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満ち足りる、ということ

満足ってなんだろう?
「まんぞく」というと軽くて、「みちたりる」というとなんだか高価で貴重な気がする。同じ意味なのになんとなく違う。

満ち足りることがない、と思っていた毎日だった。
特に、仕事を辞めてからは生活の中に満ち足りるひとときはなかった。
もしかしたら、仕事をしている時でも「あぁ満ち足りているなぁ今」なんて思うことはなかったかもしれない。

4月に全ての仕事を片付けてからは、5分おきに鳴っていたLINEの通知も来なくなり、電話もほとんど鳴らなくなり、生活の中に静けさが押し寄せた。
はじめはそれが不安でたまらなかった。
社会から置き去りになって、世界から切り離されて、誰にも必要とされていない人間になってしまったのだと、自分の存在価値を見失った。
そのまま半年以上の月日が流れた。

つい先日「リハビリになるかもよ」と知り合いのディレクターからある仕事を依頼された。
仕事に復帰する心構えはまだないけれど、社会の役に立つという行為をもう一度味わってみるために引き受けることにした。
ある生配信番組の制作だった。

制作期間がわずか3週間ほどしかない新番組の立ち上げで、体も脳も仕事モードに戻っていない分、毎日とんでもない疲労感に襲われた。身体的にも精神的にも。
一方で「私これまで何年もよくこんな生活してたな…」と、とても客観的で冷静に自分が置かれている世界を見つめていた。

どんな業界のどんな仕事でも同じだろうが、本番は一瞬。あっという間に終わる。
その一瞬を迎えるための準備に途方もない労力を費やすから、妥協はしないしできない。

本番当日朝9時。一睡もしないまま会場入りして生配信準備。
直前までバッタバタして迎えた本番は、なんのトラブルもなく無事に終了した。

ほっとしたのも束の間、今度は会場バラし。午後9時。
スタジオセットに使った美術品を倉庫まで荷物を運ぶことになり、他の制作スタッフには先に帰ってもらった。
のだけど…美術品の荷下ろし中、ディレクターから「もう帰った?」の連絡。
「まだ美術バラし中!」と返すと「会社で待ってます」と。

何日もろくに眠らず働いてきた人たちがまだ会社に残ってる…なぜ!?
私は急いで荷下ろしを終わらせて、会社へ向かった。
そして、待っていたスタッフ3人が私の帰社と同時に「ご飯行くよ!」と早速外へ繰り出したのだった。

この時の私の心の中。
「そりゃ今日何にも食べてないけど、めっちゃ疲れてるしご飯食べずに今すぐ寝たいよー」
もちろんお人好しな私には誘いを断る勇気もなく、導かれるままに恵比寿のサムギョプサルのお店へ入った。時刻は24時、もう次の日になっていた。

私たちはチョレギサラダと豆腐キムチとサムギョプサルをつつきながら、数時間前に終わった仕事を振り返っていた。
ここ最近でも稀に見るハードな現場だったことは皆が感じていて、ただ、新番組を制作する時はだいたいこうなることも分かっていた。
それでも、それぞれの立場でたくさんの愚痴が溜まっていた。
かのディレクターは、無事に終えた一仕事を仲間と愚痴ったり讃えたりしたかったのだろう。たとえどんなに疲れていても。

眠気で目の前に鎮座する鉄板に突っ伏しそうなくらいヘロヘロだった私は、こんがり焼けていく豚肉とごま油とニンニクのにおいに、食欲がむくむくと湧き上がってきた。
そして、サンチュに巻かれたこんがり肉をパクッと口にした時、
「うわぁ、わたし今満ち足りてる」と思わず声が漏れそうになった。

それまで「欲」というものがあまり湧かず、食べることにも、何かをやることにも積極的ではなかった私。
ご飯を食べることが面倒に感じて、夜ご飯をポテチで済ませたりすることもあったし、どんなに食べても満腹を感じることさえなかった。

睡眠不足で疲労困憊の深夜1時に、いい匂い!美味しそう!食べたい!美味しい!という感情が押し寄せたことに、自分でも驚いた。
量はそんなに食べてないし、お腹いっぱいでもう食べられない!なんてことではなく、栄養成分のバランスがいい!なんてことでもなく、とにかく十分に満ち足りていたのだった。

ひとりで食べるご飯、それはそれであり。
なのだけど、わいわいと食べるご飯はその場の雰囲気だけでお腹も心もいっぱいになるのだと実感した。

「満ち足りる」とは心も満たされること。もうそれ以上何もいらなくなること。

仕事復帰手前のリハビリ段階で学んだ新たな気づき。

深夜2時半。
満ち足りたまま帰宅した私はあっという間に眠りについた。








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