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霧に包まれては

 唐突に道を見失ったかと思ったら、あたりは霧に包まれていた。

 男は警戒心を強めて立ち止まり、注意深く耳、目を使って気配を探った。しかし、何が起こるわけでもない。

 道を見失っているばかりにどこに立っているかの判別もつかず、ましてこの霧ではむやみやたらに動くのは危険と見て、しばらく男はそのまま立ち尽くしていた。警戒心は強めたまま。

 しかし、いくらなんでも集中など続くはずもない。

 いくら待っても変わらない状況にさすがに気持ちが切れたと見え、息を抜いた瞬間、霧が晴れた。

 再びはっとしたときには遅く、しかし、これといって何があるわけでもなかった。

 軽い落胆の中、あたりを見回せる安堵も感じ、そのまま少し歩いてみる。

 するとーーそれはいつの間にそこにあったのであろう。居酒屋が暖簾を下げて煌々と赤提灯を灯している。それを見た途端、腹が空腹を鳴らし、唾が喉を通る。男は蛾のように誘われては戸を開けた。

「いらっしゃいませ」

 店内には客はおらず、女がひとり出迎えるばかりであった。首を左右に振りながら、こじんまりとした店は十分にそれだけですべてを見渡せて、女の案内のままカウンターに腰かけた。

「霧がすごかったでしょう、こちら、おしぼりになります」

 おしぼりを受け取りながら、まあ、と返事をした男は、何とは言えない違和感を覚えたが、女がお品書きを手渡すと、それもすっかり消えてしまった。

 お猪口片手に肴を眺める。ゆっくりと酒や肴を楽しんだ。一度たりとも手酌をする間もなく女がわざわざ酌を取り、会話に花を咲かせてくれるのも居心地のよいもので、すっかり上機嫌になった男は時間も気にすることなかった。

「しかし、不思議なこともあったものだ」

 と、先ほどの出来事を多少怪しい舌で話し出す。女は頷きながら話しを聞いていた。

「霧も晴れて、こんないい店に出会えたからよかったが、あのままだったらどうなっていたことか。こんなことがよくあるのかい? 正直、おれもここに越してきてまだ日も浅いんだ」

 ぴたり 袖を捲って男のこぼした酒や肴を拭いていた女の動きが止まり すっ 体を起こしてはていねいな所作でおしぼりを裏にたたむ。そうしてカウンターの奥に戻ったかと思うと、こんな話しを始めた。

「どこにでもある話しかと存じますが、こちらのあたりにも神隠しの逸話がありまして、なんでも霧の濃い日にはきまって子どもが拐われてしまうのです」

 先ほどから女の一連の動きをじっと見守っていた男は少しずつ酔いの回る頭で、そんな逸話があるのか、とつぶやいた。それを聞いた女は ふっ 笑みをこぼして、

「もちろん、逸話でございますれば。このあたりは昔から霧の濃いときがあるので、そうした話しを作ることで注意喚起していたのでしょう」

 それを聞いた男は、納得のあまりに大きく頷いた。頷きながら、心がどこかほっとしたのを見逃さず、お猪口に酒が入っていないことに気がついて注いだ。

 男はお猪口を傾けて、ふいに時計がないことに気がついたと思ったら、そういえば今何時であろう、と気になった。そろそろ、とも思い、注文した肴を片づけにかかる。お腹の具合を感じながら、想定より頼んでしまったことに反省するが、今更のことである。

 その様子を眺めながら、女は「ゆっくりで構いませんよ」と声をかけ、それに応じて「それは助かる」と返事をする。

「長い間、申し訳ない。ところで、今の時間のほどはわかるかい?」

 ふるふる 首を横に振って、

「あいにく、こちらに時計はありませんゆえ、悪しからず」

 それならいいんだ、と男は酒を飲む。

 しかし、いよいよ酔いの回りが深刻になった。このままでは、と思いながら、くるくる回り出す世界は勢いを失わない。男は、とりあえず勘定を、と思い、顔を上げると、女のにこやかな笑みに「お愛想尽かしにはなりませんね」という声が聞こえた気がした。そうして ぴくぴく と調子よく動く耳が頭に見えてーーそれきり男の意識は夢に消えてしまった……。


「あぁ、おやすみなさい。続きは、夢の中で」

 女は、眠る男をそのままに、戸を開けて外に出ると、提灯に暖簾を片づけて、戸を閉める。

 それきり、灯りは消えて、静けさがあたりを包みこんだ。息遣いも聞こえないほど音の消え去った中に、どこからともなく霧がかかり始め、白い闇が視界さえも消してしまった。そうして、霧が晴れたかと思うと、空気は喧騒にざわついており、何事もなかったかのように車が通り抜けて行った。


いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。