名取老女とみちのくを旅する過去と未来

宮城県名取市に熊野三社を勧請した名取老女の伝承を研究中。 先人たちが伝承してきた様々な…

名取老女とみちのくを旅する過去と未来

宮城県名取市に熊野三社を勧請した名取老女の伝承を研究中。 先人たちが伝承してきた様々な伝説や昔話は、 現代の私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。 東北地方独特な風土を受け継ぎ、 語り部となって心の旅へいざないます。

マガジン

  • 名取老女物語

    中世の名取の巫女伝承を研究しています。宮城県名取市に熊野三社を勧請した「名取老女」伝承の子孫、虹乃さんを中心に名取老女を考察中。宮城県南の歴史、伝説の他、東北の豊かな自然を伝える、みちのくらしい旅などもご紹介します。 facebook https://www.facebook.com/groups/natorirojo/?ref=share 問合せ:yamacity777@yahoo.co.jp (名取老女研究会)

  • 東北地方の熊野神社と熊野信仰

    名取熊野三社や名取周辺の歴史・伝説の考察。羽黒から熊野へ、旭から名取老女へ、日本海から太平洋を繋ぐ。

  • 伝説の山と海をあるく

    【山幸】伝説の宝庫、東北地方の伝説を歩く山と海を紹介します。

  • 巫女伝承「旭神子」を解く

    名取老女にはもうひとつの顔をもつ「旭神子(あさひみこ)」がいます。なぜ、熊野の名取老女はアサヒと融合したのか?旭神子の伝承を紐解く民俗学の世界へ。

最近の記事

【熊野信仰をめぐる】熊野信仰の原点となった花の窟

2023年2月5日に開催された和歌山県新宮市丹鶴ホールにて 「新宮・名取ロータリークラブ主催」の 「熊野の魅力再発見」と題して名取老女研究会が招かれました。 前日に紀州熊野三社を案内して頂いたことを記録にまとめておきます。 初めての紀州熊野です。 名取老女が何度も紀州へ参詣した理由、 その魅力がどこにあったのかは、実際に訪れてみてわかってきたことです。 穏やかな熊野灘、雄大な森、人々の寛容さ、 そして豊かな植生がつないだ命の信仰。 また、被災地へ新宮RCの植樹や新宮市

    • 鯨塚が伝える唐桑半島の熊襲(クマソ)とヤマトタケルの終焉地 

      先日、岩手県釜石の方へいくことがあり、帰る時に唐桑半島に行ってみました。唐桑半島へは研究会のメンバーと2017年6月に訪れていた所です。 海の守り神です。 今から1300年ほど前、紀州の熊野から唐桑半島へ数か月かけて上陸した事が室根神社縁起にあり、熊野信仰と鯨信仰は深い関係にあります。 鯨は御崎神社の御使いの霊魚と言われ、 唐桑半島の先にある御崎神社の森には鯨塚がいくつか祀られており、 そのひとつは神代文字(阿波文字)で書かれた鯨塚です。 由来は、 「1873年前年か

      • 【伝説】小野小町は熊野比丘尼だった?

        大崎市古川にある「小野小町の墓」 小野小町の墓は複数ありますが、ここに「新田夜烏の里(にいだよがらすのさと)」という名前がありました。 訳すならば、「ヤタガラス」と言っているようなことでは? 「新田夜烏の里」の伝説「都での華やかな生活も年波には勝てず、晩年ふるさとの秋田に帰る途中、 ここ、新田夜烏の里に差しかかったころ、にわかに病に倒れてしまった。 草庵を結んで氷室の薬師に百日参りして病気平癒の祈願をかけ、 明日が満願成就という日に精根尽き果てて、路傍に倒れそのまま没し

        • 名取熊野神社の湯立神事

          10月7日土曜:17時30分~名取熊野神社で湯立て神事が行われました。昨年も行われたのですが、今年は、900年祭なのでたくさんの方々が集まっていました。 その翌日、10月8日秋大祭が行われますので、 前夜祭の湯立て(湯の華神事)となります。 湯立て神事の歴史が、どのくらい古いかは定かではありません。 神社関係者から伺いました湯立て神事を記録しておきます。 修験道に由するもので夜神楽にのみ演じられる。 「庭鎮(にわしずめ)の舞」の後に舞の場所が祓い清められてから奉納される

        【熊野信仰をめぐる】熊野信仰の原点となった花の窟

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        • 東北地方の熊野神社と熊野信仰
          24本
        • 名取老女物語
          18本
        • 伝説の山と海をあるく
          12本
        • 巫女伝承「旭神子」を解く
          10本

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          【神社】武蔵国賀美郡から勧請の加美町宮崎の熊野神社の歴史

          加美町は、宮城県の北西部に位置する大崎地方。 船形山、薬莱山などが加美町の象徴の山です。 奈良時代の『続日本紀』には賀美郡と記されてます。 その後、色麻郡を併せ、江戸時代に賀美郡から加美郡に改名しました。 ちょっと奥山にある熊野神社。 鳥居近くまで車でいけますが、途中、参道のような道があり、 昔はこの道から歩いていたようです。 ここのおくまんさまを知ったのは、御浜降りを昔行っており、60キロも離れた鳴瀬川河口まで海水に神輿をつけて禊をやっていたことを知りました。 熊野

          【神社】武蔵国賀美郡から勧請の加美町宮崎の熊野神社の歴史

          【新山観音堂】奥州三十三所観音霊場札所納札

          先月、平泉へいき、その帰りに立ち寄った花泉町。 平泉の本拠地近くで観音霊場に関係する資料、名取老女伝説について記されている所です。 「奥州札所三観音霊場の始まりは、1123年(保安年間)頃とされています。その後、盛衰を経て、1761年(宝暦11年)、気仙沼・補陀寺の智膏和尚により再興されました。 そのうち花泉町内には、 十七番 老松・観音堂・十一面観音(大祥寺) 十八番 老松・六角堂・如意輪観音。 十九番 金沢・新山観音堂・十一面観音 二十番 花泉・観音堂・千手観音(徳寿

          【新山観音堂】奥州三十三所観音霊場札所納札

          長谷釜集落の塩の釜

          岩沼の昔話に「おすずひめ」というのがあります。 いつ頃の話しかは不明ですが、古くから斎宮の言い伝えがあるように、 斎姓・斎藤姓が多い集落と言われています。 このあたり一帯は製塩法が伝わっていたとされ、 藤原実方が多賀城へ赴任した時に名取の道祖神で亡くなっている話などは、 塩と砂金の交易のためであり、(39号線は塩の道と言われていた) 塩と深い関わりをもっていた藤原家がみえてきます。 塩の名取郡古い文献『塩竈神社祭神考』より、 大歳神(大年神)は、農耕に力をもち、その御子奥

          【神社】『今熊野神社』の老女さんと継承された榊流神楽

          今熊野神社は、名取市赤坂の地名にあります。 別名「赤坂神社」とよばれていました。 ここは、桜がとてもきれいな所です。 この坂を登る途中に、縄文~弥生の今熊野遺跡があります。 方形周溝墓東北地方で初めて発見され、 このような方法は、中部~関東~東北へ伝わったようです。九州地方ではほとんどありません。 縄文の森がまだ残されているような所。 その赤坂の今熊野神社にも、名取老女のような話しがあり、熊野権現のお告げから許可されて神社を建立した由縁があります。 今熊野神社由縁御

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          塩釜港から近い松島湾の離島で過ごす島時間。4つの島を巡る浦戸諸島をご紹介【朴島編】

          浦戸諸島にある4つの有人島のなかで、一番小さな「朴島」。 マリンゲート塩釜から市営汽船に乗り1時間弱。 終点の島です。 人口:約20人 面積:0.15平方キロメートル 周囲:2.2km ほとんどの観光客は、桂島や野々島で降ります。 釣りをされる方も多いです。 最後まで船に乗っている人は、数人でした。 船を待つ休憩所があり、Wi-fiも繋がります。 向かいに簡易トイレも設置されており、きれいでした。 降りるとさっそく「菜の花」の道。 二か所あります。 弘安十年銘供養

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          福島市茂庭の熊野神社【信夫佐藤氏兄弟の母:乙和御前】

          福島市の飯坂温泉より西側に茂庭地区があり、信夫郡の領土を得た佐藤基治の妻、乙和の方を頼って名草の鈴木氏(藤白鈴木氏?)が建立した神社がある。 ※茂庭は、伊達藩の家臣、鬼庭氏が領土を得ている。 (豊臣秀吉の命で名を茂庭に変えている) 熊野神社の由来紀州名草の村長鈴木塞庫翁が紀伊国熊野神社に最も深い家系をもつ飯坂大鳥城々主佐藤庄司基治の妻、佐藤継信の母乙和の方を頼って直接熊野から この茂庭秋庭の地に勧請した熊野神社である。 代々の天皇におかれても皇室の衰微を憂いてその改修を

          福島市茂庭の熊野神社【信夫佐藤氏兄弟の母:乙和御前】

          【信仰】和田氏と藤原実方の熊野那智「実方院(じっぽういん)」

          先日、母方の曽祖父が紀州熊野那智神社の 神主をされていたという方にお会いし、宮城県にお住まいの方でした。 何があったかわかりませんが、那智神社に勤めていたが、 神主をやめて宮城県に移り住んだそうです。 真相を知るべく県内の研究機関に問い合わせたり いろいろ先祖のルーツを探していたけれど、 結局、わからなかったそうです。 名取老女の口承も、多岐にわたりいろいろあります。 紀州出身者や名取を治めた先祖など、紀州と関わりのある末裔は、たくさんいたと思います。 さて、この方の

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          【能】護法(ごおう)の名取ノ老女と世阿弥

          先日、仙台在住の能楽師、山中迓晶(やまなかがしょう)さんと名取熊野勧請900年実行委員会とお会いする機会があり、『護法』についてこの本を紹介して下さいました。 かなり古い本ですが、謡曲の本で最後の方に『護法』がのっています。 『護法』により「名取」の「老女」が都で流布し、 熊野堂縁起は、この『護法』を基につくられたと言われています。 世阿弥が創作したものを音阿弥が演じた記録がありますが、 護法は廃曲となり上演されなくなり、600年近く埋もれていたそうです。 江戸時代に

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          【紀州】熊野本宮大社旧社地「大斎原」の音無川

          和歌に多く詠まれる「音無川」 名取老女が勧請した由縁では、名取川を熊野川に模している。しかし、芸能の世界では、音無川としたい理由があった。 名取川を音無川と模した理由は、大斎原による。 つまり、「禊」のこと。 国立能楽堂にて開催された(2016年) 復曲能「名取ノ老女」より、 長年途絶えていたものを東京国立能楽堂が、 「復興と文化」と題して約130年ぶりに復活させた。 復曲能のために作成された部分もあるが、 歴史というより能から生まれた芸能であり、 名取老女が文化であ

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          【神社】名取熊野神社の老女宮とわらじ

          今年は、名取熊野神社勧請900年になります。 名取老女が勧請した由縁によるものですが、 文献、史料が乏しい中でも、 長い間、伝承されてきた理由は何でしょうか。 老女神の由縁 新宮は、明治以降に熊野神社と称される。 初見は、『名取熊野神社文書』1341年(暦応4年) 祭神 速玉男命、伊邪那美命、事解男命、菊理媛神。 ※事解男命(ことさかのおのみこと)掃きはらって生まれた神。 老女宮(老女神)の由緒 昔、名取に一老巫女がいて、深く紀州熊野三神を信じ、しばしば登拝した

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          【信仰】閖上港の聖観音堂(三古寺)

          先週、大崎市鹿島台へ行った時、 偶然通りかかった「三古寺」に参拝する流れになりました。 本殿の裏へ回ると、真新しい観音堂があり、 大きなキラキラした観音様が鎮座されていましたが、 天井の提灯には「閖上港」の名があったのです! 「富聖観音菩薩」 なぜ、宮城県北部の山側に閖上港からの奉納が? 住職に訊ねてみたが、詳細はよくわからないと。 近くに「富山」の名のつく山があり、そこにあった観音様を こちらへ移したそうです。 ここの観音様が、海の守り神であった為、 漁師が奉納

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          閖上「いかり祭り」のこと

          新宮の本殿隣に、錨の図がありました。 以前は錨だけあったのですが、看板が新たに設置されていました。 宮城県図書館所蔵の領内祭集の一つに閖上浜錨祭絵図があります。 図の解説によれば、 安政年間(1854年~1859年)以前から 閖上浜では大漁を祈願し錨を供養する行事があり、 後に閖上浜の大祭としたとされています。 錨祭ついては、いつ頃から始まり、いつ頃まで行われていたかなど詳細な記録や文献が確認されず正確にわかりませんが、 現存する絵図からある程度当時の祭を知ることができ