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敬体と常体

私、何度となく敬体で文章を書こうと試みるんですが(←ほら!)言葉を重ねるごとに常体に戻っていくんです。

なら最初から常体で書けばいいんですが、不特定多数の人に聞いてほしいなって思ってるうちは敬体が先立ってしまう(←こんな感じで切り替わる)

学校の文法的には常体、敬体は統一しましょうと習う(今もそうなのかわからないけど)。私自身整えることもあるし整えようと思えば整えられるのだけどあえて直さないことが多い。
その方が生のテンションが伝わると思っているので。自然に常体になったものを後から敬体に戻すのって文として取ってつけた感が出るというだけではなく、思考の流れ、下手すれば結論をねじ曲げてしまうことにもなる。

これは私の思考の癖でもあると思うけど、最初は「みなさん聞いてくださいませんか(敬体)」と始めておいて、「AなんだからBである(常体)」と周りを置き去りにして自論に没頭してしまう。
敬体には周囲に目配せをする余裕を感じるのに対して、常体は対象物に対して近視眼的になるところがある。目線が違うのだから思考も変わる。

たぶんこの感覚は日本語でしか伝わらなくて、そんな思考の枠組みがあること自体他の言語の人にはあまり知られていない気がする。敬体常体のある言語が他にあるのか知らないけど。

だから、まあ、そんなことを思いながら私の文章を読むとテンションの移り変わりがわかって楽しいかもしれないです。

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