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あとがきのようなもの


短歌をつくった。


詩や短歌というものは、私にとってずっと「作れないもの」「書けないもの」だった。小説もそう。書くこと自体には強い憧れがあるのに。


「言葉にする」という行為は、「そこにあるもの」を手繰り寄せて、どうにか目に見えるものに収める、という行為のことを指していると思う。

「悲しい」で済むことを、「悲しい」だけで終わらせられたら、文学なんてものはいらない。

「悲しい」の一つをとっても、そこにはその人それぞれの景色やイメージがあって、その「悲しい」という言葉に収まらない景色を、手繰り寄せて、引っ張り出して、そのときはじめて、詩や短歌・小説というものは生まれるのだと思う。


詩人の最果タヒさんが、『死んでしまう系の僕らに』という詩集のあとがきに、こんなことを書いていた。

言葉は、たいてい、情報を伝える為だけの道具に使われがちで、意味のない言葉の並び、もやもやしたものをもやもやしたまま、伝える言葉の並びに対して、人はとっつきにくさを覚えてしまう。

たとえば赤い色に触発されて抽象的な絵を描く人がいるように、本当は、「りりらん」とかそんな無意味な言葉に触発されて、ふしぎな文章を書く人がいたっていい。言葉だって、絵の具と変わらない。ただの語感。ただの色彩。リンゴや信号の色を伝える為だけに赤色があるわけではないように、言葉も、情報を伝える為だけに存在するわけじゃない。


「悲しい」が情報を伝える為の言葉だとしたら、「悲しい」から飛び出すイメージや、そこにあるその人の心象風景が、ここでいう「絵の具と変わらない、ただの語感、ただの色彩」なのだと思った。そして、私も絵の具のような言葉を使って、この世界を見てみたいと、憧れを抱いた。


けれど残念なことに、私の目には「悲しいこと」は「悲しい」としか映らなかった。

決定的なこと。表現したいことが存在しない。

目に見えるものは、目に見えるものでしかなく、そこに何か異なるイメージを持った風景が見えるかというとそうでもなく、あるものがあるがまま見えるだけだった。そこに言葉で置き換えたいものなど存在しなかった。伝えたいこともなかった。わざわざ言葉に置き換えて、この世に生み出したいものがなかった。


ある時、私は翻訳を学ぶことを選んだ。英語で書かれた小説を、辞書を引っ張りながら読み、日本語に起こす。これも、「そこにあるもの」を手繰り寄せていく作業だった。

翻訳はおもしろかった。書きたいことのない私でも、目の前にある英文を前にすれば、言葉を手繰り寄せていく感覚を学べた。外国語を読んでぼんやりと目に浮かぶ風景。それを、どの語順で、どの助詞を使って、どこを主語にして、時にはどう言い換えれば、明瞭なものとして構築することができるのか。元の文章を壊さずに「目に見えるもの」として提示できるか。原文という絶対的な文章が、私にないものを補ってくれた。


言葉には、その言葉の裏に、常にぼんやりとした何かが浮かんでいる。言葉というのは、そのぼんやりしたものを目に見えるよう誰かがそこに置いたものに過ぎない。


ぼんやりとした景色が見えない私には、詩を書くことも、短歌を作ることもできなかった。



そんな私が、なぜ稚拙ながらも短歌を作ったのか。

それは、私にとっての「君」を、どうにか言葉にしたかったからだ。


最初に作ったこの歌たちには、「君」「あなた」という単語ばかりが溢れた。溢れて止まらなかった。

書きたいことも、伝えたいことも持っていない。でも「君」のことなら、私は三十一文字を選んで歌にすることができた。


これは奇跡みたいなもので、二度目はないと思っていた。

のに。


どういうわけだか、また私の中に三十一文字が溢れてきた。前は直接的な「君」ばかりが登場したので、今度は少しだけ、「君」を言わずに「君」のことを文字に乗せようと努めてみた。

そのときだ。これまでの私がどう目を凝らしても見えなかったもの。それをようやく捉えられた心地がした。



書きたいことも、伝えたいこともなかった私に、「君」はすべてを与えてくれた。いやむしろ、書きたいことなどなくても大丈夫と教えてくれたのかもしれない。「君」を好きでいると、私は無色透明になれる。色をつけたくてたまらなかった私に、透明でもいいんだと教えてくれた。


私にとっての「君」。

そこに見えるぼんやりとしたものを、イメージを、手繰り寄せて、言葉として形づくる。


短歌には「動かない言葉」という概念が存在する。「ここに入る言葉は、これじゃなきゃ絶対だめだ!」という単語のことだ。サラダ記念日はなぜサラダでないといけないのか? パスタ記念ではなぜいけないのか? 「此処にこの言葉を置く理由」を求められるのが、短歌という世界なのだと思う。(ちなみに翻訳でも常にそれを求められるが、原文という「絶対的存在」がある、という部分が大きく異なる)

これまでの私には、「動かない言葉」がわからなかった。数多ある言葉のなかで、その1つを選ぶ理由などなかった。たまたま思いついたからに過ぎない。私の書く散文はすべて「たまたま」連想ゲームのように浮かび上がっただけで、その単語がそこに置かれる理由が、何一つ存在しなかった。


いまも、「動かない言葉」の極め方はわからない。でも、言葉を選ぶことはできる。

「君」のことを考える。そこに浮かぶ風景がある。遠くにいる「君」との距離を考える。そこに当てはまる言葉が出てくる。


三度目があるかわからない。でもまた、「君」をまなざしていくなかで、何かが見えるかもしれない。


넌 내 모든 대사의 주제 돼
君は僕のすべての台詞の主題となる

Happy Ending(Korean ver.)

私にとっての主題はまさしく「君」だ。


届かない手紙を書く。書き続ける。意味のない行為。ちがう、私にとってはとても意味のあること。

遠いところでたくさん輝いていてくれてありがとう、その遠さと、その輝きのおかげで、私は長い間この目で捉えられなかったものを、まなざすことができました 何回でも言わせてね、大好きです