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ドーダ友の会会員になる

マウントという言葉が市民権を得て久しい。

私はこの言葉がどうも好きではなくて、自分ではほぼ使わない。好きではないのは、自分もしてしまっている自覚があって、この話題になるとどうしても自省の念にかられるからだと思う。

若い頃は特に、自信のなさから虚勢を張ることが多かった。料理が好きなふりをしたり、本を沢山読んでいるふりをしたり。そうなりたくて、そんな自分を演出していたといってもいいかもしれない。
しかし実態が伴っていなければそんな嘘はすぐにバレる。読書家風にアピールする人と、日々自然と沢山の本を読んでいて会話に知性が溢れている人では、受ける印象がまるで違う。後者になりたくてもなれない自分に気付いていたのに、ずっと無理をしていたような気もする。

今でもつい見栄を張ってしまうことはある。しかし、この「マウント」という言葉の流行りのおかげで自らの態度を振り返る機会がこれまで何度もあって、今は何を話すにも「マウンティングにならないように」気をつけるようになった。

マウントの取り方は色々あって、一般的な優位性の主張だけではなくて、例えば貧乏自慢だとか、忙しい自慢だとか、友達少ない自慢だとか、もう「あなたより私の方が…」と言えるものは全て、マウントになり得る。

大学は年度末と年度始めが部署によっては殺人級の忙しさになる。私の部署も例に漏れず忙しいのだが、3月末に休日返上で働いていたところに他部署の先輩から「先月45時間超えちゃったよ」なんて言われて、「それは大変でしたね」と自分の忙しさを隠して労える余裕なんて私にはない。
「私なんてもう今日で16連勤ですよ!死ぬかと思いましたけどなんとかなりました!(ドヤ)」なんて前のめりに、忙しいだけじゃなくそれを乗り切った私自慢までしてしまう始末。

他方では残業なんて無能のやることだという人もいるのに、なんの自慢をしているんだか。

いやいや、残業の話をしたいのではなくて、マウントの話だ。

マウントをしてしまわないように気をつけてはいても、相手に張り合って黙っていられない時が私にはまだまだある。逆に、人のマウントに辟易する時もある。人生修行が足りないといえばそれまでだが、先日面白い本を読んで少しだけ気持ちが変わったので紹介したい。

東海林さだおの「もっとコロッケな日本語を」の冒頭にある「ドーダの人々」だ。

「ドーダの人々」は忙しい自慢や学歴自慢、もっと気軽なものでは有名人と知り合い自慢などの自慢を「ドーダ!」と誇示して見せる人々のことで、そんな人々の生態を研究しているのがドーダ学会だ。
この「ドーダ」の話で、久しぶりに声を出して笑いながら本を読んだ。自分にも思い当たる節があるのに面白くてたまらない。それはたぶん、著者がこの「ドーダ」な人々を笑いながら肯定してくれているからだと思う。

ブランドものを誇示して「ドーダ」するおじさんや「いちおう東大卒ですけど」と謙遜しているようなしていないような「ドーダ」をかます東大卒業生など。生活にあふれる「ドーダ」な瞬間をいちいち切り取っては笑い飛ばしている。

著者によれば、ドーダ学会は「ドーダ⇄羨ましい」が成り立つドーダを推奨していきたいらしい。「ドーダ」は突き詰めると人間のコンプレックスと関連する「嫉妬ドーダ」や「深刻ドーダ」に行き着いてしまいそうだが、そういう「ドーダ」は避けたいのだとか。

「ドーダ」は「マウント」とほぼ同義だ。ドーダし合うおじさんは、まさにマウントの取り合いである。
しかし「ドーダ」は「ドーダ」された相手が「あら、それは羨ましい」と思える程度のものまでを認識し、それ以上の負の感情を呼び起こすものをドーダ学会では扱わない。それは楽しくないからやめましょうってことなのかなと思う。逆に、ドーダ学会で扱う程度の「ドーダ」は、面白いからいいのだ。

ならば、私の日々の自制も、「ちょっとでもマウントにならないように」ではなく「ドーダ学会で扱ってもらえるかどうか」を基準にしたい。
「マウント」だと言われてしまうのを怖がって、ちょっとした「ドーダ」もためらってしまったり、人のちょっとした「ドーダ」を楽しんであげられていないのではないか。

父親が得意げにお城の模型を見せて「ドーダ」してくるのも、きっとドーダ学会で扱うレベルのものだ。私も笑って「ドーダ」を聞いてあげたい。私の残業自慢だって、誰も羨ましがりはしないだろうがドーダ学会が笑い飛ばしてくれるのではないか。

「ドーダ」も「マウント」と同じくらい市民権を得られる日が来るといいなあ。私もドーダ友の会会員(勝手になった)として「ドーダ」のデータ収集に勤しむことにする。

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