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自分にとっての「アウトドア」とはそもそもなに?

本日は、代々木公園駅徒歩3分ほどのコーワキングスペース

makitaki** さんでのアウトドア議論。**

「未来のアウトドアとは?」から雑談から始まり、それぞれが感じるテーマで議論しました。

そんな脳疲労が多くて、感じた久々の議論メシ体験談。

感じたことは、その「アウトドア」というキーワードからこんなにも面白いことがおきるのか?という沢山感じれた日でした。

これは「メモの魔力」でも使われるファクトから抽象化する、抽象化の体験を「アウトドア」で、感じた。

とても面白かった議論デーでした!

今日の私の(今ある中での)結論は、人それぞれに「アウトドアのようなもの」は必ずあって、何気に「アウトドアのようなもの」を感じてる。

そもそも「アウトドアのようなもの」を近くにあることを気付いてないだけである。なぜ近くにあることを感じてないかというと、一般的な「アウトドア」は狭義で、バイアスがかかって見えなくなっているのかも知れない。

私が言いたいアウトドアは広義の意味での「アウトドア」である。

その広義の「アウトドア」は外に出ればもうアウトドアで、アウトドアから刺激を感じる。家みたいにリラックスできる場所を求めたり、ある意味会社もアウトドアである。

そのアウトドアの先にあるのは五感の刺激である。特に日本という先進国は不便を感じれなくなっている。そもそも途上国は余裕も無く、不便だらけ。そんな意味での少しだけ不便さを、逆転の発想で面白さに変えることができる「アウトドア」はどこにあるのか?

また先ほど、帰り道にえぐしんさんと会話して感じてたのは、「アウトドア」の前提イメージが違うと、各々の体験にあるアウトドアイメージが突出しまい議論が発散する。
アウトドアとの前提とは何か?で議論は深まるかも知れない。

それはまるで四次元ポケットから出てくるような感覚でもあった。

人によって違う「そもそもアウトドアとは?」の前提。

「アウトドア」と感じるもの?は人によって違う。例えば、

部屋から一歩外に出ればそこはもうアウトドア。
体験から感じる事ができるアウトドア
小さな五感から感じれる刺激があるアウトドア。
その人の歴史がそもそもアウトドア

何がアウトドアなんだろう?とも感じた。

とても抽象的になったが、そのような言葉として出てきた。

人にとって「アウトドア」とは多種多様で様々でもある。

何億万年からある感覚で、少しだけ遺伝子レベルで「記憶の追従」を少し感じた。

「記憶の追従」は感覚だからうまく、説明できない。

自分が「自然」という本来の姿をアウトドアに求め、自然に帰ることを求めてるのか。(人の命が永遠ではないのである意味正しい)

今日の議論は面白かった。多様なアウトドアですね。

言葉の定義が変わるだけでこんなにも感じ方があるんだと思った日でした!

結論として、私は健康を体験できるアウトドアイベントをたくさんできると良いなと思いました!

#議論メシ

おもしろきこともなき世を面白く 議論メシ4期生http://gironmeshi.net/ メンタリストDaiGo弟子 強みほがらかさと発散思考 外資系企業でインフラエンジニア