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大阪ショートトリップ

先日、友人と大阪へショートトリップに行ってきた。
皆まで言うな。分かっている。しかし格安LCCの魅力に憑りつかれてしまたのだから仕方がない。
改めて数えてみると大阪はこれまでに10回ほど行っている。個人的にはこの数に驚きを隠せない。なぜかというと大阪の街を後にする度に次の縁を感じないからである。めぐり合わせというのはこういうことを言うのだろうか。
夕方に関西空港に着くも市街までは遠かった。この時のわたしは季節の変わり目、肌寒くなってきたからか心細さに打ちひしがれ感情の沸点が低かったように思う。何かが特別にうまくいってないことはないのに訳もなく泣きたくなるような日が続いていた。おかしいなと思いながらもそこから早く脱しようと明るくしてみたり、思いっきり沈んでみたりしたけど効果はなかった。さて困った。そんな中での旅行の会話は少し毒のある会話が多くなってしまう。
乗り換えに失敗したりして少し遠回りしつつも何とか大阪駅に着き息もつく。必要なものが駅に向かって密集しているのが大阪らしさだと思うのだが、そのおかげで構内はいつも混雑している。みんなどこかに向かって急いでいる光景が東京と似ていて、わざわざ時間をかけて遠いところまで来たのにまたこれかいなとうんざりする。それがわたしの大阪を敬遠する所以だった。人の波をかき分けかき分けやっとの思いで地上に出て梅田方面へと向かうもそこにも店を探してうろつく人・人・人。辟易しながらちいさなスーツケースを転がし目的地へと急ぐ。その道のりはどうにも興味をそそる数々の飲食店でごった返していてどの店も魅力的だった。するとさっきまでの殺伐さはどこかへ消え、早くご飯を食べようと二人の足取りは軽く早くなった。
深夜まで大阪名物料理をしこたま食べて飲んで満足し岐路に着く。二人ともご機嫌だからか全てのことに素直に反応する。お互い髪からソースの匂いがするとキャッキャしながら歩いていると、ふと今心に引っかかっていることをぶちまけたくなった。
ところでわたしは誰かに頼ることが不得意だ。これまで自分でできることは自分で片付けてきたし、頼るとしてもかなり人を選んできた。おかげで本音を言える相手は片手で数えられるくらいしかいない。その片手の人にも自分の気持ちをとりとめなく話をすることが苦手で、それは相手を困らせることが目に見えているからである。それにプライドもある。そんなくだらないものいつ持っちまったんだよと思うが、仕方がない、どこかで背負ってしまったんだろう。そんなだから漠然とした不安や小さな悩みを誰にも共有できない孤独感をずっと抱えてきてしまった。でも多かれ少なかれそんな人はいるだろうし、いずれ消え去ることは知っているんだからそれまで耐え忍ぶしか方法を取り続けていた。それが何の緩みか因果なのか、今目の前にいる彼女にぶちまけている。とつとつと、満杯の急須からゆっくりお茶を注ぐように様子を見ながら少しずつ話をしだした。
気の合う人なんて普通に生きていても会うのが難しいんだから、時間がかかるのは当たり前だと思っていいんじゃない?
というのが話を聞き終わってすぐの彼女の言葉だった。
目から鱗だった。正直当たり前の言葉といえば当たり前だし、きっと2~3年後のわたしが受け取っていたら「だよね」で済む話なのだが今のわたしには彼女のその言葉は金言に近かった。
いつからわたしは本質よりもスピードに重きを置いてしまったのだろうか。そこまでいいと思えないのに求められているからって数少ない選択肢の中で選ぼうとしていたのか。否!という選択肢がなかった自分がなんだかすっごく間抜けに思えてしまって信号待ちで爆笑してしまった。そんなくだらないことで心細くなっていたのか、だったらもっと自由になって楽しく毎日を送ったほうが健全だ。帰ってまずすべきことがこの時に決まった。
翌日、夕暮れ時のいい時間にわたしたちは川沿いのカフェでぼーっとしていた。特に話しもせず、ただただ暮れていく街を眺めながら時間を共にした。久しぶりに充足感でいっぱいで、幸せで泣きそうだった。こんな時に話題を見つけて話すのは彼女にはなんだかもったいない気がしたのだ。ただただわたしのままでここにいていいんだという安心感がそこにはあった。ここにもこんな時間が流れているんだなと気づき、めぐり合わせに感謝してのであった。

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