映画感想:『アニメGODZILLA』は「滅び」に抗い「生命」を繋いだ人間のSF物語だ。(ネタバレあり)

 虚淵ゴジラもといアニメゴジラ、3部作完結作である『GODZILLA 星を喰う者』を見てきた。

 最初に言っておこう。ものすごく面白かった。

 実のところを言うと個人的には『シン・ゴジラ』とは似ても似つかなく、それでいてかの名作にすら負けないほどに哲学とSFを語り尽くしていた傑作になったとも感じたりする。というよりも私が虚淵節が大好きなだけかもしれんが。書いていこう。
 そして今回は例外的にネタバレ全開でいくぞ。見てない人は回れ右してゴジラを憎んで倒してこようね。

 怪獣映画として見るなら怪獣プロレス合戦はあまりないし、もしかすると肩透かしを食らうかもしれない。しかしSFと哲学という意味でいうならば実に素晴らしい映画であったと思う。
 今作では「地球人とゴジラ」「ビルサルドとメカゴジラ」「エクシフとギドラ」という3つの種族と怪獣の三つ巴のような状況であったと感じられる。その三つ巴は決して単純なものではなく複雑に絡み合うことで、生命とは、進化とは、人間とは。そういった抽象的な概念の哲学をSF的に探求できる良い映画になっていたと思いたいな。
 怪獣プロレスという意味では第一作が一番やってたと思うけど、私的には第一作が一番イマイチに感じられたんだ。第三作目のメトフィエス大暗躍祭りとかギドラ大暴れを見ているとすごくぐっと来た。

 今作アニメゴジラを語るなら「生きて勝つか、死んで勝つか」がテーマであるかなと思う。そしてハルオの生き様の変化が人間の象徴としてふさわしいのかもしれない。

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 序盤のあらすじ風に書きながら説明していこう。
 第二作において主人公ハルオは「肉体をナノメタルに侵食させてメカゴジラになることでゴジラを倒す」という超合理主義種族ビルサルドの悲願を否定した。その結果ゴジラを寸前のところで倒しそこね、メカゴジラも大切な人も失うことになった。つまり「生きて負けた」ことになる。
 そしてその直後でフツアの民に保護されてる地球人たちから第三作が始まる。生きてるけどゴジラに勝てなかったことで絶望する地球人たちに、異星人種族エクシフの大神官が布教する宗教はものすごく浸透する。ハルオがナノメタルの侵食から助かった理由が奇跡であると持て囃され、もはや異常といっていいくらいにエクシフの教えは伝播していく。

 だがそれこそがメトフィエスもといエクシフの企みであったわけだ。彼はこう言う。
 怪獣であるゴジラに「生きて勝つ」ことが叶わないなら神に頼るべきだ。神に供物を捧げることで「死んで勝つ」のだ。そのような祈りを結集してメトフィエスはエクシフの超高次元の科学は、超高次元からの究極的生命体「ギドラ」を招来する。
 ギドラはハルオたちの母線であるアラトラム号を容易く撃沈させ、そして虚数からの侵略という一方的な攻撃によりゴジラでさえも歯が立たずに追い詰められてしまう。
 それを目の当たりにした主人公であるハルオは、どちらを選ぶのかという物語である。

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 ここで大事なのはゴジラとギドラにある対比構造だ。
 ゴジラは地球の生態系そのものとなって実在する神である。つまり現人神、「存在する神」だ。生きている神と言ってもいい。
 ギドラは逆に他の宇宙から超次元的な存在として君臨した神である。つまり虚数的な神、というか「存在しない神」だ。死を求める神と言ってもいいかもしれない。
 しかしアニメゴジラが面白いのは単なる対比構造に色んな要素が加わり、複雑化していることである。
 予告編で「滅びの救済」か「命の繋ぎ」かと求められている。「滅びの救済」がギドラで「命の繋ぎ」がゴジラか……と言われると実はそうじゃない。ゴジラに負けることを選ぶのもギドラに命を捧げて終焉を迎えるのもどちらも「滅びの救済」である。

 そんな滅びの救済を絶対に認めようとしないのが、主人公である地球人サカイ・ハルオその人だ。

 物語を最初から考え直してみるとハルオはかなり変化したのだ。第一作目では「死んででもゴジラを殺す、倒す」という「死んで勝つ」を求めていた。作中でメトフィエスから指摘されてるように死にたがっていたのである。

 ところがどっこい、ゴジラは簡単に殺せるものじゃないし自分も生き延びた。そして迎えた第二作目でメカゴジラの手を使ってゴジラを倒せるかもしれない!と思ったところで突きつけられる真実は「メカゴジラという新たな怪獣にならなければゴジラを倒せない」という残酷なものだ。「死んででも勝つ」ことを求めていたけど、ハルオにはゴジラがメカゴジラにすり替わるだけというものを認められなかったのだ。その結果「生きて負ける」ことになる。
 だが第三作目、モスラの恩寵によって生きながられてきた新人類のフツアの少女から「勝ちは生きること」「負けは死ぬこと」と当たり前のことを諭される。ここでようやくハルオは「死んで勝つ」を捨てることができたのだろう。
 その結果ハルオは「生きて勝つ」方を選ぶためにメトフィエスと対決し、ギドラの侵食を食い止める。ある意味ゴジラが勝てなかったギドラにハルオが勝つという意味合いもあるか。母船も失った地球人はフツアの民と文明を捨てた原始生活を過ごし、フツアの少女も無事ハルオの子を妊娠した……
 ハルオは「滅びの救済」ではなく「命の繋ぎ」を選ぶことができたのだ……

 で、ここで終わるわけにはいかなかったのだ。

 天才博士のマーティンがメカゴジラ製のユニットを奇跡的に復活させてしまった。これによってユニットに存在するナノメタルから記録された文明の数々を蘇らせることができる。つまり人類は文明を取り戻すことができるとマーティン博士は喜ぶ。
 ハルオはそれを良しとはしなかった。できなかったのである。文明や知性への過度の欲求は過度な進化をもたらし、その結末はゴジラとメカゴジラとギドラ。

 ハルオはあの因果の輪回が巡ることを断ち切りたいと決断する。そしてハルオは(おそらく独断で。小説版で補足があるのかも?)ナノメタルに取り憑かれて植物状態となったユウコと共にユニットに搭乗し、ゴジラに特攻する。そして当然の帰結として、神となっているゴジラはハルオもろともユニットを熱線で消滅させる。
 これは、ハルオがかつてゴジラを憎悪していた頃に抱いていた「死んで勝つ」でもなく、ハルオ自身も死亡したために「生きて勝つ」でもない。

 エンドクレジット後、はるか先の時でフツアの民が祈りの儀式を行っている。憎しみや嫌なこと依代に込めて、焚いた炎にくべて無病息災を願うというささやかな儀式。その炎は「オイカリ様」と呼ばれ、その儀式を老婆になったハルオの妻が見ている。で物語は収束する。

 ハルオは死んでしまったが、ハルオの特攻によりフツアの民という「命の繋ぎ」は残されたのである。

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 ほとんどあらすじを書いているような状態になったがわかってもらえただろうか。
 つまりハルオという人間がゴジラとの戦い、メカゴジラの否定、ギドラとの対峙の果てに「滅びの救済」から「命の繋ぎ」を掴み取ることができた英雄譚にもなっているのだ。
 いやはや、まさか人間で実質ゴジラから生存権という勝ちを拾う奴が出てくるとは。それもある程度納得できる理由で。そこがすごく好き。
 地球の生態系になったゴジラ、生物に侵食し新たな怪獣となろうとしたメカゴジラ、超次元から星ごと喰らおうとしたギドラ。どれが勝っても滅びの救済から逃れることはできなかったし、よもや人間でそれを貫いたハルオという人物のメイキングに甚く感心する他ない。

 ……うん、聡明なあなたなら気づいてるだろう。ハルオの特攻後のゴジラはどうなったの? 描かれてないんだよなぁ。そこが不満。
 あれから変わらず生態系として君臨してるんだろうなぁ……ただしフツアの民ならばゴジラとも共存できている部分あるし、あのギドラとの攻防の後にゴジラが活動を縮小させているとかならば確かに意味があったりもするし。そうであってほしいなって。
 そこらへんの描写は小説行きなのかも。少しモヤモヤする部分なのでちゃんと語ってほしいなぁってとこかな。

 そろそろまとめに移ろうか。
 第一作目を見た時には「ハルオくんという一人の人間をゴジラを倒す英雄に仕立て上げる物語はイマイチだなぁ」と思い、第二作を見た時には「メカゴジラになってゴジラを倒すか、ゴジラを倒せず野垂れ死ぬかをハルオくんに決断させるなんて虚淵さんは残酷だなぁ」と思い、第三作目では「メトフィリスやりたい放題で虚淵さん最高だなぁ!!」に至った。
 怪獣はあくまで4つの立ち位置、人間、神にも匹敵する怪獣、超合理主義の機械文明、破滅主義の超次元的存在の4つを立たせるものでしかなく、怪獣同士のプロレス合戦とまでしなかったのはまぁ致し方なかったのかもしれない。

 ただ、「生態系そのものになり神に匹敵する怪獣」として描くならそりゃゴジラ以外に適任者はおらんだろう、とも納得できる。この作品はゴジラでなくちゃあならなかった。

 そのような意味で、私はアニメ「GODZILLA」も「シン・ゴジラ」とは違うベクトルでゴジラを描ききった作品として称賛したい。SF作品として見るならアニメGODZILLAも良い、怪獣映画を見たいなら断然シン・ゴジラだ。
 以上を以て文章を締めくくろう。

 最後に一言。
 こんな残酷な世界を押し付けられたサカイ・ハルオくんは、虚淵玄に殴りかかっていい。
 

私は金の力で動く。