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季語というコミュニケーションツール

入門書には「日常の中の些細な感動を句にしてみましょう」といったスタンスのものも少なくなく、この場合、感動した自己は日常の自己から一歩も「虚」へと離れることがないまま、その感動を物語ってしまうことになるので、じつは上達にはほとんど結びつかない。その自己を最低限、他者性へと開くのが「季語・季題を入れること」という約束事なのである。俳句の前身は俳諧体の連歌における最初の句「発句」であり、発句の詠み手が自分の話しかしなかったら文字通り二の句が継げなくなって、脇句以下が続かなくなってしまうのだ。
(『俳句という他界』関悦史)

「季語」で、共有できるもの、事柄を確保することで、コミュニケーション(二の句)へつながっていくということでしょうか。

現代俳句協会50年に企画されたという歳時記には、「無季」がもうけられています。金子兜太氏が、「序にかえて」というテキストで「無季」の収録について書いています。

歳時とは一年中の出来事であり、仕事の謂である。近代から現代へと私たちの生活は、海外からのさまざまな文化・文明を受容し消化しながら、拡大し複雑化してきた。それにともなって言葉も多様化し、季によって整理される語が増加する一方では無季の語も増えている。季語を増加させながら無季語をも収録していく、それは自然な行為であって、歳時記のあるべき姿なのだ。
(『現代俳句歳時記   無季』から)

「無季」では、例えば、次のような言葉があげられています。
「青空」「未来」「昭和」「結婚」「耳」「難民」「自転車」「人工衛星」「平和」…

もう逃さぬ人工衛星が廻りおる
仁智栄坊

いわゆる「無季」俳句でも、共有できるもの、事柄があるならば、俳句という短いテキストでのコミュニケーションが成立しうるということでしょうか?

俳句は飛躍と断裂の驚異によって自己や因果律を離れ、その上で他界的なものを含みつつ再統合を果たすものなのだ。
(『俳句という他界』関悦史)

なんとなくわかるような…。でもやはり難しいです。
まずは「季語」を学んでいきます。

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