて母親達が騒ぎ出したので生徒を通して、
「言葉の分からない人たちに自由を奪われて、どれほど怖かったか、鋏などを出さなければならないほど追い詰められたその怖さを考えて見なさい」と説明してようやく収まってきたところだ、ということだった。
まだまだ先生の知らない虐めもあるし、女教師による虐めもあるという。全部をぶちまけてみても一度に収まるわけでもないので追求しなかった。
ただ校長が、外国人子弟の向学心のなさを嘆いたので、
「現在の日本で、外国人子弟が勉強して出世することができますか。○○君の母親は、ブラジルで大学を出てきているのに、今の仕事は弁当の盛り付けです。
この子達にどんな希望が持てるのでしょう。勉強に身が入るわけがない。もっと根本的な国策として、外国人の受け入れを考えなくては駄目です。このままでは、不良外人を日本が育成していることになります」そんな話しをして帰って来た。
私は教育委員会に知り合いがいることを話して、もう絶対に虐めさせないと母親を納得させた。(両親の帰るまでの時間)週二回、三時から六時ころまで二人の子どもを預かることにした。
要介護度四の義母をかかえて、しかも仕事をしながら、二人の子を預かるなど、無茶なことかもしれないが、そう長い間でもなかろうと思ったのであった。
初めての日、母親が迎えに来た時、二人はテレビの三チャンネルを熱心に見ていた。子ども向きの番組で義母も良く見ている。
迎えに来て寄り込んだ子どもの母親は、こんな良い番組があるとびっくりしていた。確かにあの子達にはぴったりだと思う。
子供たちは三回ばかり私のところへ来たが「下の子に喘息が出た、猫のせいらしい」といって、子どもたちをよこさなくなった。
近くの幼稚園で、小学生の補習授業をしてくれると言う話を小学校の教頭先生に聞いていてので、訪ねてみた。
幼稚園の先生は佐原さんの紹介でペルー人の子弟を何人も世話した経験があるということで、事情を話すと、すぐにでもつれて来なさいということだったがカルロスに話したら、わずかな授業料も今は出せないらしく、断られてしまった。
そのとき「子どもたち二人だけでいるときに、玄関のノブを回そうとしてカチャカチャ動かす人がいる」と、とても不安がっていたので、翌日交番へ行って事情を話し時々見回ってもらうように頼んできた。
後日「警察官が来て子どもに声を掛けてくれ、その後も警察のしるしのついたカードを郵便受けに入れて行ってくれる」と、とても喜んでいた。
カルロスの奥さんは、十年以上も福島県にカルロスと一緒にいたということで、日本語がかなり分かる。
彼女は、ひざ掛けにも、肩掛けにも使える四角い編み物を二枚持ってきてくれた。四角い模様を連ねた確りした厚いもので、その四角の一つを指差して
「これ一つずつありがとうと言って編みました」というので、私は涙をこぼしそうになった。
妻は「毛糸を買うのもあの人達にとって、大変だったでしょうに」と感動していた。その後も仕事を手伝って貰った時に、日当を払おうとしても、いらないと言う。
私は「ビジネスの手伝いをしてもらうときだけは、金を払う」といって無理に受け取らせている。
最近は手伝いを頼む仕事もないのでカルロスはたまに「げんき?」とビスケットなどを持ってきてくれる。
子供たちは、今は元気に学校へ通っていると言う。まるで子どもの家族が近くにいるような気がする。
                          二〇〇七年三月

 カルロスの二人の子どもは一人前になって、働いているらしい。
 カルロスは何年か前、子供も働いてくれるからもうペルーへ帰る、と言って別れを言いに来た。それから一年も経たないうちにまた来た。あまり離れていたので、家庭の中に居場所がないのかと思えば可哀そうだ。
最近も日本(小山に)にいるらしい、本人は顔を出さないが、奥さんがMessengerに書き込みしてくる。
彼女の書いてきた携帯電話はいつも繋がらない。繋いでも世話をしてやれるわけでもないし、世話を焼く必要もなくなっているのだろう。
                     2020年11月11日

カルロスが来た。付き合いがずっと続いていたような感じで、顔を見ると何時ものように「元気?と言う」
今どこで働いているの。「市内の〇〇電工で。仕事があってよかったよ」とまったく、屈託がない様子だ。
用事は依然と同じ「4000円貸してください」だった。
                           11月22日

11月22日に金を借りに来たカルロスが今日、ひょっこり顔を出しました。


1月25日に私のアパート1号室にいた住人(ネパール人女性3人)が、「私たちは他へ移りますが、友達にこの部屋を貸してください」と言います。「ガスや電気、水道料はどうするの」と聞くと、「そのまま引き継ぎます」という事でした。
使用者の名義変更だけで済むと思っていたのに、26日に来た3人が「狭いので他へ行きます」と言います。
他へ行くというのを止めるわけにもいかないので、承知しました。
空いた部屋を見ると大変な汚れようで、大変な思いで掃除しました。
今朝、2階の8号室の住人(ネパール人男性)が「2日か3日後に友達が来てここに住みます」と言って出て行きました。彼は名古屋へ行くと言う事でした。彼は3月分の家賃も払っていたのですが、その場で払い戻すことはできません「後から来ると言う友人から3月分をもらってください。あなたの払ってくれた3月分は後から来る人の3月分にします」私は言いました。この8号室の住人だった人から、自分が他へ行き友人が来る、と言う事を前から聞いていたのでしたが、その日が何時かは聞いていませんでした。

外国人相手の話はいつも、ビックリさせられます。
今日、空いた部屋は思ったより汚れていて、妻と二人で午後半日がかりで掃除したのですが、まだ綺麗というわけにはいきません。
助っ人がほしいと思い、去年11月11日にこのnoteに書いた記事の『カルロス』に電話したのですが、電話に出ません。
妻と、「ああしようか。こうしようか」と思案していましたが、結局できるところまでにして「綺麗ではなくても、とにかく入ってもらおうか」と思っていました。

疲れ果てて、夕飯を早く済ませもう寝ます、という時に、玄関のチャイムが鳴りました。
カルロスでした。
傷んでしまったドアの交換と、汚れた内壁の塗装を頼みました。
明日は夜勤なので、朝6時に来てできることをする。あとまた来られるときに来てくれると言う事です。
入居する人に、留守の時にも部屋の修理に入るから、と断れば問題ないかと思います。
前回、11月22日に来た時に貸した4000円妻に知られないようにそっと返してくれました。
貸したことも、返してもらった、ことも妻には話しているのに、いつもそっと「〇〇円貸してください」と言い、そっと返しに来ます。
妻はそれほど気難しい人ではないのにねー。

                        2021年1月31日






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