8月になると夜はどうせ死ぬ

月単位の連続投稿を煽られると、何か書いておいた方が得かもしれないな、と思うもので、年の瀬の如く月の瀬に迫られながら筆を叩いている。先月は3本くらい投稿しているのだからそれをゆっくり分散すればこの緩い目標は達成されるのだけれど、経験上、鉄は熱い内に打たないとすごい速さで腐っていく。すごい速さで夏は過ぎたが、ベイベー、ラララララララ。

「すごい速さ」という言葉を使うと自動でandymoriが頭の中で再生されてしまうけれど、むしろ全然夏は過ぎてくれていない。本当に世界の終わりだった。「こんな風に味気ない感じなんだろうな」どころの話ではない。夏を、この暑さを憎み続けて生きてきたけれど、8月が越せるかどうかが本気で不安になったのは生まれて初めてのことだった。やけに尾を引く夏風邪を身に宿し、体内には常に熱が滞留している。物理的に冷却しないと睡眠もままならず、ピカチュウも名探偵みたいにシワシワになってしまう。

夏と言えばフェスであり、フェスと言えば夏なので、その良さがわからないわけではないのだけれど、さすがにこの炎天下に晒される勇気はない。雨の方がいくらか耐えようがあるくらいだ、と5月を思い出している。味気ない感じで滅びた旧Twitterを見ていると、開催されたフェスごとに銘々が感動した様子が流れてくる。誰かにとってのベストアクトたるステージがそこで繰り広げられたのだと思うと、それだけで少し満たされた気分になる。そう思えるのは、たぶん、自分にも多少なりそういう体験の記憶があるからなのだろう。「ライブハウスに行くことは娯楽としてのハードルが高く優先順位が低い」みたいな話があり、そのカウンターとして「素晴らしいステージに出会えていないのだ、かわいそうに」みたいなことを言う人がいて、どちらの言うこともわかるのだけれど、それはそれぞれ全然違う話をしているような気がしてしまう。私がフェスに参加しない理由は暑さを筆頭にしてだいたい百個くらいあって、だから、そのせいでいつかフェスという文化は滅びてしまうのかもしれない。出会えていないことを憐れんでいる間にたぶんすべては終わってしまうのだ。一方でバタバタと人が倒れている地獄絵図みたいな様子も流れてきたので、精神論でどうにかなるものでもないのだろうけれど。『グッドバイ、バッドマガジンズ』で触れた京都みなみ会館は、その後閉館が決まっている。そら見たことか。

本当の夜は冬にしか存在しないと思っているので、8月になるとヒゲドライバー『ホログラフ』の歌詞を一生擦り続けてしまうのだけれど、このまま夏が幅を利かせて夜が死に続けてしまうのだとしたら、ありとあらゆるモチベーションがそれに引っ張られて死滅してしまいそうな気がしてならない。いつだったか、とんでもなく雨が降り続いた秋口に、「この雨を理由にして人が死んでもおかしくないな」と思ったものだけれど(その後オモコロで「晴れた!」という記事が出たくらいだ)、この暑さを理由にしても人は容易に死ぬことができる。ソースは私。


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