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私の苦しみの解消は、私の人生において最優先事項であるのか否か

 まとまらない気持ちをまとまらないまま書いてみます。

 
 年末に行った「大地の再生呉講座2」において、メンバーの一人が講師の矢野智徳さんから聞いた言葉の残響が私の中で響き続けています。

「自然界は、足らないから循環が生まれる。満足したら終わる。みんな足らずでちょっとずつ我慢している。足らないことを知ること。」

 あささと note『杜人の観る世界

 このメンバーが正確に矢野さんの言葉を記録しているのかどうかは分かりませんが、もしこの言葉が矢野さんの言葉通りだとしたら、私はよくよく吟味しないといけないなと感じています。「足らないことを知ること」はおそらく、仏教で言われる「少欲知足」を意識して、あえて逆のことを述べているのだと感じました。

 矢野さんの言葉の通り、私たちは普段、「足らないから」それを満たすために行動しています。お腹が空くからご飯を食べる。喉が渇くから水を飲む。お金が無いから仕事をする。一人が寂しいから集団に所属する。できないことをできるようにするために努力する、などなど。
 矢野さんの言葉にある「満足したら終わる」というように、もし私たちが現状で完全に満足するなら、現状を変えるような行動は起こさないでしょう。極端な話ですが、もし本当に完璧に現状に満足しているなら、ご飯を食べることさえ望まずそのまま消極的に死ぬことを選ぶかもしれません。「足りない」ということへの自覚が、私たちを行動に導いています。

 仏教では逆に「足ることを知る」ことを勧めます。これには仏教なりの人間理解があります。
 人が苦しむのは、いつも「足りない足りない」と求めているからだと仏教では教えます。自分を満足させるものがどこかにあると信じて、人々は今の自分に足りないと思うものを求め続けますが、本当は「自分を本当に満足させるもの」はどこにもない。それなのにそれを追い求め続け、そしてそれが得られないために苦しみ続ける。だから「自分を本当に満足させるものは無いんだ」と瞑想実践において徹底的に実感することで、求める心(煩悩とも言い換えられるかもしれません)を完全に無くすことができれば、完全な平安をえることができる。非常に雑に説明すると仏教の救済の方法論はこのようなものです。

 正直、仏教の勧める方向性と矢野さんの示している方向性は同じでは無いと思います。言葉だけ見ると逆でさえあるように思います。
 ただ、仏教で問題にしているのはあくまで個人の苦しみであり、仏教はその個人の苦しみを無くすことを目的とした教えです。
 それに対して矢野さんは個人というより社会や社会と自然との関係といった、自分と他との関わりにおいて自らの取るべき態度を示しています。
 両者は問題にしている領域が異なるため、示している方向性が異なっていて当然とも言えます。

 しかしそうは言っても、やはり仏教で言う「少欲知足」、あるいは煩悩を滅尽して個人の苦しみが解消された状態になると、矢野さんの示す方向性には向かいにくいのではないかと思います。


 私は社会に対して非常に熱心に関わろうとする方々と知り合う機会に恵まれています。矢野さんもその内の1人です。
 私が出会ったそういう方々は、自身のお金や睡眠時間や社会的身分といったものを犠牲にしてでも社会を良くするために自分が必要と思ったことを行っています。傍から見ると、それは時に自己犠牲的に思えます。仏教的に言えば、その方々は「苦しんで」いるのかもしれません。
 しかし、私はその方々のそうした姿に畏敬の念を覚えることを抑えることができません。人として尊い姿であるとさえ思います。
 そしてその方々のその熱量は、仏教で言うところの「煩悩を滅尽した境地(=悟り)」に至ると無くなるか、減少してしまうように思えます。もしそうならば、煩悩を滅尽することは「善い」ことなのか?(この場合、「善い」とはどういう基準で「善い」というのか、という問題が生じますが)

 大乗仏教において、菩薩というのは「修行が進んで凡夫よりも優れているが、悟りを開いてはいない段階の賢者」というような位置づけであると聞いたことがあります。菩薩についてのある方の解説で「悟りを開いてしまうと今後輪廻転生しなくなるため現世に戻ってこれないから、あえて菩薩の位置にとどまって現世の衆生を救おうとしているのが菩薩だ」というのを聞いたことがあります。初めてこの解説を聞いた時は「悟りを開ける力量があるならさっさと開けば良いじゃないか」としか思っていなかったのですが、先述のような疑問を持ってしまった今の私にしてみると、こういう選択肢もあるのかもしれない、とも思われます。


 なお、私は以前も似たような命題において疑問を持ったことがありました。 

 この時も私は、「自分の今持っている苦しみが解消されたなら、noteを書くことも環境改善活動をすることも辞めてしまうかもしれない」と書いていました。
 総じて、今の私は仏教の実践を行うことで私の苦しみを解消していくことが本当に私にとって望ましいことなのか、それについて疑問を持っているような状態です。
 矢野さんの言葉に、その疑問をしっかり考えるように促されているような感覚を覚えています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!