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あなたの名前を呼んでいいかな

オフイベの話をしようとすると、去年のBE THE SUNまで振り返ることになる。

あんまり大きな声で言うものでもないので詳細は省くが、コンサート終演後、メンバーが乗った車にたまたま遭遇した。駅までの道を歩いていたら前方から歓声が聞こえたので、見てみると通りを歩くcaratと見られる人たちが停車中の車の窓へ手を振っていた。ああセブチだ、と思った。

わざわざ走って追いつくようなものでもないので、タイミング悪かったなあとそのままスルーした。するとなんと、信号待ちで道路が混雑しており、その車に追いついてしまった。困った。

ちゃっかりと車を覗く集団の片隅に入ってしまった。窓が開いて、メンバーが二人ほど顔を見せてくれたと思う。キャーーーッッッッ!と歓声があがり、誰かがサランへ!!!と叫んだ。

そのときの私はなんだか、「遭遇できた」という喜びよりむしろ、「申し訳ないな」という気持ちが勝ってしまった。

公演でへとへとだろうに、退勤中の時間にこんなファンサービスをする必要があるのか?とか、そもそも道でこんなに固まって邪魔だろうとか、そういう「いい子ちゃん」な自分が文句を言う。遭遇という出来事に対して、素直に喜べなかった。

そのとき、思ったのだ。遭遇なんかじゃなくて、ちゃんと公式のものとしてドギョムに会いたい、と。自分が後ろめたく思ったりしないように、正規の方法で拝んでみたい。


そのとき思っていたオフラインイベントのイメージは、「劇的なもの」だった。忘れられない思い出になるんだろうなあ、と思っていたし、栗木京子の「観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」みたいなものなんだろうな、と想像していた。これが最後かもしれない、って覚悟を決めて、終わったらワンワン泣くんだろうな。そう思っていた。


ドギョムのオフイベを当てる、という夢は、いきなり叶った。FMLのオフラインイベント。初めてのお見送り会で、ドギョムが当たった。

そのときの話は以前noteにも書いた()。これを読むとなんだかすごく特別な瞬間だと感じられるが、それは私が頑張ってあの数秒を「特別」にしたからに過ぎない。

現実主義でごめん。でも間違ったことは言ってないと思う。分厚いアクリル板に挟まれて、お互いの声もほぼ聞こえず、たった数秒(体感1秒もない)、相手の前を通る。そこに価値を見出せるか見出せないか。なんだかすごく試されてると感じる。

DREAMの個別お見送り会レポを見ながら、色々と想像していた。こちらの気持ちを伝えられるかもしれない、と期待したし、名前を呼ばれたいとも思った。実際は違った。レポを書く人が少し盛って書いてるだけなのか?私が期待をしすぎたのか?

「我には一生」にするには、あの個別お見送り会はあまりにも短すぎた。特別だったことには変わらない。アクリル板を越えて聞こえたドギョムの声を、大切に、必死に記憶に繋ぎ止めたあの日。特別に決まってるけど、でも本当にそれでいいの?と思ったのもまた事実。



そんなあれこれがあり、色々な経緯があり、京セラドームのハイタッチ会に参加することになった。本当はメンバー選択制のお見送り会に行くことが本望だったが(私はドギョムを前にするとドギョムのことしか考えられなくなるので、全員系のイベントは少し申し訳なく思ってしまう)、月初のあのタイミングは仕事の調整が難しかったので諦めた。本当に悔しい。まあでもそのおかげでハイタッチ会に応募する勇気が持てたのも事実。


ハイタッチ会。別世界だと思ってた。9月の東京ドームの帰り、終演後のハイタに並ぶ人たちを見て、どうすればここに並べるんだろうと考えてしまった。そんな列に、自分が並ぶことになった。


お見送り会のときほど期待は出来なかった。別会場のレポを見る限り、今回も剥がしが強いらしい。ビニール手袋はなくなったけどその分流れが早く、メンバーも基本喋らないらしい。だからさあ、会ごとにやり方変えるのやめてくれよ……


オフイベでやりたいことってなんだろう。今更ながら考えた。お見送り会の時は、好きだって気持ちをとにかく伝えたかった。私の気持ちを伝えたかった。いま思い返すとエゴだと思う。

9月、一人で韓国に行った。その話もnoteに書いた。(

ドギョムが行った場所を巡りながら、心の中でたくさん質問をした。ここに座ってどんなことを考えたの? その日の天気はどうだった? 店内の雰囲気はどうだった? 誰とどんな話をしたの? どこでこのお店を見つけたの? どんな気持ちでインスタに写真をアップした? お店のどんなところが気に入ったの? メニューは迷って決めた?すぐ決めた? どのくらいの時間過ごしたの?

答えのない問いを繰り返していたら、「クエスチョンユー100」という歌を思い出した。

タイトルの通りひたすら質問を重ねていく歌。あまり歌詞の意味を考えたことはなくて、ただどこか切ない雰囲気が好きだった。「君」への質問を畳み掛けた最後に、「君はもう…」と歌うのが意味深だ。

私がドギョムに対して考えることは、一生答えの返ってこない問いみたいなものなんだろうな、と思った。それが適切な距離だ。答えがあったら困る。遠くの、わからない存在で、だからこんなに「信仰」として生きる支えにできているんでしょ。

これは「信仰」だと気づいてしまった手前、今さら伝えたいことが思いつかなかった。嘘、本当はたくさんある。でもそのどれもが、私じゃなくても誰か別の人がきっと伝えてくれる言葉だよな、と思ってしまった。

たくさんのファンに幸せを祈ってもらってるはずなのに、じゃあ私が幸せを祈る意味ってなんだろう?自己満足じゃないのか?
「ドギョムに気持ちを伝えた私」という称号を得たいだけではないのか?

わからない。こういうとき素直に推しに会える喜びを考えられる人間でいたかった。考え方が邪すぎた。

答えのない質問をたくさん重ねていた自覚があったからこそ、名札に質問を書こうか迷った。誘導尋問じゃん、と正直思ってしまったけど。目に入らなかったらスルー、目に入ったらワンチャンyesの回答をもらえるかも、という二択しかなく、それでも私の中ではけっこう「アリ」だったのだが、剥がしの強さを考えたら無駄に終わりそうだったので辞めた。


「劇的な瞬間」になったらどんなに嬉しいだろう。でも、きっとそうはならないことを私は知っている。一瞬で終わる特別な瞬間のあとには、日常が待っている。推しを近くで見るというものすごいことを経験しても、ありえないくらい地球は普通の顔をして回っていく。当たり前のように朝が来て、また夜が来る。記憶がどんどん薄れていく。そのくらい、あの時間は一瞬すぎる。

もうどう心構えをしたらいいかわからなかった。期待をしたらその期待通りにならないがっかりさが待っているかもしれないし、かといって準備をしなくてもきっと後悔してしまう。


オフイベのことを考えると、いつも米津玄師の「アイネクライネ」に辿り着く。今回もたくさんお世話になった。

あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに
当たり前のようにそれら全てが悲しいんだ
今痛いくらい幸せな思い出が
いつか来るお別れを育てて歩く

オフイベ前の嬉しさと不安は、これに少し近い。嬉しいのに悲しい。この2つは両立する。

誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう
あたしは石ころにでもなれたならいいな
だとしたら勘違いも戸惑いもない
そうやってあなたまでも知らないままで

私が滑り込んだ当選枠は、同じように誰かが死ぬほど当てたかった当選枠だ。ライブ会場の座席もそう。最前席というのはどの会場にも存在していて、誰かが必ずそこに座る。ただ自分がそこに座る権利を手に入れられなかっただけ。

ここに立つこと、ここに座ること自体が誰かの居場所を奪うことなのかも、と思うときがたまにある。

あなたのことを知らないままの私だったら、この戸惑いも不安もすべてなかったことなのかな。勘違いを起こして、一瞬の対面に舞い上がったり期待したり、そういうこともなかったのかな。
でもね、「後悔するくらいなら苦しくても永遠に君を好きでいたい」よ。(これはaikoの「夏が帰る」の歌詞です)

目の前のすべてがぼやけて消えていくような
奇跡であふれて足りないや
あたしの名前を呼んでくれた

「あたしの名前を呼んでくれた」の歌詞は、ちょっと狙ったところがあった。この歌を聴きながら、お見送り会で名前を呼ばれたら最高だな……と気持ちを先取りしてしまった。結果的に呼ばれたのですが……


でも、ちゃんと発見もあった。

閉じた瞼さえ鮮やかに彩るために
そのために何ができるかな
あなたの名前を呼んでいいかな

お見送り会のときは、咄嗟にドアへ!とルダハートで叫んだのだけど、多分こちらの声が聞こえず「ドアへ〜???」とドギョムに戸惑った表情をさせてしまった。だから終わった時もすごくドギョムに申し訳なくなって、(ごめんね、ごめんねドギョマ)と心の中で繰り返した。

ドギョムのことを自然に「ドギョマ」と呼べたのは、それが初めてだったと思う。

そこでなんとなく気づいたけど、ドギョムを近くで見るときはなぜか「ドギョマ」と呼べる。逆にそのとき以外は呼べない。「ドギョム」と呼んで、一定の距離を保とうとしている節がある。親しみのある呼びかけができない。

たとえばトロッコが近づいたときは、ドギョマーーーーッッッッ!と叫べる。ドギョム!!!ではなくドギョマ。でもこうしてnoteでぐだぐたと書いている時はドギョマではなくドギョム。

ただのこだわり。ただの呼び方。だけど、この呼び方の変化は、近くでドギョムを見るときだけに起こる魔法みたいなものに感じられた。少しでも近づけた証だった。

オフイベの目的を見失いかけてたけど、あれこれと考えてみた結果、今回の私の目的はそれになった。あなたのことを、ドギョマって呼ばせて。それは、私が一瞬だけでもあなたを近くで見られた証だから。


ハイタ当日。やっぱり行きの新幹線ではアイネクライネを聴いた。急に緊張してきた。

終演後、列に並びながら吐きそうな気持ちになった。あの列に並んでいた人のなかで、1番死にそうな顔をしていた自信がある(という謎の自負をすぐに言う)。空腹だったので事前に買っていたカロリーメイトを食べようとしたけど、喉を通らなかった。

ただ1つだけ、ドギョムに「ドギョマ、大好き」と言おう、と決めていた。本当は韓国語で伝えた方がいいのかもしれないけど、韓国語はまだ私が記号のように感じてしまうから、次回へのお預け。あなたの言語の世界に近づけるまで、また少し頑張るから、今は私の気持ちを素直に伝えられる言葉を使わせてほしい。やっぱり、「いつか僕が行くよ君は僕の全て」だけでは耐えられない。君が来るのを待ってるんじゃなくて、私がそっちに行きたい。

驚くほどに長く感じた待機時間が終わって、ハイタッチ会が始まった。

ドギョムは3番目だった。みんな声を出してなかったので恥ずかしかったけど、予定通り「ドギョマ、大好き」と声をかけた。ハイタッチをしながら、ドギョムが「だいすき〜」と言ってくれた。


……あの、それだけ。それだけです。特筆すべき事項、なし。近くで見た実感、なし。手の感触、記憶なし。


毎度ながら呆気なくて泣けてくる。なんかタッチがソフトすぎて触った記憶ない。てかみんなこちらを見ていて(当たり前)無言なのもあってすごく気まずい。私はちゃんと笑ってただろうか。死んだ顔をしてなかっただろうか。

なんか、ハイタッチ会というよりハイタッチさせていただく会だった。みなさんがお手をスタンバイさせているので、そこに(あ、すみませーーーん……えい!)と柔らかく触れに行くスタイル。ぺこぺこしながら触れてしまった気がする。なんか恐れ多くて。

昔から、感情を表に出すのが苦手だ。自分では楽しんでるつもりでも、それが表情に出なかったりする。吹奏楽をやってたとき、ポップスステージで楽しそうに楽器を吹くのが苦手だった。別に楽しくないわけじゃないのに、「楽しい」を表現するのが不得意だった。

この間、対面でお話した方に「ドギョムの話になると目がキラキラしていた」と言われてすっごく嬉しかった。私でも、目を輝かせながら(しかもそれを他人が見てわかるような状態で)話せることってあるんだ……。やっぱり、ドギョムは私を「知らない私」へ連れ出してくれる。

それはやっぱり、ちょっと距離を置いてドギョムを見ているからだと思う。近くに行ったら私は途端に、表情管理が苦手な人間に戻ってしまう。


次のオフイベをどうするかは、まだあまり方針を決めていない。そこにそれだけのお金をかける意味があるのか、スタートラインの時点で少し悩んでいる。

伝えるだとか返されるだとか、要求するだとか応えてくれるだとか、よくわからない。でも、私が「近さ」を求める理由は、あなたの名前を呼びたいから、ということに尽きた。ただドギョマって呼ぶだけのことに、こんなに価値を感じる気持ちの悪いおたくでごめんね。でも私にとっては大切なことだから。ドギョムのことをドギョマって呼べる瞬間、ちゃんと大切にしたい。



ドギョムの「だいすき〜」の声は、まだちゃんと耳に残っている。また今夜も、耳に貝殻を当てるように大切にしようと思う。たとえそれが、いつか明確な形を失ってしまう思い出だったとしても。