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【信仰】熊野権現影向図のこと

この図は、阿弥陀如来が大きく雲から現れ、
熊野権現を信仰する者だけに見えるとされた
影向(ようごう)図と言われる。

下の方に4人の人物が描かれ、
そのうち一人が熊野権現に合掌する
老女の姿が見えるといわれる図です。

名取老女の姿

この老女が、名取老女と関連するというのは、
江戸時代中期、檀王法林寺の影向図に
由来書が書かれており、
「奥州名取の老女」と記されていました。

いつ頃描かれたのでしょうか?

山越阿弥陀図の一群」の仏画とも言われ、
鎌倉時代に入ってからの制作になり、
禅林寺本と金戒光明寺本がよく知られています。

この絵図と同じものが
神奈川県正念寺にもあります。

「絹本著色 熊野権現影向図」というもの。
神奈川県立歴史博物館に貯蔵。

本来は、三幅であり、由来書の一部に

「那智山浜宮示現」→ 絵図の下鳥居と、
小さい祠は、浜宮であるものと伝えています。

「尊像三幅之内」→絵師により図は、三幅で描いている。
※三つで一体。

その図柄は、伊勢太神宮に納めた形像のものであると。

三枚のうち、ひとつは、京都檀王法林寺へ寄付されたと。

由来の最後に、
1枚は、老女が所持(どの老女をさすか不明)
2枚は、熊野証誠殿(本宮)
3枚は、伊勢太神宮

しかし、仏の図が神社に奉納されるのは、
あまり考えられません。

なぜ、奥州の老女であったか。
詳細は、わからない部分が多いのですが、

由緒の終わりの方に、
老女の後孫 竹下氏に伝来したのが、
檀王法林寺に寄付したと書かれているとの事です。

老女という女性の熊野信者(尼)であり、
「老女ーこれは思心尼である」と末孫の文がありました。

『熊野権現影向図説』(神道宗教)
近藤喜博氏の著によれば、

「この図の筋として、奥州名取の熊野信者の老女たち
一類が那智の浜宮で拝した奇端を、
たまたま、熊野三山へ参詣の恵心僧都が
老女にあって奇特の示現を聞き、それを絵画に表現したと」

後に付け加えられたもので、
信者獲得のために必要な絵図として
作られたものであったかもしれません。

この図は、竹内氏が持っていたものであることが
由緒書にあったわけです。

伊勢との関わりがあったため、家宝を檀王法林寺
へ寄贈したと思われます。

なぜ、京都の伊勢にあるのかは、
伊勢と熊野の巡礼に関係があり、

「伊勢に七度、熊野に三度」と言うように、
熊野古道から伊勢巡礼の参拝者が多かったことも。

ひとつ、気になる点は、
同じ図が神奈川県相模原にあったことです。(武蔵国)

「妙弥思心」という名から、
「妙音菩薩」に関係していることは?

相模国といえば、「瞽女縁起」に相模が登場します。
嵯峨天皇第四宮の相模姫宮が、瞽女一派の元祖になったことが由来。

相模の姫君が盲人の子で、
七歳の時に紀伊国那智山如意輪観世菩薩
が枕元にたつ話。

「青龍妙音弁財天(出町)」と言い、
芸能の巫女として、西園寺家、伏見宮家がもたらした
妙音弁才天とされています。

熊野信者が船を使ってお参りする際、
陸奥~神奈川県三浦半島を経由しています。

名取市の「駒王丸」は「ごりんさま」と呼ばれ、
熊野堂のやぶさめ射手を復興したと伝わる。
駒王丸は、三浦義村の次男、三浦光村の幼名との事。

その時に、伝わったものと思われますが、
熊野信者の老女が、相模(武蔵国)にも
伝わっていたことが、興味深い絵図です。

名取老女は、一人の人物ではなく、
総称として語られてきたのかもしれません。

※関連記事

参照:『熊野権現影向図説』(神道宗教)近藤喜博氏


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