【信仰】小謡で誓う「名取老女かくばかり~信なれば~」
わらじを編んでいた熱心な熊野信者である名取老女は、複数の顔をもちます。
なぜ、熊野三社の由縁として神格化され、語られるようになったのでしょうか。
守家の口承、下余田、熊野三社、高舘山、
伊達郡(福島県)気仙沼・一関、奥州札所三十三観音など、
どの視点でみるかにより、人物像が変わるほど、謎に満ちています。
世阿弥が「陸奥の名取にお参りする」『護法』より、
「名取ノ老女」が固有名詞となって流行するようになります。
しかし、わらじの名取老女や、別名「旭」とも呼ばれていることなど複数の言い伝えがあり、
「旭」と呼ばれた由縁はどこからきており、
どこで融合されたのかも、よくわかっていません。
旭と朝日
阿弥陀如来になったアサヒ。
であれば、漢字は「朝日」になるはずですが、
多くは、「旭」の漢字を用います。
旭→主に人物名に使われる。
朝日→主に炭鉱の地につけられる。
と、分けられることです。
「旭日章」とも言いますね。
しかし、これは「光線」です。
旭は、太陽が昇る朝日より、もっと深い意味あいを持っています。
漢字の意味では、
旭の「九」の漢字は、屈折して折れ曲がっている象形文字から、
尾を曲げる虫、蛇や竜にも解釈されます。
ということで、折れ曲がった所(行き止まり)や、
屈折して抑えつけられている状態より、一気に光が放つ、
という意味になるそうです。
土に埋もれた芽が地上から顔をだし、
跳ねのけて光をあびる、ようなことにも近い。
ずっと影(隠れていた太陽)であった
日がようやく放つ事から「旭」の方がふさわしいのでしょう。
末法思想があった中世の時代であれば。
他にも(太陽=射日神話)からもきており、ヤタガラスが太陽信仰から由来するためと言われます。
射日神話は、扶桑樹による。→オロチョン族など
小謡に登場する名取老女
そのような名取老女(旭)について、
地域の人達の祝い事にもうたわれていたとされます。
お能の『護法』にもありシテ流のことですが、
一関の平泉地方では、お祝いの席で「四海波」(=静穏でよく治まっていることを祝う)をうたう習わしがあったそうです。
(『護法(喜多流)』)
※シテ方流派・・・シテとは能の主役のこと。
シテ方には、「能楽五流派」と呼ばれる観世流、
宝生流、金春流、金剛流、喜多流の流派があります。
観世、宝生、金剛、金春は、
室町時代初期の「大和猿楽四座」を源流としています。※1
四海波の次に、うたわれる「小謡(こうた)」が
名取老女でした。
「名取老女かくばかり うけられ申す神ごころ
げに、信なれば、徳ありや ありがたし ありがたし
ありがたき告げぞ めでたかりける」
※2
名取老女ほど 申しあげる神のおぼしめしは、
実に偽りのない人には、徳があり、ありがたいことだ。
といった解釈になるでしょうか。
「信なれば」は、中世、戦乱の激しい時(奥州合戦~南北朝時代)の頃と考えると、偽りがない、謀反がない、とも読みとれるものです。
偽りがない人(正直者)は、熊野の神からのご加護や徳がある。
→中世に流行した武士の起請文(きしょうもん)※3
そこに影響されたものが、祝いの歌になったのかもしれません。
それほど、平泉では名取老女がよく知られていたとみえます。
古札の奥州札所三十三観音
奥州札所三十三観音霊場は、新札所とよび、
補陀寺(智膏和尚と7人の僧侶)と名取老女が再興したと伝わりますが、
それ以前の古くの札所は、「古札所」
とよび、円仁(慈覚大師)の開山と伝わります。
古くの、奥州札所観音霊場一番になっていたのは、
花巻市太田清水寺であり、
新札所と同じ三十三番は、南部の桂清水(二戸)です。
このことから、岩手県、一関の平泉が中心にあったわけです。
なぜ、改定した新札所が、名取の一番札所になったのかは、
一関の小謡から「名取老女かくばかり」がヒントになるのでしょう。
※1 能の世界より(the 能.com)
※2 一関市史第3巻(一関地方の巡礼札所)
※3 契約を交わもの。それを破らないことを神仏に誓う文書で、
熊野三山の牛王宝印(熊野牛王符)がよく用いられた。
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