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【伝説】小野小町は熊野比丘尼だった?

大崎市古川にある「小野小町の墓」
小野小町の墓は複数ありますが、ここに「新田夜烏の里(にいだよがらすのさと)」という名前がありました。

訳すならば、「ヤタガラス」と言っているようなことでは?

「新田夜烏の里」の伝説

「都での華やかな生活も年波には勝てず、晩年ふるさとの秋田に帰る途中、
ここ、新田夜烏の里に差しかかったころ、にわかに病に倒れてしまった。

草庵を結んで氷室の薬師に百日参りして病気平癒の祈願をかけ、
明日が満願成就という日に精根尽き果てて、路傍に倒れそのまま没してしまった。それをみた村人たちは寂しい最後をとげた小町をあわれんで
手厚く葬り、墓碑を建立してその菩提を弔った。」

筆塚

小野小町の生涯については謎が多く、
出生や死亡した場所などについては、正確に把握されていません。

真偽のほどは定かではないが、往時の風流人が小町の墓をたて
多くの人が墓参りをし、歌を詠む習慣が近年まであったと伝わります。

花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふるながめせしまに (小野小町)

『古川市史』によれば、小野小町は、
ここでわらじを編み、草庵を立てたというので、
名取老女と同じように巡礼にくる旅人へのご加護があった場所、
それが信仰となって広まったと考えられます。

子松神社

夜烏の地名については、神社の由縁にありました。
大崎市古川新田字鹿島西にある「子松神社」
※1

子松神社

「約千年前の『延喜式神名帳』に記載されている、
奥州壱百座の中の「新田郡子松神社」であるとしているが、
学問的には諸説があり、「論社」の一つに数えられる。

『狐松神社由来記』
玉造小野松庄別当(※1)観教院実清が記した古文書

「神護景雲3年(769)荒雄川辺に神霊を遷座し「児松神社」と称し、
下って延暦8年(789)坂上田村麿東征の際の神力擁護の功により社地百間四方を寄進され、さらに下って文治6年(1190)に新田郡が廃されて、
玉造・賀美二郡に分かれて夜烏邑となる。

康永2年(1343)大崎家の家臣新田氏が、夜烏邑に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称し、氏神として尊信した。」

1773年(安永2年)『風土記御用書出』には、
「夜烏『鹿嶋宮』但別当玉造郡新田村山伏自明院」とあり、

古くは鹿島神社(鹿島様)であり、明治39年に熊野神社・石神社と
松郷の宝隆神社と合祀。

なぜ、熊野と小野小町がつながるのかは、
おそらく、航海技術を学んでいた小野篁のことでしょう。
岩沼の竹駒神社にも小野篁像が祀られています。

その祖である「小野妹子」が遣唐使に行ける理由がそうです。

※1)別当とは、親王家・摂関家・大臣家・社寺などの特別な機関に置かれた長官。または、本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。

氷室の薬師とは

女性のご加護によい薬師信仰は多いです。
例とすれば、仙台市にある旭神社も熊野比丘尼の由来があり
(通町の熊野神社)百日咳を治す神様と言われます。

さて、この古川にある小野小町伝説に登場する「氷室の薬師に百日参り」
という話は、化粧池伝説になっています。

「氷室薬師村上寺」

小野小町が百日日参して病の治癒をねがったと伝わります。

坂上田村麻呂が蝦夷遠征に際し、
兵の安全を祈願して建立したと伝わり、
眼病に効果があり、遠くからも参拝にきていたそうです。

『古川市史』によれば、62代村上天皇の旧蹟と伝わる。
そのため、寺の名前を村上とした。

女性の信仰の場「己巳待供養碑」

東北に多い悲恋話

小野小町の名が知られるようになったのは、
『古今集』で、紀貫之の「衣通姫」に例えられた
美しい人と紹介され、詩も上手で芸能にも優れていた人でした。

小野小町説には、複数の人が登場しますが、
諸説ある中に、「出羽郡司」の小野良真(おのよしざね)の孫。
(小野篁の子孫)の説もあり。

小町伝承の特徴は、全国を旅していたような女性で、
天然痘で病にたおれるが清水で顔を洗うと治ったとか、
温泉で治したとも。(神功皇后と似てます)

大崎氏の居城である名生城跡の隣接したところが伏見村と言う。
京都の伏見区にも小町の池があります。

※伏見区西桝屋町にある曹洞宗の欣浄寺(ごんじょうじ)は、本尊が「伏見大仏」で知られる曹洞宗の寺で、境内には少将塚や小町塚、少将の涙の水とも言われる少将姿見の井、小町姿見の池があるという。

「寶龍社」

名取にも「宝龍神社」があり、名取川のそばにあります。

玉浦(名取郡:現岩沼市)
玉造(大崎市)

だから「龍の玉」で合わせている?のでしょうか・・・

また、興味深いのは、
小野→姉、
小町→妹と言ったらしい。

小野小町の話しの最後は、孤独に亡くなります。
ハッピーエンドな話は東北にはあまりなく、だいたい悲恋話に。

これついて『大崎市史』にあった解釈が興味深い。

「高貴な女性の零落(おちぶれ)」と解釈され、
神性の復活を求めた意図があり、創作を重ね、巫女的な力を復活させたい為に、時代を重ねて何度も記録、創作を行っていたのでは?と考えられます。

このことについては、皇族や貴族から離脱した女性の末路に
東北があったということにもなります。
そのような伝説は、各地に点在しています。

柳田国男の「女性と民間伝承」について、
「小野氏という一族は、珍しく文才に長じた女性が出ており、
現に小野小町のごときもいちじるしい例ですが、
これは、複数の伝承があることから
一人ではなかったと古くから唱えられている。」

遠くからやってくる比丘尼が、
地方巡礼で亡くなることもあったでしょう。

その巫女の復活に、世阿弥のように
芸術や芸能として後世、語り継がれたことも。

その供養を長い間続けていた巫女や比丘尼の活動は、
子孫繁栄の力になっていたのではないでしょうか。

場所:宮城県大崎市古川新田字夜鳥


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