無題

横殴りの雨の中でぱっと空が明るくなって、君嶋が「あ」と言った。僕よりずっと視力が悪いくせに君嶋は裸眼でがんばっていて、今も何かを見ようとするように目を細めていた。どーんと大きな音がして、雷が落ちたのが分かった。近い。それもかなり近くだ。「落ちたな」と君嶋が言った。意を決して、傘を畳んで走り出す。すでに全身ずぶ濡れで、ここまで来たら傘は意味がないのだった。「雷はさ、滅多に傘に落ちないんだって」と言いながら、君嶋も傘を畳んで追いかけてくる。
誰もいない路地を走る。制服のシャツもズボンも濡れて、気持ちが悪かった。もうすぐ家に着く。またぱっと空が光って、昼間のように街を照らした。僕の家の屋根の、瓦の形まではっきりと分かった。「うちに寄りなよ。雷がやむまで」と言うと、「厭だ」と君嶋は言った。
「俺、お前の母ちゃんに嫌われてるから」
また空がかっと明るくなって、君嶋を照らした。
「昔、ダンゴムシが」
「は?」
「入ってる袋を開けっ放しにしたからさ」
早く入れ。
「それをさ、おまえんちのリビングに置いてたから俺」
思い出した。
「母さん、いま仕事でいないから」
君嶋を三和土に押し込む。
「夕方帰るときに見たら、袋からっぽでさ」
「タオル持ってくるから待ってろ」
「リビングにダンゴムシがいっぱい歩いてて」
玄関に戻ると君嶋は、かばんも下ろさずに突っ立っていた。タオルを投げてやると「げえ、ジャビットだ」と言いながら髪を拭き始める。
「それでお前の母ちゃんダンゴムシ見て叫んでさ、覚えてる?」
いつまでこの話を続ける気なのか、君嶋はかばんに付けたつば九郎のぬいぐるみストラップを丹念に拭きながら一人で話し続けた。服や髪が濡れているのも不快だったし、10年も前のことを事細かに説明してくれる君嶋も不快だった。
「それで二人してダンゴムシ拾い集めてさ」
五月蠅い。今すぐにでも豪雨の中に放り出したくなる。
「俺が出ていったあとお前の母ちゃんが二度と連れてこないでって言ってたの俺聞いちゃった」
そこだけ一気に言うと、君嶋はへらっと笑った。そうだっただろうか。覚えていない。「今でもたまに見つかるよ、ダンゴムシの死骸」とでも言ってやろうかと考える。言えば君嶋はあっさり信じて、きっと目を細めて死骸を探そうとするのだろう。
「こういうことばっかり覚えてるんだよね。人が嫌いだって言ったもののこととか、なんかそういうことばっかり覚えてる」
雨の匂いが玄関に立ちこめて、家の中は静かだった。
「田畑は確か、蜘蛛とピーナツバターが嫌いだよね」
「嫌いだけど」
人の嫌いなものを記憶の中に溜め込んで、いつか君嶋の記憶はそれでいっぱいになってしまうのではないだろうか。それはなんだか、とても理不尽なことのような気がした。つば九郎のストラップは、がしがしと拭かれたせいで少し形が歪んでいる。
「もう連れてくんなっていうのは」と言うと、君嶋は「うん?」と目を細めた。
「君嶋のことじゃなくて、ダンゴムシのことだったんだと思う」
君嶋は一瞬きょとんとすると、「あっ、そうなの?」と言った。そんなわけがあるか、と思う。それでも君嶋は信じたらしく、「そうかぁ、そうなのかあ」と言って、へらっと笑った。雷は少し遠ざかったのか、外では雨音だけが続いていた。

ツイッターの#君・僕・悪で文を作ると個性が出る というタグを引き延ばしたものです。

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