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名取熊野信仰講和会の記録①

『未来につなぐ名取老女伝説』2018年5月13日:名取熊野那智神社にて
お話:虹乃美稀子さん(東仙台シュタイナー虹のこども園 園長)

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名取老女を調べるきっかけ

歴史が好きになったのは、『独眼竜政宗』から。
伊達政宗に関心をもち、それから歴史愛好家になる。

名取老女伝承にある烏宮守家の子孫。

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今から14年前、中田の祖父へ行った時、
祖父の本棚の前で本をみていたら、
「もっと面白い本があるけどみるか」と言われ、
「中田の歴史」や「名取老女に関する本」を数冊もってきたのです。

歴史に興味があることを知らないだろう私に
話しかけてきたことが、不思議に思いました。

その1ヶ月後に祖父が倒れてしまい、
それから祖父とまともな会話ができなくなってしまいました。

最後に会話した祖父とのやりとりから、
名取老女など名取の歴史を、「たくされた」気がしました。

それから熊野に関する場所に訪れるようになりましたが、
その時は、一人で調べていました。

津波が多い歴史を共有されるようになった今ですが、
名取老女の実態が今まで遠くに感じていたのが、
近くに感じるようになりました。

千年ごとにくると言われる大津波が、
私たちの時間感覚をちじめてくれているようで、
昔の人の苦労が身にせまる気持ちになります。

震災から、人の結束や結びつき、名取・閖上に繋がることを大事にしたいと
友人たちが集まるようになり、歴史研究会ができました。

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名取のタタラ

年表に大伯父(守家)がまとめてくれた資料があり、
それによると高舘の古文書には645年の大化の頃に、
「烏宮の老女あり」と書かれています。

相当古い頃から、古墳が多い場所でもあり、名取は「古墳の土地」と言われているほど、古墳だらけです。

縄文~弥生~古墳時代のエリアで、元々の聖地だったと思います。
というのは、(前)山田宮司は歴史に詳しく、タタラが住んでいたと、聞いたことがあります。

宮司の話しでは、海からの風が高舘の山にあたるので、
フイゴがいらずに製鉄ができたそうです。

タタラ場があったとされ、製鉄技術があったと言われます。
裏山は秋保に抜ける道(坪沼の道)で、
昔、ここの修験者は山の峰を通って秋保に行っていました。
(画像下:伝:安倍白鳥八郎則任の川上大館跡(本丸)から坪沼方面)

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友人が坪沼の奥の方に有機農業をやっていまして、
昔からこのあたりはタタラがいたそうです。

山を重機を使わず手作業で崩しているので土をよく知っている人です。
昔のタタラの鉄屑があったとみせてもらった事があります。

坪沼のつながりにおいては、
「めくらうなぎ」の伝説にもあります。

山の峰を伝って修験者はいたのです。
古来からの製鉄技術がいたと思います。

(※沼鉄鉱。フルボ酸鉄など→古来のタタラ製鉄方法。)
(西洋では紀元前から行われていた記録も)

「島」名はその由来があり、
湿地帯で鉄がとれた所だったからです。
(海水が混じる土壌が堆積されて化学反応が起こり鉄塊になる)

神は夜に動く

母から、なぜヤタガラスは夜に名取老女を案内したのかは、
夜しか飛べないからと聞いていました。
神様は夜に動くんだそう。

高舘山は、要塞と言われ、
藤原秀衡が京へ行く途中に、宿泊した所でもあります。

鳥羽天皇の病気を癒す名取老女の話しに興味があり、
那須の殺生石が関係しているのでは?と思います。(画像:殺生石)

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鳥羽天皇の時代、天皇のところに中国から玉藻の前がやってきて、
鳥羽天皇の后になろうとした。
玉藻の前に夢中になってしまい、政治もおろそかになり、
やせ細り病気になるのですが、その要因は玉藻の前であると。

当時の陰陽師がが九尾の狐という妖怪であることを
つきとめ、那須まで追い詰めます。

九尾の狐を退治したのが石になった伝説ですが、
石は祟りと言われ、この場合、硫黄のことです。(火山ガス)

鳥羽天皇の時代に、名取老女が登場する理由は不明ですが、
病気を治したことが、陰陽師の伝説と繋がると思います。

中田の烏宮は、お葉山さま(羽山)さまとよんでいました。
奥座敷にある。(家の中)

お羽山のおまつりがあり、
白と赤の紅白の玉入れみたいなものを御供えします。
女の子がほしかったら赤、男の子は白。

秋保からもたらされたもので、712年葉山信仰からきているそうです。

名取川は烏宮の前に流れていたと推定。
なぜ、葉山なのかは名取川は今より南の方に流れていたと
参加者の方からのご意見。

イタコ(口寄せ)の活動

名取老女のことを「旭」とよぶことがあります。
老女と旭の関連は不明ながらも、共通することがあると思います。

旭(アサヒ)の本拠地は天台宗が抱えていました。
戦後までそのシステムがあったそうです。

土井晩翠の夫婦が亡くした子供の口寄せをしてもらい、
それから信仰をあつくしたが、
天台宗が解体し、地元の信仰が切り離されてしまう。

後ろ盾がなくなった時に、土井晩翠が仙台で講演活動し、
そのような方の支援をしたそうです。
これは、『仙台学:巫女』に書かれている資料からです。

目が見えない伝承の中に、旭巫女がいて、
目が見えないから口承していく方法でした。

カヤの木とクリの木

中田あたりは、カヤと栗と言って分けていました。
奥州藤原氏と源氏のどっちについたか、
その地名は今も残されています。

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クリは買った方、(源氏側)
カヤは負けた方(阿部氏側)と聞きました。(画像上、下:薬師堂)

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新宮に、源頼朝がかけた石があります。
このあたり合戦が多く、
民家の庭に弔いの祠がとても多いのもそうです。

熊野三社は、奥州藤原氏側だったので、
源氏に負けた時は、罰せられるのですが、
熊野修験は頼朝に許されていました。
(※頼朝は信仰心のある人には許していた。)

カヤの木は、頼朝の馬をつないで休んだ伝承もあり、カヤの木橋もクリの木橋もあります。

講和会当日は、偶然にも薬師堂(カヤの木)のお祭でした。樹齢1300年と言われるカヤの木です。

写真は、※仙台柳生「かやの木薬師」地球人スピリット・ジャーナルよりhttp://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/1-06da.html

ちなみに、写真をリンクしたサイトは、
カヤの木を代々、保護・継承している安倍家一族の方々です。

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以上、虹乃さんの話しをまとめてみました。なお、名取老女縁起や伝説などは記事にあげているので、ここでは割愛しています。
守家からも少しお話を伺いました。
次にまとめます。


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