【神社】ゆりあがった観音様のルーツは?
名取の熊野那智神社は、高舘山の山頂に鎮座し、
祭神は羽黒飛龍神、熊野夫須美神(くまのむすびのかみ)をはじめ、
6柱をお祀りしています。
719年閖上の漁師治兵衛という人が、海中より十一面観音菩薩像を引上げ、後に高舘山に遷し祭祀します。(熊野堂郷土史略年表)
閖上の名前の由来は、仙台藩4代藩主・伊達綱村が
大年寺山門からはるか東のゆり上浜を望み、
「門の中に水が見えたので、
門の中に水という文字を書いて『閖上』と呼ぶように」。
と言った伝説から「閖」の漢字が生まれました。
※「淘」を後に閖にした説もあり。
しかし、この伝説から熊野那智神社であるのに、なぜ羽黒なのか?と思うのです。
元は、高舘山は羽黒城と呼ばれた要塞との説もあるように、出羽三山とは深い関係があります。
どこから、羽黒と那智が関係するのでしょうか?
山形県の文殊堂に名取郡との関わりがありました。
山形県置賜郡高畠町亀岡に
日本三文殊と数える亀岡文殊堂があります。
807年に徳一(会津:恵日寺)が創建したと伝わり、
1573年~「大聖寺」と称したとあります。
その大聖寺の磬(けい)に、
「名取郡仏響寺」と陽鋳されていたそうです。
これは、廃寺になった名取郡吉田村の那智山物響寺
にあったものとされるのです。
なぜか、文殊堂にあった磬に名取郡物響寺と陽鋳(器物や銅板などの表面に文様や銘文)が記されてあったのです。
なぜ、名取郡のものが文殊堂にあったのかはわかっていません。
その名取郡にあったという仏響寺は、
『封内風土記』によれば、
586年羽黒山物響寺開基と、相当古いのですが、
「羽黒山」となっています。
仏響寺の開山は、用明天皇の時代(585年~)
蜂子皇子開山年代は、593年。
敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇。
崇峻天皇の子は、蜂子皇子と伝わり、
出羽三山を開山したと伝わる皇子です。
ご開帳の時に拝観しましたが、白い人像でとても優しいお顔でした。
蜂子皇子の母と伝わるのは、福島県川俣町、
養蚕を伝えた小手姫です。
「秦」の名をもつ人と養蚕を伝えたと伝わり、
小手姫は、大伴氏の娘です。
このことから、
始めは「羽黒山」だったことがわかります。
後に、
「那智権現が勧請され別当として那智山物響寺と改号した」
と、あるため、
始めは羽黒山であったのを、後に那智山にしたと考えられます。(719年のタイミングはここで?)
物響寺を開山した人は不明ですが、弥勒寺の末寺でした。
物響寺のあった所は、「観音崎」とよび、
那智神社から少し離れた所にあります。(オレンジの線)
光るモノがゆりあがった(羽黒大権現)説は、
ここからきているのかもしれません。
また、名取老女を導いた伝説の「大きな烏」は、
「烏の宮」として残されています。
その伝説と同じように、
蜂子皇子開山の出羽三山由縁でも、
「三本足の大きな鳥」と伝わるのです。
「聖徳太子の勧めにより、宮中を逃れ、越路(北陸道)を下り、
能登半島から船で海上を渡り、
佐渡を経て由良(現鶴岡市)の浦に辿りついたところ、
三本足の大きな鳥が飛んできて、羽黒山へ導いたといいます。」
なぜ、羽黒から那智山へ
観音像の伝承に変化したのでしょうか?
「熊野水軍」が登場する歴史が、岩手県にあります。
もう少し深堀してみます。
参考:名取郡仏響寺の文明五年銘磬(石黒伸一朗)
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