大卒と受験勉強に意味はあるのか

このエントリはYoutuberよさまつの動画と彼のアイデアをまとめたものです。全体的に僕の意見も混じっています。拙い部分も多いですが一読して頂けたら幸いです。

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新卒就活市場では高卒よりも大卒が優遇されるがそれには企業側からみた立派な理由と利益がある。

大卒優遇の理由として1番多く見られるのは、大卒は受験をくぐり抜けてきていることだ。このエントリではこの理由が、世の中において大卒優遇に関する支配的な根拠であるとさせて欲しい。

大卒は大学受験を経て何かを学ぶ過程を経験しその重要性を身をもって知っており、仕事の現場でもそれを再現性を持って勤しんでくれる。企業の採用リソースには限りがあり全ての学生は見れない。だから高卒よりも大卒は優秀である可能性が高く価値がある、と主張される。それはぼくも間違いのない事実だと思う。

が、これが気持ち悪い。彼らが自分で言うように、大卒は大学受験を経たから優秀なのであり、大学に在学していた期間に得たものを理由に採用することはあまりない。仮に大学に在籍している間に獲得したスキルを理由とするなら、具体的にはどのスキルのことを言っているのだろうか。
また、就職した人間でも大学で得たものが今現在の仕事に活きていると言う人も多くいるが、実際多くの場合それは大学でなくとも似たようなものを手にすることができると思う。ポジショントークにハマる人は多い。

このエントリで言いたいことのひとつはつまり、大卒資格という大学在籍期間が主産物であるものに対して、副産物であるはずの受験というスクリーニングや受験における努力や勉強を採用する上でのメインの論拠としているのだ。ここにねじれ、気持ち悪さを感じるのだ。


似たようなことは例えば学校のルールの中にも見られる。義務教育課程や高校には様々なルールがあるが、それらも変だ。
有名なのだと髪を染めてはいけないというルール。
これもなぜ髪を染めてはいけないのか、染めるとどういう弊害があるのか具体的に説明されることはなく、既にあるルールを守ることに絶対の価値を置かれる。
せいぜい既存のルールを守れないと立派な大人になることは出来ないとか、ルールがすでにある以上それに従えとか難癖のような主張を学校側はする。
これはつまり、ルールを守る過程に価値があるのであり、どういうルールを守るのかはそこまで関係ないし特に考えてもいないと言っているのと同じだ。ここでも主産物であるルールの内容ではなく、ルールを守っていく慣習や価値観を身につけるという副産物を論拠にしている。このねじれ、この気持ち悪さ。

先程大卒というよりも大学受験に価値があり、採用する側は大学自体にはそこまで価値を求めていないと言った。これならば大卒資格ではなく大入資格を新しく用意した方がいいだろう。
そしてこのエントリで何よりも言いたいことは次のことだ。

「大学受験には価値があるが、大学受験で使った勉強の内容や科目には価値がない」、ということだ。


受験科目の中でも例えば英語国語数学は文理で幅はあるものの1番価値を示しやすい科目な気がする。国語によって論理を、英語によって英語検索による情報量のアドを、数学によって進学後に他の理系科目をさらに学ぶことが可能になる。現代のテクノロジーの多くは一般人にとってブラックボックスなものが多いが、その裏に自然科学つまり数学が隠れているのはみんな感じとるところだろう。
人によってキャリアが違うので全員が必ずこの3科目をこなす必要はないが、1番メジャーで無難な科目な気がする。
で、例えば古典や漢文は要らなくないか?現代のどこで使うんだって話だしお金にならない。日本史や世界史は学ぶ価値を感じるものの必修である必要はあるのか。たしかに教養は大事だが、教養以前に需要が無いことにコストを掛けることや、いつまで経ってもマネタイズできないことにリソースを割くのは間違いだと思う。
いくら張りぼての教養があっても科学技術や経済発展からもたらされる豊かさが無ければあまり意味はないでしょう。書籍で自学自習する自由は残されているのだから。
自分の国の歴史を知らないと恥をかくともよく言われるが、そもそも生活の中で外国人と会った時の初対面で歴史の話をするか?あなたが初対面でそんな話を外国人に振ったなら恐らく、かなりの確率で面倒な奴だと思われるはずだ。それに、出会った外国人が他国の歴史に興味があったり自国の歴史の勉強さえも修了している可能性はどれくらいだろう。教育環境の整った先進国である日本ですら自国や世界の歴史に疎い人は多い。そもそも人間の平均的な教養レベルというのはかなり低いとぼくは個人的に思っている、もちろんぼく自身も。たまたま出会った外国人ならそれはなおさらだと思う。


受験科目には価値がないことについて話を戻す。
大学受験は受験勉強なのであり勉強をするものだ。
ここでも、なにを勉強するのかが主産物のはずなのに、大学受験をこなし競争に勝ってきた学ぶ姿勢のある人間をスクリーニングするという副産物が大学受験の価値の本質になってないか?
ここにも気持ち悪いねじれがあると思うわけだ、それがこのエントリでしたい主張だ。
ルールを守る時も、ルールを尊重する姿勢を学ぶことに価値があると言われた。ぼくもその通りだとは思うが、それなら従うルールの内容も合理的で価値のあるものにすればもっと良いじゃないか。
大学受験だって、受験競争によるスクリーニングに加えて価値のある勉強科目にすればもっといいじゃないか。

世の中はここ100年でかなり変化した。ビジネスの場面で要求されるスキルセットは軒並み変わったのに、受験科目はいまいち変わってなくないか?

それは明らかにおかしいし怠慢だし損失だと思う。世の中のスキルセットが変わったのに受験勉強の科目が変わってないことは、大学受験の矛盾点を十分示すものだと考える。
もしかしたら文科省とかは、大学受験で要求される知識は普遍的なスキルを揃えたもので、時代に左右されるものではないと主張するのかもしれない。
でもそれは本当か?現代で古典や漢文で文章を読むことはまず無いが本当に古典や漢文がいるのか。日本史と世界史の歴史科目にはどうしても年号のような暗記的な部分が多く含まれるが、そんなことをテストで問うような試験のまま恐らく100年経っているが本当にこれでいいのか?
自国の歴史や世界史を知らなくとも十分立派な労働者兼納税者になれると思うし、グローバルに働くことも可能だと思うんだ。社会人としての敷居を無理に上げたところで多くの人々はそれについていけないとも思う。古典や歴史以外の科目にも恐らく同じようなことが言えるだろう。


ここで例えば、歴史を学ばなくなると過去の失敗を反省して次に活かせないとか、その知識がいつか失われることを危惧する人がいるかもしれない。
これに対して言いたいことはいくつかあるが、ここで2つ言う。
1つは大学受験で必要とされる科目にも市場原理、競争原理を適用すればいいということ。古典や歴史を強く勉強した学生と数学を強く勉強した学生がいたとして、この2人のその後のキャリアは間違いなく数学を勉強した人間の方が素晴らしいものになるはずだ。当然年収も高い。
その結果を社会全体にフィードバックすれば、自然とどの科目が選ばれどの科目が選ばれないか決まるはずだ。本当に価値があり、現在でなくとも将来の実用に耐えるものであれば、その科目が完全に淘汰され後の時代に残らないということは恐らくない。
現代の消費物の多様性、生産者の供給するニッチ分野のカバー具合を見れば分かる様に、残るものは恐らく残るのだ。市場というのは本当によくできたエコシステムで、歴史の失敗からの反省や脈々と続く自国の歴史もそれが価値あるものなら残してくれる。
仮に失われていつか将来人類が痛い目を見ればその時は、その分野の勉強をまた復興すればいいと思う。人間は完璧じゃないし未来予測は出来ない。それよりは現在の人類の集合知によって受験科目も選ぼうよ。

で、2つめ。今ある科目が失われる危険性を説くならば、今選ばれていない科目によって得られていたはずの利益にも目を向けるべきだ。
例えばインドは20世紀前半ではかなり貧しい国だったはずだ。文化的な因習のせいもあり経済発展出来なかった。そこにパソコンやインターネットが登場し国を挙げて注力した結果、現在では未来輝かしいことこの上ないほどの発展具合を見せている。
もしも日本もどこかのタイミングで、何かの科目を減らして代わりにインドと同じようにプログラミング教育に力を入れていたら、得られていたはずの利益は莫大だったはずだ。
今あるものが失われることを憂うのも大切だが、それを言うなら今現在失われていて目に目えていない潜在的な価値にも目を向けなければおかしいと思う。
矛盾はいけない。


さて、最後にもう一度まとめる。

新卒就活市場で大卒が優遇されるのはそれは大学受験のおかげだ。大学受験がなぜ強い根拠となるのかと言えば、それが競争だからだ。大学が優れているからでも大学受験の勉強内容が優れているからでもない。たしかに現在の状況でも十分すぎるほどの利益を発揮してきたこのシステムだが、もっと良くできるはずだよね。

この二重の入れ子構造に少しでも気持ち悪さを感じてもらえたら幸いです。

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