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【歴史】名取熊野三社創建年代のまとめ

今年は「名取熊野三社900年祭」です。

名取老女が勧請した「1123年」に由来する記念という事になりますが、勧請由縁についていろんな説があり、断定できない歯がゆさを感じています・・・。

※新宮から本宮、那智神社へ勧請したとも言われます(小野宮司より)

熊野三社の創建年代は、各々異なりますが、年代ごとにまとめてみました。
最初は、別々に三社が置かれていたとの見方もありますが、名取熊野三社を同年代にしている由縁は『熊野堂縁起』によるものです。

「護法」の能(世阿弥・音阿弥)に基づいて縁起が作られました。

仙台湾→紀州熊野灘
名取川→熊野川(音無川)
高舘山→熊野連山

に、見立てられますが、
紀州は海と陸がとても近いのに対し、
閖上の海から高舘山まで10キロ以上離れています。

元は、下余田に熊野三社が置かれていた為、
名取川(当時は川は南下していた?)説もあるため、
川沿いにあった船着き場が、巡礼者を迎え入れる環境にあった
と思われ、「わらじの名取老女」が誕生したと考えられます。

それぞれの勧請年代

古くは、719年 名取熊野那智神社創建。
広浦の漁師による羽黒大権現勧請由縁。

お正月の名取熊野那智神社の様子

1120年 名取熊野本宮創建。

始め、三色吉(現:岩沼)にあったのを、
現在の本宮から南西200m離れた「小舘」に移されたのが
1120年と伝わります。(平安末期)

名取熊野本宮

1123年 名取熊野神社(新宮)創建
名取熊野三社の中心地。

後に熊野新宮社、熊野本宮社、熊野那智神社を
合祀し熊野神社と改称されます。

名取熊野新宮

なぜ、この年代にしているか不明ですが、
1120年~1123年(保安年中)は、初代奥州藤原氏、藤原清衡の時代にあたります。

史料として文献に確認される古いのものでは、
『名取熊野神社文書』1341年(暦応4年)
「熊野新宮一切経典~」のことで、

後、同書に1366年(貞治2年)「熊野三所権現」の記載があるため、、
この頃に、三社成立したとみる説もあります。
※1384年(永徳4年)『石橋棟義願文』にも「三所をまつる」記載有

紀州の山伏が梛の葉をもたらし和歌が誕生した縁起は、もっと後です。
1502年(永正2年)『熊野堂縁起』(江戸中期)神人権大夫友明筆(熊野神社蔵)

<下余田の熊野三社について>

『名取老女旧跡記』1603年

前田村にいた源七郎という者、先祖代々住み、
老女宅は前田村にあったと記されている。→烏の宮

下余田の熊野三社

<伊達郡(福島県)の熊野神社について>

『名取老女物語』
1108年(天仁元年)に伊達郡信夫の里人が
熊野堂へ参詣したとあり、長岡(現:岩沼)より建て始め、
1108年熊野堂の遷宮。
名取老女は前田村近くに草庵に居住。

『大聖寺縁起』(福島県桑折町)奥州札所三十三観音十三番
「~三熊野は元慶(881年)名取老女の草創なり~」

大聖寺の観音堂

「~名取の老女と聞こえしは即ち其の郡志賀の里に旭と
いいし神子なり~」と、鐘に旭の名が記されています。

伊達郡の由縁が古いのは、羽黒講による(出羽三山)もので、これは、高舘山の飛龍大権現の由縁と同様に古いため、熊野以前は羽黒修験の場であったことになります。

伊達家の時代(1700年以降)になると、
伊達綱村(藩主四代)の命を受けた専門家が、各地の神社由縁を編纂させ、

興味深いのは、
伊達宗房筆の『奥州伊達郡熊野堂縁起』(1676年 延宝4年)
熊野神社に奉納されている事です。

名取老女伝承でみる年代

能から誕生した名取老女を視点にしてみれば、
古くは、1156年(保元元年)『袋草紙』による
「陸奥国に参詣しける女」と記され、

鎌倉時代1205年(元久2年)『新古今和歌集』
「陸奥に住みける女」

中世、室町時代1433年(永享5年)『大経直談要願文』、
「奥州の女」

1465年(寛正6年)『護法』による
「陸奥の名取の老女」
この音阿弥が演じた護法により都で流行し、
「名取」の地が広まることになります。

この「名取」から名取老女が熊野三社を勧請したことになっており、
「名取」の地を特有の名称として用い、「名取老女」を縁起に記すことで、名取熊野三社は名取老女の固有の名称となり広く呼ばれるようになります。

尚、奥州札所観音霊場の開基については、
三十番札所「補陀寺」智膏和尚ら七人の僧達により
開基されたと伝わりますが、

その開基について
名取老女 中興開基、鎮守府将軍藤原秀衡~」
の名があげられます。

※『一関市史』

老女の宮(熊野神社)

まだまだ、謎が多い名取老女、名取熊野三社ですが、
今年も少しづつ記録していきます。


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