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お薦めSF小説10選+10選


はじめに

X(旧Twitter)のフォロワーの方から「お薦めSF小説10選教えて下さい」と打診されたのだが、これが中々難しい。なぜ難しいかって、SFオタクは面倒くさいからだ。

SFオタクはミステリオタクと同様か、あるいはそれ以上に面倒臭い。お近くのSFオタクに「SFってなんですか?」などと聞いてみるといい。きっと、したり顔で延々2時間は喋り続け、突然発狂し、最後にはじっと押し黙るであろう(ご存じの方は『バーナード嬢曰く。』のキャラクター、神林しおりを思い浮かべれば良い)。そんな輩の眼前に10選など差し出してみよ。「あれがない」「勉強してから来い」「お前は何も分かっていない」等々、総スカンは必至だ。「こんな場末に誰が」とも思うが、例えそれが杞憂であったとしても、少なくとも私の心の中のリトルSFおじさんは、そうやっていつも私の背中を刺そうと虎視眈々である。SFオタクは心の中にそういう超自我を飼っており、誰に文句を言われずともまず、自分で自分が許せないのである。私は背中を刺されたくない。

——そこで考えた。まず、仮想敵であるSFオタクを黙らせる「万人向け」な10選を紹介する。勿論それとて完璧とはいかないだろうが、ある程度の「品質保証」にはなる(少なくとも、私の心の中のSFおじさんは「グウ!」と言って黙る)。
その上で、その「万人向け」の10選を名刺代わりに、個人的趣味嗜好全開な「独断と偏見」の10選を提示する。さすれば「説明責任は果たした。文句があるなら上の10選に言え」と言い訳が立ち、私は私の「好き」を安心して紹介できる。
読む側にとっても、「こんな(「万人向け」な)10選をする人が、こんな(「独断と偏見」の)10選をするのか」という参考材料にはなるだろう。

本noteはこのような意図で「10選+10選」を紹介するものである。もっとも前半10選が「好き」ではないのかと言われれば全然そんなことはないのだが、分かってほしい。「好き」と「好き」は違うのだ。

……まあ要するに、これは完全な自己満足なのであるが、そんなnoteが転がっていてもきっと良いだろう。ネットは広大なのだから。



(万人に向けた)お薦めSF小説10選(発表年順)

発表年順。そもそもこっちの10選に優劣なんかつけられないからね。そういう本を選んだつもりだし。


メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

曰く、「最初のSF」。

日本で言うと江戸時代の作品で古典中の古典であるが、根本として扱うテーマは古びれず、今の読みにも十分耐える面白さと、示唆に富む。人間が人間以上のものを生み出すということの、その業。ある種の技術批判としても読める。アイザック・アシモフの「ロボット三原則」はこの作品から着想を得ており、アシモフの提唱した「フランケンシュタイン・コンプレックス」という概念もある。
著者のメアリー・シェリーは執筆当時19歳の女性。全ては彼女から始まったと思うと、ちょっとロマンチックでもある。


オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

英国の誇る二大ディストピア、その一方。

「ディストピア」という語が「アンチ・ユートピア」という意なのであれば、本作はその臨界点と言える。つまり、「みんなが幸せなら、それは幸せなのか?」という。前者と後者の「幸せ」の間には、厳然たる隔たりがある。
何より、書き振りが可笑しい。ユーモラスなグロテスクさ。それがまたいけない。楽しくなってしまう。ちょっと「すばらしいな」と思ってしまう。その感覚は、果たして誤っているのだろうか? 狂っているのは私の方なのか?
『ハーモニー』ファンは必読だろう。明らかに本書を下敷きにしているが、下した結論は対照的である。


ジョージ・オーウェル『1984年』

英国の誇る二大ディストピア、そのもう一方。

何より、ディテールがすごい(Wikipediaの該当記事を見てほしい。小説一冊に対する情報量ではない)。真理省、憎悪週間、二重思考といった、洗練された、おぞましい概念の数々。巻末には附録として、架空の言語ニュースピークを題材とした架空の論文まで付いてくる。「神は細部に宿る」と言うけれど、ここにはリアルを超越したリアリティがある。
発表当時は冷戦だったこともあり西側諸国において爆発的な支持を集め、反共主義者によって半ば神格化された歴史を持つ。現代でも盛んに引用され、世界史や英語の長文、小論文の題材なんかでもしばしば言及されるため、受験生にもお薦めなSF小説。


アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』

「ビッグスリー」の一角たるアーサー・C・クラークの最高傑作。

「超文明との接触」というテーゼに対する、一つの完全な思弁的回答がここにある。50年間「ただ上空にいる」というだけで人類の野心を折ってしまう。それくらい、圧倒的な差。そもそも野心というもの自体、低俗なものに過ぎない。「幼年期」とはよく言ったもの。そこにはSFらしい科学と文明に対する希望も、また絶望も存在しない。そこにあるのはただ無常のみである。
仏教好きでも知られるクラークは、西洋中心主義から脱却した最初の知識人の一人とも言える。この時代、間違いなくSFは世界文学として世界の思想を形作っていたと思う。


スタニスワフ・レム『ソラリス』

おそらく、世界でもっとも売れたSF小説の一つ。

エンタメとして、ホラーとして、思想書として、「聖典」として……あらゆる読み方ができるし、あらゆる意味を汲み出すことができる。しかし、そうした「意味を見出すという人間の営為」をこそ、『ソラリス』の否定するものなのだ。
『ソラリス』を、擬人観(アントロポモルフィズム)批判の書として読む見方がある。人間というものは対象を見据えるときに、人間の体や心のように物事を捉えてしまう「クセ」のようなものがある(例えば災害に見舞われた人々が、その惨状を神の「怒り」と受け止めるように)。しかし、それは人間が人間という視点を持って見ることによる「解釈」に過ぎないわけで、そのもの自体を的確に認識しているわけではない。『ソラリス』はそういう、人間の欺瞞を突いてくる書だ。
人間にとって心地良い「解釈」、「物語(ナラティヴ)」を愛好する読書家という生き物にとっての、まさに天敵のような本である。しかしそれだけに、その汲めども尽きぬ魅力に魅了され、本書をベストに挙げる人も多い。


小松左京『果しなき流れの果に』

日本SF御三家、小松左京の生み出した至宝の一冊。

「ワイドスクリーンバロック」というSFのサブジャンルがある。その意味を一言で説明するのは大変困難なのだが、その最たる作品の一つとして挙げられるのが本書。とにかくあらゆる時間・空間を飛び回り、一つの長大な物語が組み上がる。人間がこの宇宙に生きる意味とは何か。なぜ生まれ、どうして死んでいくのか——ある意味で『ソラリス』とは正反対な作品と言えるだろう。
小松左京というとまず『日本沈没』という人も多いけれど、こちらの方がSFの巨人たる小松の想像力が遺憾なく発揮されていると思うし、今の読みにも耐えると思う。
ガイナックスの傑作アニメ、『トップをねらえ!』の最終回サブタイトルとしても有名。


神林長平『戦闘妖精・雪風』

日本SF界の重鎮、神林長平の出世作にして代表作。

工学畑出身の神林らしい、緻密なメカニック描写の光るファーストコンタクトSF。その描写は当時画期的なものだったらしい。確かにこの作品以前と以後で、日本SF全体の空気感は変わったように思えるし、後々の方向性を基礎づけた作品とも言える。発進シークエンスやコールサイン、人間と戦闘機体の関係性というテーマも含め、アニメなら『マクロス』や『エヴァンゲリオン』、ゲームなら『エースコンバット』や『アーマードコア』といった作品に脈々と受け継がれているし、そうした作品の背景には雪風の存在があると言っても過言ではないだろう。
神林のライフワーク的作品のため、現在も続編が書かれ続けているのだが、時代時代で著者の問題意識にも変化が生じているのか、巻ごとにかなり空気感が変わってくる。刊行年を意識しながら読んでいくと、当時の空気感も感じられて良い。


テッド・チャン『あなたの人生の物語』

「当代一のSF作家」テッド・チャン珠玉の短編集

短編集なのだが、そのどれもが短編にあるまじき圧巻の完成度を誇る。神を崇めず、興味深い対象物として見る作者の尖りに尖った思索の数々。個人的には特に表題作『あなたの人生の物語』と『地獄とは神の不在なり』が大好きで、愛読書である。
この本を読むと冗談抜きで、生き方というか、世界の捉え方が変わってしまう。今まで「あるがままに見ている」と思っていた世界が、全く別の景色に見えてくる。あたかも、世界に対するネタバレを食らってしまったかのようだ。
テッド・チャンの書籍は現状これと第二短編集『息吹』の二作しかなく、非常に敷居が低いのもポイント。誰でも二冊読むだけでテッド・チャンを語れる。いや、語り尽くせないのだが。


劉慈欣『三体』

中国SFの生きる伝説、劉慈欣の打ち立てた金字塔

「アジア人初のヒューゴー賞受賞」というでっかい看板に全く負けていない。今勢いのある中国だからこそこんなSFが生まれてくるのだな、という納得感。逆に、こんなSFが書かれてしまったからこそ、今の覇権があるのかもしれない。私はこの本に、中国の思想を感じた。
『三体』『黒暗森林』『死神永生』という3巻構成だが、どれも異なる顔を持つ。「前巻があんなに面白かったから、続編がそれを超えるなんてことないだろう」なんて甘い認識をガツンとぶん殴ってくる(故に、途中で止めてしまっている人を見ると「何と勿体無い……!」という気持ちになる)。
劉慈欣は小松左京とアーサー・C・クラークの愛読者で、両者からの影響が感じられる。ある意味その二人の正統後継者というか両者の融合というか。巨人×巨人って……。


伊藤計劃『ハーモニー』

ゼロ年代最高の日本SF作家、伊藤計劃の施した「呪い」

多分、この本に殺された人は結構いると思う。劉慈欣が中国読者にあれだけ愛されるのと同様、伊藤計劃が日本でこれだけ愛される理由も分かる。本書の纏う雰囲気は、閉塞した今の日本の空気感そのものだ。だから刺さる。刺さってしまう。伊藤計劃は本当に罪な作家だと思う。
あまり言われないけれど、「わたしは生まれてくるべきだったのか」という反出生主義を真摯に扱ったSF小説だとも思う。それは一部の人の心に巣食い、今なお完全な解決を見ていない人類の宿痾であり、究極の問いの一つである。本書に魂を焼かれた者達の怨嗟の声が聞こえてくるようだ。
余談だが、三巷文によるコミカライズ版は原作小説に勝るとも劣らない出来栄えなので、本書既読の方はぜひ読んでみてほしい。



さて。

(独断と偏見の)お薦めSF小説10選(お薦め順)

こちらはお薦め順。なぜかってお薦めしたいから。


田中ロミオ『人類は衰退しました』

本noteの執筆動機。あまりにも知られてなさすぎる。

全SF小説好きは絶対に読むべき。「所詮はライトノベルだろう?」とか思ったやつ、私が刺してやるから背中を差し出したまえ。
おそらく、最後まで読んだ人間がそのあまりの面白さゆえに皆口をつぐんでしまうせいで、ブラックホールよろしく情報が外に流れ出ないのだ。きっとそうに違いない。しかし伊藤計劃的な至高のニヒリズムと、『星を継ぐ者』に匹敵する極上のミステリが、こんなゆるふわ系な表紙に隠されているなんて、言われなきゃ分からんのだ。ライトであることを逆手に取った、究極のハードSF小説がここにある。みんなもはやく、特異点の内側に来ないか。

アニメの方も確かに面白かった。面白かったのだが、あれは制作時期の関係上、途中までしか描かれておらず完結していない。『人類は衰退しました』は、最後まで読んで初めて完成する。アニメだけで止まっている人は、ぜひ読んでみてほしい。そしてEDの『ユメのなかノわたしのユメ』を聴いてみてほしい(途中までしか描かれていないアニメのEDに何の関係が? と思う人こそ最後まで読んでくれ)。

内容的にも用語や概念としての難しさはなく、それに基本的に一話完結式だから、読みやすい。そしてその認識こそが、本書を「読みやすい一話完結もののライトノベル」として誤解させている所以でもある。『ドラえもん』を読んでいたと思ったら『進撃の巨人』だった、みたいなギャップ。
問題は分量だが、本編は9巻で一冊のウェイトも(ライトノベルであるが故に)軽く、体感的には『三体』よりも短いはずだ(「じゃあ『三体』と『人類は衰退しました』どっちから読んだらいいですか?」という質問には、すっっっっごく悩んだ挙句に『三体』を薦める。ビビリだから。でも心情的にはこっち)。

田中ロミオは天才である。別の界隈ではそれは周知の事実らしいのだが、SF小説の界隈ではどうにも知名度が低い。しかし、天才とはどこにいても天才なのだ。


伊藤計劃『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS』

なぜ読まない。

伊藤計劃が好きって人はたくさんいるし、「伊藤計劃の新刊が読みたい」って人もたくさんいるのに、そういう人に本書を読んだか聞くと、十中八九「読んでない」と言う。なぜだ。彼の書いた長編は生涯で三作しかない。そのうち二作を読んでいて、それで足りないと言いながら、最後の一作に手を伸ばさないのはなぜなのか。メタルギアが何か分からないのなら、実機でもゲーム実況でも何でもいいから、メタルギアを履修すればいい。MGSは「20世紀最高のシナリオ」と評された神ゲーで、何より、伊藤計劃の愛した神ゲーなのだから。
「ノベライズなんて」とおっしゃる方、ちょっと待ってほしい。なぜなら本書は、ただのノベライズなんかではないからだ(というか、伊藤計劃が「ただのノベライズ」なんて書くわけがない)。個人的に伊藤計劃の才能は、文体と、「小説が『語られたもの』であるということ」に対する意識にあると思っているのだけれど、それがもっともシンプルで美しく発揮されているのは、『虐殺器官』でも『ハーモニー』でもなく、本書なのではないかと考えている。

ちなみに、私が伊藤計劃と出会ったきっかけがこの本。メタルギアのノベライズと思って軽い気持ちで手に取ったら、何かすごいものを読まされた。その後しばらくして、全く関係ない知り合いから伊藤計劃のことを教えてもらい、『虐殺器官』と『ハーモニー』を読み終えてから調べてびっくり、あのときのノベライズの人ではないか!……となった。この出会い方をした人は、そうはおるまい。


円城塔『Self-Reference ENGINE』

冒頭はこんな一節で始まる。

全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。

「プロローグ Writing」

これを読んで以来、私の中の「SFの定義(最広義)」は「全ての可能な文字列」である。あなたの好きなあんな本も、有名なこんな本も、全ては文字による情報の羅列に過ぎない。情報は科学的に取り扱うことが可能である。故に、全ての本はSFに含まれる。以上、証明終了。異論は認める。
勿論円城塔はそんなことが言いたかったのではないだろうが、私の定義である。

22編の短編が一つの大きな世界観を織り成す、バカみたいに美しいバカワイドスクリーンバロック。なぜ「バカ」なのかは読んでもらえれば分かるのだが、例えば以下は短編の一つ、「09 : Freud」の冒頭。

祖母の家を解体してみたところ、床下から大量のフロイトが出てきた。
問い返されると思うのであらかじめ繰り返しておけば、発見されたのはフロイトで、しかも大量に出現した。フロイトという名の何か他のものでしたなんて言い逃れることはしない。フロイトという姓のフロイトであって、名をジグムント。
強面だ。

「09 : Freud」

「強面だ」じゃないんだよ。

旅先に他に持っていく本がないとき、この本を持っていくと決めている。どこから読んでも面白く、またどこで読み止めても問題ない。お薦めである。


伊藤計劃『虐殺器官』

伊藤計劃を二作も取り上げて、『虐殺器官』はないと思ったか?

当然、取り上げるに決まっている。というか思い入れなら『ハーモニー』にも勿論あるのだが、伊藤計劃について語ることなど無限に生じるので、この様な住み分けで抑制するしかなった。抑制できていないが。「SFってなんですか?」と同じくらい「伊藤計劃ってなんですか?」とSFオタクに聞いてはいけない。

ただ、「『虐殺器官』と『ハーモニー』ならどっち?」と聞かれたら、私としてはこちらを選ぶ。
まず、こちらの方が明らかに筆がノっているのが分かる。なんせ10日で書き上げたというのだから、さぞやノリノリで執筆されたことだろう。伊藤計劃による、自身の愛するメタルギアと007の、半ば同人誌みたいなものである。構造からしてかなり気を使った作品である『ハーモニー』と、この辺は好対照と言える。
それでいて、「現実世界のリアリティのなさ」というリアリティは、むしろこちらの方が上だと思う。『ハーモニー』までいくと、やはり「そういう世界があったらな」という域になってしまうのだが、『虐殺器官』の舞台は、あくまで現実と地続きだという感じがある。海外における『1984年』と同様、『虐殺器官』もまた度々言及されることの多い書であるが、最近の情勢を見ても、そうしたくなる気持ちは分かる。いつか「核兵器が使える」世界が訪れることのないよう祈るばかりだ。

良くも悪くも『ハーモニー』とそれに続く伊藤自身の死が、彼を必要以上に神格化してしまった様に思う。そしてその「呪い」は現代に至るまで解呪されておらず、この10選+10選自身もまたその例に漏れない。


時雨沢恵一『キノの旅』

「ファンタジーでは」と思った方、私のSFの定義を思い出してください。

いや別に、SF(最広義)を持ち出さなくても『キノの旅』はSFだと思う。エピソードによってファンタジーっぽいのとSFっぽいのが混在しているし、それにファンタジーとSFの区別なんて、あってないようなものなのだし。
SFの定義をセンス・オブ・ワンダーにあると考えるのなら、『キノの旅』はいつだって抜群のセンス・オブ・ワンダーを提供してくれるのだから。

国、宗教、民族、価値観、人と人……「あなたとわたしは違う」ということが、世界を残酷なものにしているし、同時に美しいものにもしている。城壁で囲まれた「国」を旅するキノとエルメスの物語。
言ってみれば「多様性」ということになるので、それをまだ経験していない中高生向けの本なのかもしれない。しかし、その「多様性」をどれほどの人間がきちんとわきまえているのだろう。いや、本当の意味で、わきまえられている者などいないのかもしれない。であれば、『キノの旅』は常に読むに値する本だ。

基本的に一話完結でシンプルな構成なのもあり、星新一を好きな人なんかはハマってくれる気がする。
星新一のショートショートと『キノの旅』は、しばしば駆け出しSF作家の悩みの種になるのだとか。「いいアイデアを思いついた!」と思っても、すでに書かれていたり。


筒井康隆『旅のラゴス』

旅と続き、また旅。

うん、というか『キノの旅』の下敷きには、おそらくこの本の存在があると思っている。ネットで感想を漁っていても、両者を比較・言及している人は多い。つまり、片方が好きな人には、もう片方がお薦め、ということ。

ときにこの本、良い意味で「筒井康隆らしくない」。勿論彼の作風自体多彩なものだから、一概に「筒井らしい」というのを定義するのも難しいのだけれど、ただ、この本からは彼特有の毒気を感じないのだ。なんというか、爽やか。『時をかける少女』ともまた違う。どちらかというと、『走れメロス』の方が近いか。

話の展開はシンプルで、一見するとこの物語、骨格自体はよくある異世界ファンタジーに過ぎないように思える。可愛いキャラクターに頼ることもない。しかしそこはあの『残像に口紅を』を書き切った筒井康隆である。なので文章も構成もめちゃめちゃ上手い。するすると、流しそうめんのように入ってくる上に、噛んでも噛んでも味が出る。シンプルであるが故に、彼の才能が一際輝く。
才覚溢れるラゴスを描くこの本のテーマ自体がそうなのだが、才能とは残酷なものである。同じ話を他の誰かが書いたとして、果たしてここまで面白くできるのかどうか。これが「小説家になろう」や「カクヨム」に投稿されていたら、きっと何人もが筆を折ったに違いない。
ラゴスは筒井だし、筒井はラゴスなのだ。


グレッグ・イーガン『万物理論』

グレッグ・イーガンは、取扱注意な作家である。

なぜって、人によってイーガン評が全然違うからだ。やれ「『順列都市』が一番いい」だの「いや『しあわせの理由』が一番だ」だの「『ディアスポラ』は難解だ」だの「『ディアスポラ』は読みやすい」だの「イーガンは長編がいい」だの「イーガンは短編がいい」だの、本当に同じ作家の話をしているのかと疑いたくなる事も多々ある。
それだけ多様な人々に愛されている作家ということでもあるのだろうし、その才能を疑う者はいないのだが、いざ彼について話してみると解釈違いで揉めがちなのがグレッグ・イーガンという作家なのである。

そんな中で、個人的には『万物理論』を推したい。「この文系が」という罵倒が聞こえてくる様だが気にしない。その通り、いわゆる理系の方々からの評価は(相対的に)あまり高くない本書なのだが、それだけに、「イーガン慣れ」していない人にもお薦めすることができるのが本書である。
ハードSF作家としてのイーガンの凄みを知ってもらうためには、ワンアイデアで通される短編よりも、アイデアの集積をまとめてぶつけてくる長編の方が実感があると思う。『万物理論』はタイトルの通り「万物の理論」、物理学の四つの力を統合する「神の数式」を求める物語なのであるが、近未来を描いたSFとして、イーガンのアイデアがそこら中で爆発しているのも本書の特徴である。国家、宗教、ジェンダー、テクノロジー、哲学。あらゆる方面で展開するイーガン節を体感せよ。


神林長平『あなたの魂に安らぎあれ』

『戦闘妖精・雪風』だけではないですよ。

神林長平というと『戦闘妖精・雪風』がまず挙がるわけだけれど、確かにあの本は画期的なのだったとしても、本当に万人に向いているのかというとちょっと怪しい(ならなぜ上で取り上げた、という話ではあるが)。一部のSFゲームやアニメに親しんでいる人ならばむしろ耽溺ものなのだが、そういう意味でやや人を選ぶ感がある。
その点この『あなたの魂に安らぎあれ』は構造的にもシンプルな、アンドロイドと人間との関係を扱った作品。それでいて神林長平の持つ特異な文体を体感することができる。全体の雰囲気的には昭和の良いところを感じさせる作品で、どことなく手塚治虫の『メトロポリス』を思わせる。

ネタバレになるので言えないのだけれど、ラストがすごく好きなんだよね。他ではあんまり見ない感じ。神林長平の魅力に「力強さ」があると思うんだけれど、長編デビューである本作からしてすでに、その魅力が遺憾なく発揮されている。

本書のみでも綺麗な終わり方をしているのだけれど、一応続編に『帝王の殻』『膚の下』があり、これらを合わせて「火星三部作」と言う。ただ、この本だけ読むでも全然良い。


藤間千歳『スワロウテイル』

打って変わってこちらはすごく「平成」。

なんだろうな。電気街としてではなく、オタクの聖地としての全盛期秋葉原の空気感というか。今は零細となった某動画サイトに入り浸っていた自分としては、これほど最高なSFというのもなかなかない。こういうの、もう流行らないんだろうか。流行らないんだろうな。初音ミクに殺された覚えのある方、お薦めです。

しかし、読んだのがだいぶ前だったせいで、甘美な記憶だけが美化されて、詳細な感想が汲み出せなくなっている。読書メーターに過去の自分の感想があるから、引用してみる。

あんまり素晴らしくて、読んでくれ、としか言いようがない。決して「万人受け」とは異なるから、合わない人もきっといるのだろうけど、この多幸感を共有できる人に、私は大きく頷き返したい。何かが生まれるときと同じほどに、何かが壊れ、消えて無くなる瞬間というのは、すべて時にかなって美しい神のなせるわざだ。

https://bookmeter.com/books/6992813

……あんまり変わらんな。
「そんなものを紹介するな」と言われても、だって過去の私が面白かったんだから仕方がない。確か読み終わったときに「記憶を無くしてもう一度読みたい」と思った記憶はあるので、脳が自動的に細かいディテールを削除してしまったのだろう。過去の自分に薦められるまま、近々もう一度読み直そうと思う。


福井晴敏『機動戦士ガンダムUC』

「ここにきて単なるSFオタクのみならず、ガノタ(ガンダムオタク)までも敵に回すのか」「よりにもよって『UC』とは」「そこは富野の書いたファーストや『閃光のハサウェイ』ではないのか」……ええいやかましい。
お薦め順で一番下に回したのは、ガノタの方々と分かり合える気がしないからだ。彼らは常に戦争をしている。ガンダムの根幹的なテーマが反戦であるにもかかわらず。図らずも彼らが、「なぜ戦争はなくならないのか」を体現してしまっている。
しかし、それでも、わたしは今『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』の話をしたいのだ。

この物語は、宇宙世紀(U.C.、Universal Century)の始まりを告げる、地球連邦政府初代首相、リカルド・マーセナスの演説から始まる。

これほどの祈りの込められた演説があっただろうか。そして、それが叶わないということの、その悲しさが、あっただろうか。
ガンダムシリーズの根幹をなす宇宙世紀の、いわゆるファーストガンダムのU.C.0079から始まる宇宙戦争もののサーガであり、その歴史は血塗られている。それは戦いに次ぐ戦いであり、人類は愚かな行為から未だ袂を分つことができない。つまり、U.C.0000の祈りは絶たれたのである。
しかし、それでも、そんな人類がかつて一つとなって、「宇宙世紀」という暦と、「地球連邦」という合一組織を生み出したことが、確かにこの宇宙ではあったのだ。その瞬間、世界は確かに一つだった。そのことに私は、希望を見出さずにはいられない。なぜなら、作中世界にとっての「過去」であるU.C.0000は、西暦を生きる我々のとっての「未来」なのだから。

『UC』のテーマは「それでも」である。世界を良く導こうとした祈りと、それがついぞ叶わない無情の中で、人の心を前に進めるのは、「それでも」という思いのみ。その思いはいつしか時を超え、人類を通底する普遍的なアンサーとして、どうしようもない今の現実世界を少しだけ照らしてくれる。

ちなみに、『UC』は小説原作である。基本的にアニメシリーズであるガンダムの中で、これはかなり例外的だ(最近になって小説原作の『閃光のハサウェイ』が映像化したが、あちらはまだ完結していない)。
要するに、小説で読むことこそが最も原液なわけで、それは本読みのみが享受できる特権である。本読みに薦めるガンダムを問われたら、私は迷うことなくこれを差し出す。

余談だが、リンクサムネは表紙装画を加藤直之氏が担当した再版バージョン。かつて彼の描いたロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』の表紙絵が当時のSF界に大きな影響を与え、『機動戦士ガンダム』におけるモビルスーツのデザインの元にもなったとか。つまり、ルーツへの帰還である。



おわりに

「万人向け」の方はなるべく傷の少ないリストを目指したものの、10選だと当然完全にはならない。
まず、ビッグ・スリー(ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク)及び日本SF御三家(星新一、小松左京、筒井康隆)の扱いだが、網羅しようとするとそれだけで10分の6が埋まってしまうため、最低限のピックアップをした。
ジュール・ウェルヌ、H・G・ウエルズ、ヒューゴー・ガーンズバックといた「SFの父」の作品も、不勉強なためあまり丁寧に紹介できるとは思えないのと、流石に古典として古すぎるのではと判断して加えなかった。
他にも、サイバーパンクの草分け的作品である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『ニューロマンサー』もあえて外した。理由は、サイバーパンクは小説よりも『AKIRA』や『攻殻機動隊』といった日本の漫画・アニメの方が代表性が高いと思ったため。せっかく「Japan as No.1」の時代のジャンルなのだから、サイバーパンクに関しては日本が先陣を切った視覚表現の方が良いと思う。

そして「独断と偏見」の方は、書きたいことが無限に出てくるので、これでもセーブしたつもりだったのだが、気づいたら一万字を超えていた。当初は軽く一冊140字くらいで紹介するつもりだったんだけどな……こんなもの、一体誰が読むのやら。
でも自己満足としては上々。これから人にSF小説を薦めるときにはこれを活用すればいいし、頭の中で整理もついた。

SF小説を読む人が、一人でも増えてくれると嬉しい。

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