『シン・ウルトラマン』の感想・考察—『野生の思考』、"不必要"なセクハラ描写、「愛する」ということ—

先日、『シン・ウルトラマン』(監督 : 樋口真嗣、脚本 : 庵野秀明)を観てきた。

執筆者のウルトラマン知識は幼少期のティガ・ダイナ・ガイア・コスモスと、ある種の教養としての初代の断片的知識(基本的な設定やバルタン星人のエピソードなど)のみ。
よってにわかなのだが、個人的に思ったことや気付きについて、備忘録も兼ねて、いくつか気になった部分があったのでnoteにて文章化する事にした。

※以下、作品に関するネタバレを大量に含みます。未見の方は閲覧注意。




『野生の思考』

神永=ウルトラマン(斎藤工)の読んでいる本が『野生の思考』(レヴィ・ストロース)であることに気付くかどうかが、本作に対する印象の分水嶺となるだろう(執筆者は鑑賞中には気付けず、後で人から聞いて分かった)。
『野生の思考』の内容はポスト・コロニアリズムによる西洋批判。西洋の"優れた"文化と非西洋の"劣った"文化という二項対立の認識は間違っており、"原始的"で"魔術的"な文化の中にも、彼ら独自の合理性や優れた理解体系が存在している、とする。西洋文化と非西洋文化は「どちらが上」という事ではなく、質的に並び立つものなのだ、と。
翻って『シン・ウルトラマン』では、"万物の霊長"を自負していた人類に、ウルトラマンや外星人といったより"優れた"存在が出現した事で、優位的存在としてのアイデンティティを人類は一旦失う事になる(その様子は滝明久(有岡大貴)の焦燥によってコンパクトに描写される)。しかしその中で、人類の"劣った"部分の価値を他ならないウルトラマンが(再)発見する事により、人類は誇りと希望を取り戻す。

マルチバース(多元宇宙)における「光の星」は人類で言うところの「世界の警察」みたいな存在らしい。基本的には干渉せず、潜在的危機があると分かれば未然に「消去」する。取るに足らない存在は「価値よりもリスクが勝る」から「消して良い」という論理。しかし、その論理や価値付けはあくまで「光の星」(=アメリカ・ヨーロッパ)の一方的なものに過ぎない。個々の価値は、他者によって与えられるものではない。
偶然に過ぎないけれど、件の軍事侵攻が被る。大国の一方的な認識によって、小国は独立の自由を侵されている。また逆に、ロシア(プーチン)の抱えている危機意識について、欧米や日本の多くは理解することを諦めてしまったように思える。お互いとも自分の立場を通して見ることしかできず、相手の考えを"劣っている"と捉えてしまうことで軋轢はより深まり、対話の道を目指すことはますます難しくなっている。——もっとも『シン・ウルトラマン』においても、対話以前に自衛・独立、という結末だったけれど。ただスケールが大きくなるだけで、地球もマルチバースも悩みは同じなのかもしれない。


浅見弘子(長澤まさみ)関係の演出について

執筆者が映画を見たのは公開2日目(5/14)であったが、すでにその段階で、内容に関する評価とは独立して映画内の描写が問題になっていた。


  • 「気合を入れるために尻を叩く描写(自分はとにかく、神永=ウルトラマンの尻を叩くのはセクハラでは)」

  • 「巨大化した長澤まさみを下衆な輩達が撮影(劇中の画像検索画面で「センシティブな画像です」表示があったので多分スカートの中とかも)し、それら画像がネットに拡散される」

  • 「敵の位置を知るために長澤まさみの『におい』を利用する(ウルトラマンの性能的にも、風呂に入っていない描写は必要なかったのでは)」

この3ヶ所が主に槍玉に挙がっていた様子。
樋口・庵野両名とも決して令和生まれの人ではないので、己のフェティシズムを突っ込んだ感じはあり、その点での批判を免れない、というのはその通りだと思う。ただし作品の構造上、これら批判は概ね想定した上で、敢えて批判を誘発し、その批判をもって作品が完全になる、という狙いがあったものとも思われる。

尻を叩く、という行為に"合理的"な意味はない。それは本人にとって「自分に活を入れる」という、一種の"魔術的"な行為に過ぎない。それを神永=ウルトラマンに行うのも浅見なりの励ましではあるが、非常に"人間的"だ(多分、あの段階での神永=ウルトラマンはその意味を理解していないだろう)。しかし、そうした"人間的"な行為に触れていく事で、ウルトラマンは「人間とは何か」を他の外星人よりも深く理解していく事になる。

巨大化・においについては、メフィラスの策謀との関わりで見えてくるものがある。メフィラスは初対面から名刺を渡してくるし、動かぬ証拠としてベーターボックスを見せてもくれる、「理解ある宇宙人」。人間の文化・習性についての造詣の深さはザラブの比ではない。

そんなメフィラスですら、浅見の巨大化が下衆を興奮させる、という結果を予期できず、インターネット全体の画像消去という、事後的な対処に回らざるを得なかった。「入念に準備したプレゼンテーション」だったのだから、予想内であれば事前に対処したはずだ。
(※対するザラブは初登場から、自らの電磁波が電子機器を破壊する事を予測していなかった、この点でもメフィラスの方が「まだ」人間を理解していたと分かる。ザラブもメフィラスも信頼獲得のための演出としてあえて"失敗"を演出した可能性はあるけど、初手から己の技術・性質を開示する意味は薄いはず。そもそも宇宙人としての"格"がザラブとメフィラス(とウルトラマン)では段違いなのかもしれないけど)。
あまりの"馬鹿馬鹿しさ"にメフィラスは考えすらしていなかった……その通り。しかし、外星人の頭脳を以ってして予想外な結果を引き出したのもその"馬鹿馬鹿しさ"である。

さらにメフィラスは「におい」による追跡も予想していなかった。そして「ウルトラマンがこんな変態行為に走るとは」とすら言う。メフィラスは非常に"合理的"で"理性的"な方面には明るい反面、"非合理的"で"本能的"な部分については理解出来ないのだ。そして結果的に、そうした人間の"非合理的"で"本能的"な部分によって、メフィラスの計画は邪魔されてしまう。"野生"で"魔術的"であることは、それだから"劣っている"のではなく、寧ろ質的に異なる長所を持っている、という『野生の思考』の論理が、この「におい」作戦において明確に実証されたと言えるだろう。
(結果的にメフィラスはゾーフィを恐れて撤退したので、「におい」の作戦が結果を伴ったとは言えないかもしれない。しかし、禍特対が動かなければ政府のベーターボックス受領は滞りなく行われていただろうし、その結果からなる結末はまた違ったものになっていただろう。その意味で、作戦には一定の効果があった)。

これら3つのシーンは、フェミニズム(「フェミニスト」ではない)の観点から言えば非常に"愚かしい"もので、こういう演出を組み込まれた映画自体もまた"非合理的"で"劣ったもの"という事になるのかもしれない。しかしこの論理は、そのまま『野生の思考』によってクリティカルに反論されてしまう。いわば批判を受け付けない、或いは跳ね返す構造があらかじめ映画の中に仕組まれている。
元来フェミニズムはマルクス史観からの流れを汲み、人間の段階的・直線的・一方向的な"進化"を理論的根底に敷いている。しかし、現在の対等な男女観が時代・地域に依拠した一形態であるのと同様、過去の"偏った"男女観にも、時代・地域に即した異なる"合理性"が備わっていたのだろうし、現代にそれが撤廃されるのは、単に時代にそぐわないからであって"劣っている"からではない。寧ろそういう"劣っている"部分こそが人間の面白いところであり、他の外星人が一笑に付し、ウルトラマンが好きになった"人間らしさ"なのだと言える。

映画や作品という媒体において、"劣っている"描写は作品自体が"劣っている"ことを必ずしも意味しない。もしそうであるのなら、殺人が過ちであるのなら時代劇やミステリは取り締まり対象で、多くの純文学作品は駄作という事になる。
勿論、女性蔑視や性の消費は明示的犯罪とは異なって潜在的・無意識的に行われてきたものなので、そういった点で作品の無意識的差別を批判する意味はある。ただ今回に関しては、この"差別的描写"は多分に意図して制作されたものだと思われるから、批判の際にはそれら「意図的な部分」と「無意識的な部分」を区別する必要はあると思う。

メタ的に、「『"不要"な描写』を描写することの意味」みたいな事も考える必要があるだろう。批判の論理としては「セクハラ的描写は本筋とは関係無く不要なものだったのだから、それを敢えて入れたのはセクハラでしかない」という事なのだろうか。しかし今回の描写は"不要"なものではなかった(寧ろ"不要"ということが"必要"だった)と思うし、何が"必要"かどうかの判断自体、立場によって異なってくる。この辺りに、描写の"必要"性によって表現の自由度を決定する事の、ある種の限界が見て取れるかもしれない。
倍速やスキップを駆使して映画を見る昨今の風潮についても、同じ指摘が可能だろう。映画の「間」や「脱線」の必要/不要は客観的に定まっているのではなく、観る側の主観的な判断に基づいている。

※当たり前のことだけれど、現実のセクハラを擁護したり、それに苦しむ人々の存在を否定したりしたい訳ではない。その苦しみは、可能な限り最小化が目指されるべきだ。名案が浮かんでる訳ではないけれど、表現の自由度確保と当事者の苦痛解消を両立する方法はきっとある、と信じている。

エヴァしかりシン・ゴジラしかり、樋口・庵野はこういうメタフィクショナルな事が好きだな、と。ただ今回の『シン・ウルトラマン』はその扱いがとても巧妙になっていると感じた。


「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」

『野生の思考』によるポスト・コロニアリズムが裏テーマだとすれば、表テーマは端的に「好き=愛」だろう。ただし一言で「愛」と言っても、『シン・ウルトラマン』には実に多様な形での「愛」があった。

  • 浅見と神永の(ハリウッド映画的な)「恋愛」

  • 子供を助けた神永の「自己犠牲」

  • ザラブの(愛の倒錯・対極としての)「支配」

  • 資源としての人類に対するメフィラスの「執着」

  • 個人主義的な外星人たちの「自己愛」

  • 異なる種族である人類に対するウルトラマンの「隣人愛」

個人的には、アドラー心理学を補助線にするのが一番しっくりくる。

自己を中心として考える限り、愛の欲求もまた自分しか向いてこない。すなわち「愛されたい」という欲求。そこから、異なる他者を認めて、それを知りたいと思い、その異なりを異なりそのまま受け入れたいと願う、その「愛したい」という気持ちこそが、ウルトラマンが獲得し、ゾーフィに「そんなに」と言わせた「愛」なのだろう。
上記事では「愛」に絡めて「自信」や「支配」についても触れていて、『シン・ウルトラマン』を観た後だと理解に幅が出てくる。超科学を前に「自信」を失った人類や、ザラブの歪んだ愛としての「支配」など。人間がどう立ち、どう生きるのかに対して、「愛」は複雑に関わっている。腰に手を当て胸を張って立つウルトラマンを「美しい」と感じるのは、それが自信と愛に溢れているから。

本作のラストで、ウルトラマンは自らの死と引き換えに、神永の命を助ける。冒頭、神永自身がそうやって子供を助けたように。彼は遂に、神永の行為の意味を理解し、実行した。映画としてはこれ以上ない、綺麗なラストだ。その自己犠牲は究極の「愛」の形である様にも思える。
……けれど、本当にそうだろうか。ウルトラマン自身が人間を愛していたように、神永=ウルトラマン自身もまた、禍特対のメンバーに愛されていたはずだ。自分が他者を「愛おしい」と思う、それと同時に他者も自分を愛しており、自分の存在はその「愛おしさ」を誰かに与えている。であれば、ウルトラマンはやはり生きて帰って来なければならなかっただろう。自分自身のためじゃなく、誰かの願いのために。そのためにみっともなく足掻くのが人間なのだから。リピアは最後まで秩序の化身、美しい銀色の巨人だった。
(※ちなみに初代『ウルトラマン』では両方とも助かるのだそうだ。ゾーフィは命を二つ持ってきていて、ウルトラマンの覚悟を聞いてその事実を明かし、二人を救う。オチとしてはややいびつかもしれないけど、こっちの方がむしろ令和っぽかったかもしれない。『シン・ウルトラマン』の結末はとても好きだし、こっちの方が庵野節でもあると思うけど。続編は無いですよ、と釘を刺したかっただけかも)

数年前、Netflixの『新世紀エヴァンゲリオン』で、渚カオルの「好きってことさ。」が「I love you.」でなく「I like you.」と訳されて、海外ファンが怒っている、という事が話題になった。

今回のこのセリフは、likeとlove、どっちになるのだろう。いずれにせよ、日本語の「好き」はこういうとき、両方のニュアンスを敢えて曖昧にできるところに趣があると思う。


その他及びまとめ

その他、気になった事としては、

  • 随所にカラー的な描写。ベーターボックス奪取時に手から出てくるウルトラマンはディスヌフ、宙に浮かぶゾーフィは巨神兵、宇宙を漂うゼットンは旧劇場版ラストの初号機、などなど。

  • 「個体/群れ」の二項対立はエヴァの「使徒/人間(リリン)」と同様だけど、そもそもエヴァ自体がウルトラマンに触発された作品なので当然といえばそう。

  • ラスト前、ウルトラマンを犠牲にする作戦を一度拒否する田村君男班長(西島秀俊)。まさに「一人の生命は地球より重い」を地で行くシーンだが、班長がこれをどういう心情で発したのかは少々複雑。「素直な気持ちとして」「合理的and人間の利他性を学んだウルトラマンが己の犠牲を納得する事を織り込み済みで、人間側としての自責の念から来る防衛機制として」のどっちだろう。

  • メフィラス(山本浩二)が愛くるしい。ウルトラマンに割り勘を提案したのは、後にも先にも彼だけなのでは。

  • ゾーフィの声が山寺宏一で推せる。

辺り。最後の方は雑念。
映画自体は、観終わった直後は情報を整理しきれなかったのと、ディープなウルトラマンネタを汲み取りきれていない悔しさでいっぱいだったので、家に帰って色々と調べたりして整理して、ようやくとても面白くなった。中途半端に「少しくらいはウルトラマンを知っている」という自負がいけなかったのかもしれない。素直な気持ちが大切。
『シン・ゴジラ』が「道具立てとしてゴジラを借りた完全な新作」だったとすれば、本作は「最大限のリスペクトを携えたオマージュとしての『ウルトラマン』」だった。ので、良くも悪くも異なる作風であり、同じ「シン」シリーズとして観に行ったせいでやや肩透かしを食らったのかもしれない。3.11を意識した「虚構のリアリティ」みたいなものは抑えめにして、「ウルトラマン的であること」に軸足を置いた結果だと思う。

それでも、とても良い映画だった事は自信を持って言える。字幕や用語を追う意味でも、再び映画体験を味わうためにも、もう一度観たいと思っている。過去のウルトラ作品については古い作品をどれだけ観れるかという問題はあるけれど、機会があれば初代『ウルトラマン』だけでも手を出したい。
ディープなファンの人はこの作品がウケるのかどうか不安で仕方がないみたいだけど、個人的には安心して貰って良いと思っている。

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