見出し画像

本当のところはきっと、自分の意識上にも届かない無意識にこそ現れる

 指が滑りゆくたびにこぼれていく音の粒が立体的な別次元の空間を形作り、清流となって私たちの体を包みこむ。

 目を閉じれば、温かな光が水面を照らしてゆれているような、そんな明るさを感じさせる。私は今、部屋の中にいるのか、川の水に包まれているのかを見失い、心地よい呼吸の中でたゆたっている。

 それはたぶん、私だけではないだろう。

 これほどの快い時間を私はこれまで、そう多く過ごしてはいない気がする。

 この瞬間、不安も恐怖も悲しみも、きっと喜びや幸せのような、明るい感情すら排し、ただ自然であった。

 初めてこの世に生を受けたその刹那を切り取り、産声もなく閑寂とした思考だけが淀みなく流れていくような、この感覚。

 自分の正体はただ無力な赤子であって、そこには何があるわけでもない。何もない。ゆえに、これほどの快さはなかった。身にも心にも何も纏わない、纏っていないこの感覚があまりにも心地よく、私は今まで何をしてきたのだろう、と切に感じた。

 私がこれまでしてきたことは、私を不安にするための装いだったのかもしれない。着飾り、化粧をし、取り繕い、思考を巡らして身を守り、心を守り、それを守るためだけに労力を費やすような。

 必要だったのはこれなんだ。一糸纏わぬ無為自然こそ、かえって不安を感じない姿勢だったのかもしれない。

 と、思うのも束の間、か細く途切れてゆく音のかけらが幻想の海を消し去り、水流が止まり、地面に立っていることを改めて認識させると、夢から覚めてしまったような脆い記憶と共に、私は確実にこの部屋にいることがわかった。

 目を開けると、すでにピアノから手を離した彼の背が見えた。姿勢よく佇む彼の姿が余韻となって、幻の音を四方から奏でている。

 それも儚く、音が空気に飲みこまれるーーと、彼はすっと立ち上がり、こちら側を向いて頭を垂れた。静寂はわずかな時を刻むと少しずつ、少しずつまばらな拍手と共に豪勢な音響に変わり果て、それは彼の瞳がこちらを向くまで続いた。

 私は拍手もできず、呆然とその様子を眺めていた。

 いや、眺めていたのは、私なのか?

 彼はゆっくりと舞台を去ると、先ほどの光景が嘘のように がやがや 雑音があたりに響き、気持ちが悪い。私はそうそうに立ち上がり、この場を後にした。

 繊細な空想を生み出す彼の指はまぶしいほどに輝きを放ち、私はそれだけを見ていたかった。

 けれど、彼の世界を感じるたびに、私が本当に立っているのはどこなのかがわからなくなってきてい…‥いや、違う。どこに立っていたいのか、頭の中ではわかりきっていた。

 それを望むのは、私にとってどういったものになるだろう。

 そうして今日も、彼のソロ・コンサートに赴いた。

 いつものように、彼が作り出す世界に浸り、私はたゆたう。と、

「君はどうしたいの?」

 声が、聞こえた。

 びっくりして目を開くと、彼が私を見つめて舞台に立っており、周りには嘘のように誰もいない。

 彼の瞳はまっすぐ私を見つめて美しく、力強い魅力を感じた。そうして笑みを浮かべる彼の儚さが私を虜にし、その声から逃れられなかった。

「この世界にずっといたいかい?」

 私はどう答えたいのかわかりながらも、何も応えることができなかった。口にしたい言葉は頭ではわかっているのに、声も出ず、体も動かない。何かが私の時間を止めているように、私はただ彼の言葉に耳を傾け、姿を見つめることしかできなかった。

 それは、何かーーかろうじて残る私の中の灯火がわずかながらも私を留めているようであった。

 彼の瞳は先ほどまでとは違って冷たくなっていき、鋭くなっていくのを感じる。とたんに、氷が溶けていったようにやわらかな表情を浮かべると、悲しげなため息をつく。

「君はまだ、違うんだね」

 目を開けると、すでにピアノから指を離した彼の姿が見えた。

 私は拍手もできず、呆然とその様子を眺めていた。

 いや、眺めていたのは……。

 彼が舞台から去ると、雑音があたりに響いて気持ち悪くなる。

 私は、彼の世界にずっといたい、と願いながら、それがいったいどういったものであるのかが計れず、佇んでいる。

 どれが安心で、何が不安で、彼の旋律を耳にするたびに必要なものが理解できながらも、私はまだ何もできずにいる。……いや、彼の世界にずっといるなんてこと、そんなこと、初めからできるわけないのだ。

 ただ、もし、もしそんな誘いがあったなら、私はなんてこたえるであろう。‥‥そんな空想、しても意味ないのだけれど。

 雑音が響く。こんな音、聞いていたくはない。けれど、紛れもなく立っているのはこの雑音が響き渡る世界……。

 私はただ、私を守るために着飾って、しまう。結局、逃れられない。けれど、私はどれに本当の安心を感じているのだろう……。

 それが何かもわからないまま、私は彼の舞台に通い続けている。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。