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【伝説】名取老女の金注連と金蛇水神社

金注連(かなじめ)とは

熊野堂郷土史年表では、
「989年9月京都の三条小鍛冶宗近、
勅命により宝刀を造る際、
岩沼の金蛇水神社のご神体を造り奉納する。」

この三条小鍛冶宗近(※1)が、熊野堂神社御宝物の金注連を造った人物と伝えられています。

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金注連とは、名取老女が巫女である証拠のひとつとされ
名取老女が身につけていたと伝わるもの。
僧侶のかける輪袈裟、修験者の用いる結袈裟を製鉄にしたのが、
金注連と考えられます。(古来は植物を用いたと思われる)

※『嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)』によると、
「名取老女の夫婦の首にかけて常々勤修したる注連なりとて、
鉄にてこしらへたる輪の如き物2つあり。

然れは夫婦ありて「老叞(じょう)老女」と言へしにや、
その注連と言う物、今世の注連(しめなわ)とは相違なり。
昔、欺く存たる物を掛けたると見へたり」

とあり、夫婦で使用していた事、「欺く」ための物など、祈祷道具としては慎重に扱われたような話しです。

金注連(『名取の里 熊野信仰と一切経』)

新宮の宝物(ほうもつ)のひとつで、
内外の境界、出入り禁止の印に渡す縄と解釈され、
神社前でこの場所こそが神聖な所であると
境界を現わすために用いられたと考えられます。

仙台市博物館に手書きの図が記載されているのがあり、
(実物大で紙に9枚書かれています)
掛けることは、奉納の意味がり、
2つあるのは、男女の陰陽を現しているため、対象になっているとの事。

さて、金蛇水神社から仙台方面へ街道を(39号線)すすむと、
藤原実方のお墓があります。(画像:お墓の入口)

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「995年 近衛中将藤原実方、陸奥守となり熊野堂を通過し、
栗木を渡り、西多賀を経て国府多賀城に至る。(西多賀郷土史)」

998年12月、実方中将は、笠島道祖神にて落馬し没す。
その子孫紀州熊野別当となる。」

別当とは、9世紀から13世紀末頃にかけて、現地において熊野三山
(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。

名取郡は、713年に置かれました。
715年に陸奥鎮所が太白区郡山におかれ、719年に閖上の猟師により十一面観音菩薩を引上げ、後に高舘山に祭祀しました。
それが那智山観音大権現の由来となっています。

742年には、「稲田社」として現在の熊野堂、
熊野神社境内に稲の神を祀ったとあります。

古来の陸奥街道で熊野へ行く道でもありましたが、
熊野別当になった実方の子は、熊野別当九代殊勝の娘と系譜に書かれている文献もあります。(諸説あり)

※母は、熊野別当祖泰救母とあり、穂積氏にあたります。

金蛇水神社の伝説

「昔、三条小鍛冶宗近が、一条帝(平安時代)の六願によって、
子狐丸の宝剱を鍛えんとして陸奥へ下った。

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やがてたどり着いたのが今の金蛇沢であった。

宝剱を鍛えるのに佳い土地であるので、ここを住居に定めて、
一心不乱に宝剱を鍛えていた。

時あたかも五月雨の頃で、蛙の啼き声に妨げられて、
精神の統一が出来なかった。

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宗近は、一策を案じて鉄の蛇を作り、
池に放つと忽ち蛙の啼き声は止んだ。

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※ご神水の井戸

翌朝田を見ると、田の畔に大きな蟇蛙(がまがえる)が石と化していた。
東海道の一本松の傍らにあるビッキ石は、
その時の蟇蛙だと言い伝えられている。

金蛇水神社の守護神は、女神の弁財天がご本尊で財宝富貴の神として信仰を集めている。
蓄財を、こい願う時は、無断でご神体を借用して、我が家に杞り、
やがてひそかに神社に返すか、または、賽銭箱から必要なだけ無断借用し、
やがてお返しすれば財はみるみる増えて大金持になると伝えられている。
これは神社の不文律で神社でも大目に見ていると言う。」

※岩沼市商工会「岩沼昔話」より

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昔話「蛇婿入り」というのは、鉄と水の関連を示す話のため、古代製鉄のことであり、良い水がないと刀が作れない話しになっています。奈良県大神神社の蛇伝説は、これらにもとづく。

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水(陰)と火(陽)で造られた刀は、鉄から生まれた創造物で、
出産と同じように考えられた為、蛙が女性と水の象徴となっています。

蛙を神格化しているのは、例えば高句麗国の金蛙王(きんあおう)にもあります。

ある日鯤淵(こんえん、地名)の池で、王の乗っていた馬が岩を見て立ち止まり涙を流した。
王は不思議に思い、その岩を動かしてみると金色の蛙の姿をした子供がいた。

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※金蛇水弁財天

稲作などの開拓を行う上で、必要な水と製鉄が象徴として語り継がれた事ですが、古来の製鉄民の信仰の深さを考えると、奥深い伝説でもあります。

金蛇水神社のご祭神は、祓い神の水速女命(ミズハノメ)を祀っています。
その他、大己貴命と少彦名命を相殿神として祀っており、
境内には、金蛇弁財天が祀られ重要な位置にあります。

ところで、同じように三条小鍛冶宗近に伝説があるのは、
他に竹駒神社です。

金蛇水神社から3Kmほど先を海側に向かうと、竹駒稲荷神社があり、
小野篁(おのたかむら)という人が創建したとありますが、
実際は、来ていない。(と思います)

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金蛇水神社由縁にある、
「昔、三条小鍛冶宗近が、一条帝(平安時代)の六願によって、
子狐丸の宝剱を鍛えんとして陸奥へ下った。 」
という六願と、京都の六道は関係していると思いますが・・・

その竹駒神社の由縁に、
「子(小)狐丸」とは日本刀のことだが、
朝廷から作刀を命ぜられたが満足のいく刀を打てずに困っていた
三条宗近を助けるため、彼の氏神である稲荷明神が童子に化けて相槌を打ったといわれる。」

とあるように、刀鍛冶は、狐の姿なのです。
鋳成り→イナリ→稲荷となり、
鋳成る者は、白い狐だった伝説は、各地にあります。

もう少し、刀鍛冶について伝説を追ってみます。

※1 平安時代の刀工。山城国京の三条に住んでいたことから、
「三条宗近」の呼称がある。

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