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【神社】武蔵国賀美郡から勧請の加美町宮崎の熊野神社の歴史

加美町は、宮城県の北西部に位置する大崎地方。
船形山、薬莱山などが加美町の象徴の山です。

やくらい山


奈良時代の『続日本紀』には賀美郡と記されてます。
その後、色麻郡を併せ、江戸時代に賀美郡から加美郡に改名しました。

加美町宮崎の熊野神社

ちょっと奥山にある熊野神社。
鳥居近くまで車でいけますが、途中、参道のような道があり、
昔はこの道から歩いていたようです。

ここのおくまんさまを知ったのは、御浜降りを昔行っており、60キロも離れた鳴瀬川河口まで海水に神輿をつけて禊をやっていたことを知りました。

熊野神社の由縁


ご祭神:天照皇大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男神

熊野神社

「往昔東北は蝦夷地であったが、宮崎や鳴瀬川沿いの農民は紀州からの移植農民が多かったという。~本社に斯うたところ、社司藤原重密に分霊をさずけ海路下向させた。途中不幸にも常陸沖で難波し、御神体を失い重密もようやく海岸につき、陸路奥州桃生郡深谷の庄浜市に達した。

たまたま、八十郎という漁師が出た時沖に光輝く物を発見。
見れば二つの黄金の御神体が獅子頭に乗っていた。

八十郎自宅にうつし、朝夕の礼拝を怠らなかったという。
重密は、霊夢によってこのことを知り、八十郎を訪れ事の始終を語りあった。

やがて神のお告げにより、二人連れたって鳴瀬川を遡り支流田川の三ヶ内や烏川沿いの北川内に行ったが嫡地がなく引き返し、宮崎貴明山の麓に至る。」

御神木

「海底に光る物(ご神体)を海からひきあげる」
話は、多くの熊野神社由縁で語られています。

名取熊野那智神社でも閖上の漁師が光るご神体をひきあげて神社に祀っている由縁です。

ところで、「獅子頭に乗った」というのは、
文殊菩薩のような。

初代奥州藤原氏の藤原清衡は、文殊菩薩の崇拝者で、
喜多方、名取、平泉の熊野神社には文殊菩薩像が置かれています。

名取熊野神社文殊菩薩像(名取市のサイトより)

平泉にある金字の一切経のモデルは、中国五台山より。
藤原清衡が文殊菩薩五像を写し導入したと伝わります。
シルクロードのホータン国(現:ウイグル自治区)より中国へ騎師文殊五像尊をもたらしたことから、清衡はそこに感銘を受けたと伝わります。

和田玉(ホータン国産の翡翠)

ホータン国は、金などの鉱山資源が豊富な所だったので、その関連があると思われます。
奥州藤原氏が金を貴重としていたのは、経済・流通よりは、聖なるものとして考えられていたそうです。

また、熊野神社のご神体とする臼は金の象徴です。
岩手県遠野では、臼を回すと大量の金が出てきた伝説があります。

そして、こちらが、「十一代~外記藤原重孝の墓」

藤原から源氏へいった熊野信者。

東国平定のために熊野を置いている話なのですが、「武蔵国加美郡」から熊野神を祖神として崇める。ということが書いてあるのは、下の参道の入り口に置かれた石碑より。

大崎総鎮守一之宮

埼玉に賀美郡(かみ)の地名があることは知っていましたが、
具体的にどこの神社からなのか不明。

丹党一族との関係が指摘されているので、「児玉郡」が、賀美郡の範囲でした。

「~鳴瀬川流域に土着した武蔵七党の一団の中、
出自を「道長流藤原氏」で「紀州熊野社司を遠祖とする」

「猪股外記藤原密なる者、熊野祖神の御加護を願う
「アラヤ郷(宮崎)」の里人達の懇請を容れ、元応二年
(1320年)本社より熊野権現の御分霊を勧請アラハバキの峻険(古城山)に鎮座した。」

神社の下は、祓川と合流する「烏川流域」には、
古代縄文の夷神「アラハバキ」を崇祀する産鉄民が先住し栄えたとある。

手水舎に清水が流れる
牛魂

そして、
「外記重寛は、京に昇り「白川神社祗伯家より「美濃守」の
神官位階を授けられ、宮崎という姓にしたという。」

※白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家・華族だった家。

武蔵「丹党」と繋がるのは、丹生=水銀=砂金の関係。
牛頭天王のスサノオから熊野信仰へ流れたことがあったと思います。

東北地方には、まだまだ、たくさんの深い熊野信仰がありますので、少しづつ紹介していこうと思います。

大崎平野
やくらいガーデン

秋は素晴らしい田園が広がり、春は黄色のじゅうたん(菜の花)が広がります。


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