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帰郷

会社を辞めようと決めたとき、一番困ったのは社章だった。返却しなければならないそれは、実家の机の引き出しにしまってあるのだった。

実家を出るとき、たまには帰るだろうと思って、わりあいにいろいろなものを置いたままにしてきた。それから様々なことがあって、実家に足を踏み入れないまま3年が経った。思えば帰りたいと思うような場所ではなかったのに、なぜたまには帰ると思ったのか、今となっては分からない。家を出るということが穂香に見せた、感傷の幻だったのか。

両親が旅行に行くと聞いたのはちょうどその頃だった。無人の実家に入ることができる。この機会を逃す訳にはいくまい。

1月、日曜、夕方5時。

3年ぶりに降り立った地元の駅は恐ろしく田舎だった。マクドナルドもすき家もイオンもない。二日前に降ったはずの雪が驚くほど残っている。田舎であることは暮らしていたときから分かっていたはずなのに、一度外に出たからこそ分かる薄ら寒さと暗さがあった。駅の中には余ったスペースに無理やり作った、変に細長いセブンイレブン。駅前にはスーパー。あったはずの歯医者はなくなっていた。あとは田んぼと畑と民家。少し歩くと民家と民家の間に脈絡なく大きな薬局ができていた。確かここはくさはらだった。秋にはすすきがたくさん揺れていた。

15分ほど歩いて実家に着いた。向かいの原田さんの奥さんが雪掻きをしている。声が大きくてずっと苦手だった。姿を見られないように門扉を開いて、庭に滑り込む。雪の溶けているところを選んでドアに辿り着く。足元に雪と水の混じる、ぐじゅぐじゅと嫌な感触がある。鍵が変わっていたらどうしようかと思ったが、杞憂だった。許されたような気持ちになるのはなぜなのか。自分の家であるはずなのに、人目がないことを確認してドアを開いた。

玄関は散らかっていた。

老後の片付けと称して、母親がフリマアプリで様々なものを売り払っているのは知っていた。引き出物か抽選の景品なのか分からぬ食器やタオル類が、箱に入ったまま積み上がっている。配送に使うらしいスマートレターは束になっている。一瞬呆気にとられたが、長居は無用。自室のある二階へと上がった。

母親は、穂香にとっては問題のある人だったが表立っては良妻賢母であったと思う。穂香がいつでも帰ってこられるように、部屋もそのままにしてあるだろうと思った。

部屋に入って愕然とした。自分の前に強盗が入ったのかと思った。すべてが、本当にすべてがひっくり返されていた。クローゼットの服は残らず投げ出され、押入れに入れていたシルバニアファミリーの家は部屋の真ん中で転覆、枕は机の前に吹き飛んでいる。机の上には本棚に並んでいたはずの本とブックエンドがぶちまけられ、椅子には骨の折れた雨傘が二本。床には教科書や参考書が散乱している。青チャートが懐かしい。フリマサイトで売れるものを探していたのだろうか。人の物を勝手に。それにしてもこの狂乱ぶりは何事か。

やはりここは帰る場所ではなかった。その確信はすとんと穂香の頭の中に落ちてきた。テトリスの空洞にぴたりと4連のブロックがはまった時のようだった。すとん。ここは帰る場所ではなかった。ここは帰る場所ではなかった。大きく息を吐いてからの穂香の行動は早かった。机の引き出しを開ける。少し探せば社章はすぐに見つかった。棚を見る。日記が残っていた。中学生時代から15年ほど書き続けていたものだった。中身はすべて検閲された後だろうけれど、なぜこれを家を出るときに持ち出さなかったのか不思議でならない。10冊以上ある日記帳をすべて引っ張り出した。かなりの重さだ。一階に降りて、廊下の収納を開ける。紙袋の保管場所は変わっていなかった。大きめの伊勢丹の袋を抜き取り、日記帳を放り込む。こんなところにはもう1秒だっていたくなかった。ここはやはり帰る場所ではなかった。原田さんの奥さんがいないことを確認して、穂香は静かに家を出た。

郵便ポスト。集団登校の集合場所だった。
バス停。友達と話していたくて、わざと遠回りのバスに乗った。
公園。夏祭りのビンゴゲームはいつもリーチばかりでビンゴにならなかった。
スーパー。値引きシールを勝手に張り替える老婆を見た。

町のいたる所に記憶があって、間違いなく自分はここで生まれ育った。しかし帰る家がここにはない。だったらもう、戻ることは本当にないと思った。電車に乗り込む。持ち重りのする伊勢丹の紙袋。帰ったら日記帳は全部捨てようと思った。読み返す必要もない。電車が動き出す。厚く積もった雪が、徐々に遠ざかる。家に帰るのが苦痛だった日々のことをちらりと思い出す。学校の帰りにこの路線に乗ると涙が出た。でも4連ブロックが落ちてきて、全部消える。電車が加速する。4連ブロックが落ちてくる。もう何も思い出さない。


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