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【熊野信仰をめぐる】熊野速玉大社と東北から巡礼にもきた権現川原

最初に訪れた新宮市の熊野速玉大社。

熊野速玉大社(新宮市)
※世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道「熊野速玉大社」

熊野速玉大社は、生命の根源である自然の働きを神格化した「熊野速玉大社を主祭神とし、神邑として中央にも知られた熊野川河口部に有史以前から鎮座してきました。

9世紀頃に神仏習合の影響を受け、熊野権現として信仰されるようになり、
熊野三社を巡拝する熊野詣が11世紀頃から盛んとなり日本の歴史、
文化に大きな影響を与えました。(世界遺産の碑より)

鳥居を抜けるとすぐ横に「ヤタガラス」と「天手長男」
を祀るお社が迎えてくれます。

ヤタガラス(八咫烏)神社
御祭神:建角見命(たけつのみのみこと)
古くから丹鶴山麓に奉祀されていたもので神武帝の道案内をしたヤタガラスとされ、熊野神の使者とも言われる。

鑰(かぎ)の宮 手力男神社
御祭神:天之手力男命
延喜式神名帳に紀伊国牟礼群手力男神社とある由緒ある古い社で、もと神門内に祀られていたが、嵯峨天皇の813年に勅命により現地近くへ遷り、
明治40年に新宮神社へ合祀されました。(武道・健康・開運の神)

丹鶴城跡(たんかくじょうあと)

梛の木

熊野速玉大社の梛は、昭和47年、沖縄が本土の復帰した年後、神木の苗木が沖縄の地に植樹され、40年後、各地の農林高校等で発見されました。
立派に根付いているその姿に沖縄の苦難の歴史が重なり、感慨深く、当大社宮司のもとに平和を願う心ある人々が集い平成24年6月「世界平和の祈り」が捧げられました。

看板より
梛の木

平重盛公が國安かれと手植えをされたと伝わる大木。
樹齢千年の梛。
旅の安全や葉が強く枝とくっついているのでなかなか切れないことから強い縁結びのご加護があり、また波の凪の意味もあるとの事。

この梛の葉は小さいです。
本宮や那智大社など境内には多くの梛の木が見られました。
梛は暖かい地域で生息するので、東北地方にはありません。

梛の葉(本宮大社)

オガタマノキ

古くから神木として境内に植えられ、由来は「招霊(おぎたま)からきている。
オガタマノキ 

名取老女が梛の葉を熊野権現から頂くシーンがあります。

山伏が枕元に現れた熊野権現からたくされた言葉は、信仰深い名取老女へのお礼の言葉でした。47回のお参りから最後の1回が年老いて行けずにいたところ、その梛の言葉から48回を果たすことができ、阿弥陀如来(本宮の本地仏)の影向を仰ぐことができたというお話。

梛の葉は、遠くから熊野へお参りへきた人が無事に旅を終えられたことを、お迎えする習わしとして今も伝わっています。

熊野速玉大社について

「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、
熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、
その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。

熊野速玉大社本殿

初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。

日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。

悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、
自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。
また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。

十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である
「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。」

※熊野速玉大社サイトより

十二の神殿は以下の神々

上四社
  第1殿   結宮(むすびのみや)
  第2殿   速玉宮(はやたまのみや)
  第3殿   証誠殿(しょうじょうでん)
  第4殿   若宮(わかみや)
 中四社
  第5殿   禅師宮(ぜんじのみや)
  第6殿   聖宮(ひじりのみや)
  第7殿   児宮(ちごのみや)
  第8殿   子守宮(こもりのみや)
 下四社
  第9殿   一万・十万宮(いちまん・じゅうまんのみや)
  第10殿   勧請宮(かんじょうのみや)
  第11殿   飛行宮(ひぎょうのみや)
  第12殿   米持宮(こめちのみや)

名取熊野神社の拝殿裏には、那智権現、証誠殿などが祀られています。
ここに名取老女が1123年、熊野のそれぞれ三社勧請したと由縁にあります。※各々が最初から別々に置かれ、後に現在の熊野神社に三社置かれた説や最初に熊野神社に三社があり、後に、別々に置かれた説など詳細はわかっていません。

名取熊野神社の拝殿裏にある奥の院(本宮十二社権現社、(手前)老女宮)
名取熊野神社 手前から那智飛龍権現社、証誠殿、(熊野造)

熊野速玉大社の拝殿を出ると駐車場があるのですが、
稲荷神社の裏の鎮守の森がとても心地良かったです。


河原町について

駐車場の隣に「川原家横丁」というのがありました。

江戸時代から昭和の初めまで、熊野川河口近くの権現川原には、川原家(かわらや)と呼ばれる家が百数十軒も立ち並んでいました。

この家は、釘を一本も使わず、組み立て、解体が簡単にできるようになっていたので、熊野川の大水で川原が水没する前に解体し、船町(速玉大社横の町並み)の避難場所である上り家(あがりや)と呼ばれるところへ運び、
水が引くと、再び元の場所へ戻し組み立てました。

看板より

また、筏流しや三反帆と呼ばれる生活物資を運ぶ小船がすべてこの川原に着いただけではなく、関東・東北方面から来る巡礼や熊野三山参詣者、
さらには三重県側の人々も渡しを利用し権現川原へやってきたそうです。

当時は、多くの人でにぎわい宿屋、鍛冶屋、散髪屋、銭湯、飲食店などが
ここへ来れば何でもそろうほどの町が形成されていました。

現在は途絶え、昭和20年になくなりました。


名取熊野三社は、紀州の熊野三社に模した写し霊場とも言われます。

何度も名取老女が紀州と往復することで、東北と紀州の道を繋ぎ、
その紀州のエネルギーを名取にもたらしたかったと思います。
当時も壮大な熊野信仰に圧倒されたと思いますし、名取老女も同じように感銘を受け、みちのくへ広めたいと思ったのかもしれません。

次は、神倉神社について。

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