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人生の師

 甲野善紀先生の講習会に参加してきました。

 久しぶりにお会いする甲野先生はやはりいつも通りの甲野先生で、75歳にもなろうというのにその技の冴えと探究心に衰えはありませんでした。年を重ねても健在なその姿勢に私はいつも元気をいただいています。

 甲野先生の講習会で伺った話で、非常に興味深い話がありました。それは「人は現実にあり得ると思うことは実行できる」という話です。
 具体例としては写真と写実的な絵の関係について話されました。

 現在は非常に写実的な絵を描くことができる画家の方はたくさんいて、本当に写真と見まごうほどの精密な絵を描ける方もいます。甲野先生は、こうした絵が描けるようになったのは写真というものが出てきたからではないかというのです。写真という、二次元に現実の姿を精密に映し出すものが出たことで、人々が「二次元で描いたものが三次元(リアル)を精密に描写しうる」と理解し、現実の姿と見まごうほどの精密な写実画が描けるようになったというものです。

 これは実感としては分かる気がします。
 林業でも作業について自分一人では上手くできなくても、自分が上手くできない作業を人がしているところを見ることでできるようになることがあります。これには看取り稽古のように、相手の動きを見て学ぶという側面もあると思いますが、そもそも「あ、人ができることなんだ」という認識ができることでできるようになる、という側面もあると思います。
 つまり、できないときは「こんなこと本当にできるのだろうか」という不安や疑心暗鬼が出て、そもそもできるように努力する心が動かず、結果できないままなのですが、実際にできている人を見ることで「自分もできるかもしれない」と思えるようになり、できるように工夫し始める、ということがあります。
 そういう意味では、自分ができないことがあっても、できる人の姿を見ることは、動き始める上でとても大事だと言えるかもしれません。

 その関連で言うなら、私は甲野先生を見て、その技を受けることでそれを実感していると言えます。
 私が甲野先生から学んでいるのは、具体的な身体操法や武術の技ではなく、「人はどれほど年老いても学び、成長し続けることができる」ということです。
 甲野先生は75歳になりますが、未だに技の探求を進めていて、それまでできなかった技ができるようになっています。多くの人は歳を取ると身体が衰え、できることができなくなって行きますが、甲野先生はむしろできなかったことができるようになっています。もちろん、甲野先生御自身もおっしゃるように歳を取ることで筋力が衰えたり、老眼になったりと肉体的な衰えはあります。しかし、その肉体的な衰えとは違うところでは成長し続けることができる、ということを常にその姿で証明し続けています。

 私も甲野先生の姿を見ることで、いくら歳を取っても成長し続けることができる、と無邪気に思えています。
 私は甲野先生ほど身体の動きの探求はしていないので、身体の動きについてはどこまで成長できるか分かりませんが、心は成長し続けることができるだろうと思っています。
 「心の成長」というと非常に抽象度が高く、具体的にどういう状態が「心が成長した」状態と言えるかは難しいですが、心が成長するためには「これで終わり」というすごろくの上がりのような状態でいないことが大事かと思っています。
 甲野先生的な言い方をすると、武術では「居着く」という状態は悪い状態だと言われます。「居着く」とはべたっとその場に固着した状態で、周囲の変化や危機が迫った時に速やかに適切な行動に移れない身体状態です。
 それとは逆に「浮き」と言われる状態は、言葉通り身体が地面に固着しておらず、いつでも行動に移れる状態です。
 心の成長においても心が「居着く」状態は変化ができない状態だと思っています。私が心掛けているのは心の居着きを無くすこと、つまり常に「今の私が絶対に正しいと思って固まらないこと」です。
 私は甲野先生の常に自らを成長させようという探究する姿勢を見ることで、心の居着きを無くす参考にさせていただいています。


 私にとって甲野先生は武術の技などの細かいメソッドの師ではなく、「人はどう生きるべきか」ということを考えさせてくださる人生の師という感じです。
 甲野先生も御高齢なので、あと何度お会いできるか分からないですが、お会いできる限りお会いして、学ばせていただこうと思います。

 また、私自身が成長し続けることで、私にとっての甲野先生のように、私が誰かの生き方の参考になれる人間になりたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!