この物語はフィクションです


絡まったイヤフォンの結び目をゆっくりと解いて、綺麗になおすような仕事をしている。解いても解いても紐は絡まって、一つ綺麗にしたと思ったらまた新しいものがやってくる。


やりたいこと。と考えて何も思いつかずただ寝ていたい、と感じたときにまずいと思った。でも本当にそう。寒いし体も重いし、あちこちが硬くてだるい。やりたいこと、ってなんだろう。楽しいこと、は往々にしてあるけどガソリンとして使うには何かが足りなくて、何かが欠けてて何かがかなしい。

こういうとき、まだ毎日の一歩目が踏み出せることに安心する。大丈夫、まだ大丈夫。



死にたい、という感情はあまり吐露すべきものではないのでなかなか言えないけど、もう過去のものだし、ガスを出さないとやっていけなくなってしまったので、出すべきでないとわかっていながらこれを書くことにする。


いつもいつも体が重い。体以上に心が重い。こんなに考え込む自分が嫌で身ぐるみ全部脱いではがしたかった。わたしはわたしというものを全て脱いでしまいたかったよ。生きている限り「わたし」なのにわたしであることが許せなかった。

しっかりと恵まれた人生で、なのに何かが足りなくて、そんな自分が嫌いだった。死ぬための方法は一通り調べた。人間の生命力の高さを呪った。なのにニュースを見ていると人の命はいとも容易く吹き飛ぶ。なんで?

自分がいなくなれば悲しむ人がいることをわかっていた。だから私は、「私がいなくなる」ことより「最初からいなければよかったのに」と願った。何度も何度も頭の中で過去を反芻して、どこから、どこからこうなってしまった、と考えたけど、いつも行き着くのは「そもそも生まれていなければこうなることもなかった」だった。生まれたくて生まれたわけじゃないのに、なぜか生きることは強制されていて、簡単に道を外せない。

中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」はよくできていると思う。

汚れつちまつた悲しみは
懈怠のうちに死を夢む

懈怠のうちに死を「夢む」なのがいい。願うとか望むとかじゃなくて「夢む」。できないとわかっていること、それを「懈怠」と言うこと、の先に「夢む」という、ぼんやりとした気持ちが霞んでいるのがいい。


死にたいとか消えたいとか、そういう感情は気持ちのスイッチが別にあって、主電源のように作用しているのだと思う。

どんなに楽しい気持ちのスイッチが入っても、「死にたい」の主電源スイッチがONになってる限り、いつどこで気持ちが持っていかれるかわからない。主電源がONである限り、どんなものでも悲しさのスイッチを押す引き金になる可能性はあって、いつどうなるかわからない。いつそれが終わるのかもわからない。

よく、悲しい出来事があるとそれは「悲しくなる理由があるから」と思われるけど、この世には理由もない悲しみだってある。楽しいことだってあるじゃん、とか言われるけど関係ない。楽しいから何? 楽しいのスイッチは主電源の死にたいスイッチには影響しません。


いまのわたしは、「死にたい」の主電源スイッチがOFFになった状態だと思う。スイッチが入っていたのは全部過去の話。だからこそこういうことを書ける。この物語はフィクションです。

「死にたかった僕」という歌詞を見たとき。人の気持ちはわからないし簡単に語れるものでもないけど、歌詞にしたということは彼の主電源のスイッチはもうOFFになったのかな、と思った。とても重い歌詞だけど重く受け止めたくなかった。ただ、そういうスイッチが入ってしまってどうにも切れなかった時間がこの人にはあったのかもな、と思った。それは良いことでは勿論ないけど、だからといってそうなってしまったこと・そう感じたことを責めるものでもなく、ただそこにあったことを認める以外ないじゃないですか。




というところまで書いて昨日の夜に寝落ちしていたので、供養します。新年1発目がこんなに暗くていいのか。はて。