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NYコリアンタウンの歴史~きっかけはカツラブーム!?~

なぜここにコリアンタウンが?

韓国ソウルでの生活経験がある筆者にとって、マンハッタン32丁目のコリアンタウンはまさに心の拠り所である。本場のコリアンレストランはもちろん、Hマートでは、キムチやケンニプ(えごまの葉)等、韓国食材を手軽に購入することができる。韓国系住民のみならず、地元ニューヨーカーにも愛されており、週末は、ヤンニョムチキンやパッピンス`、ハットグを食べながら歩く若者たちで賑わっている。

そんなコリアンタウンを歩きながら思った。そもそもなぜこの場所にコリアンタウンがあるのだろう?

そんな疑問を解消するべく、ニューヨーク韓人会(KAAGNY)の韓人移民史博物館を訪ねてみた。

韓人移民史博物館

きっかけは韓国産カツラブーム

そこで面白い事実を知った。32丁目にコリアンタウンができるきっかけとなったのは、1960年代以降のニューヨークにおける「韓国産カツラブーム」だったというのである。

さらに調べてみると、チャン・ヨンホという人物がキーパーソンであることが判明した。チャン・ヨンホが果たした役割とその後のコリアンタウンの発展について、韓人移民史博物館の資料や米州韓国日報の記事(「ニューヨーク韓人ストーリー、韓国産カツラの火付け役チャン・ヨンホ」)等を元に紹介する。

キーパーソンはチャン・ヨンホ

1960年代の韓国はまだ貧しかった。国を発展させて豊かになるためには、競争力ある輸出品を発掘する必要があった。

そんな中、1962年12月に大韓貿易振興公社(KOTRA)NY事務所副所長としてニューヨークに赴任したチャン・ヨンホの主な任務は、米国市場の調査であった。どのような商品がどの国から米国に輸入されているのか、特に日本や台湾、香港などから入ってくる商品については、韓国も競争力を持てるのではないかと考え、それら商品の市場調査を徹底して行った。

そのような調査を進める中で、チャンは、韓国産の豚毛と人毛が、米国に輸出されていることに着目した。柔らかい韓国の豚毛は、ブラシを作る原料として人気があり、人毛は上流階級の貴婦人が愛用するカツラの原料として使用されていた。これらは付加価値を生まない一次産品であった。

人毛の輸入業者を通じて、ブルックリンでユダヤ人が営むカツラ製造工場の見学の機会を得た彼は、工場の従業員たちが針で髪の毛を一本一本キャップに編み込んでいく製造過程を目の当たりにし、「このような手工業であれば、賃金が安く、手先の器用な韓国人はもっと上手くやれるに違いない」と確信する。この時、将来的にジョイントベンチャーにすることも念頭に、製造工程を全て習得したという。

1965年7月にKOTRAの任期を終えてソウルに帰国したチャンは、モヤシ栽培用の半地下物件を借り、カツラ工場を立ち上げた。当初30人で始めた工場は、人毛の染色過程で試行錯誤を繰り返したが、初年度は2万ドル分の人毛カツラを輸出したという。

彼の名前(ヨンホ)のイニシャルを冠したYH貿易は、ニューヨーク支社を通じたカツラの輸出で、1967年に50万ドル、1968年に200万ドル、1969年に470万ドル、そして1970年には1,000万ドルの売り上げを突破し、その年の「輸出の日」で勲章を受賞するほどであった。チャンは、ソウル工場は親戚に任せ、ニューヨークで陣頭指揮をとった。その後もニューヨークを拠点に活躍した彼は、その財力とリーダーシップが認められ、1969年に第8代ニューヨーク韓人会長に就任した。

チャン・ヨンホ(NY韓人会長を務めていた頃)

韓国人として初めてマンハッタンの商業ビルを購入

カツラ輸出で大成功を収めたチャンは、1973年、マンハッタン32丁目の6階建て商業ビルを40万ドルで購入した。ニューヨーク市内で韓国人が商業ビルを購入するのはこれが初めてであった。これにより、韓国系業者が入居しやすくなり、この地域にコリアンタウンが形成されるきっかけとなった。

このように、米国に韓国産カツラを初めて紹介したチャンであったが、カツラ産業の衰退の兆しをいち早く察知し、他の品目に転向する才覚も持ち合わせていた。1971年、韓国で過剰生産されるカツラが、米国市場での過当競争により価格が下落していることに気づいた彼は、カツラ製造用のミシンを使い、衣料品製造に転向する決断を下した。主に男性用ズボンやジャケット、スプリングコート等を製造し、米国市場に売り込んだ。 その予想通り、カツラは1974年頃から不況に陥り、彼自身も1975年までにカツラ業から撤退した。

韓国系卸売商店街の発展

カツラ業が衰退した後も、チャンが衣類製造に転向した流れを受けてか、衣類、カバン、雑貨、ジュエリー等の韓国系業者がこの地域に進出してビジネスを行い、32丁目一帯は韓国系卸売商店街として発展していった。1978年には、NY韓人経済人協会が発足した。このエリアで韓国系商店街が発展する中で、韓国系飲食店も次第に増えていったであろうことは、想像に難くない。

なお、70年代、身一つで米国に移住してきた韓国人たちは、青果、水産、縫製、洗濯など、他の民族が避けた業種を開拓して米国社会に定着していっていた。青果、水産はきつい労働を伴ったため、体力的にも持続可能性が見込めると判断された洗濯、すなわちクリーニング業を始めるケースが次第に増え、一時期はニューヨークやニュージャージー全体の60%以上を韓国系業者が占有するまでになったという。

今もなお勢いが止まらない「Korea Way」

韓国系卸売商店街が32丁目エリアを中心に発展したことを受け、1995年、ニューヨーク市が、ブロードウェイ25丁目から34丁目のエリアをコリアンタウンとして指定した。この指定の背景には、NY韓人経済人協会による働きかけがあったという。

現在、ブロードウェイ32丁目には、「Korea Way」の標識が掲げられている。

ブロードウェイ32丁目に掲げられたKorea Wayの標識

週末ともなると多くの若者で賑わうコリアンタウン。流行の最先端を追求する店は次から次へと移り変わっていく。今後も時代ごとのトレンドを取り入れながら、発展していくのだろう。

本年2月には、コリアンタウン近くのパークアベニュー32丁目という好立地に、韓国文化院(KCCNY)がリニューアルオープンした。一棟まるごと、韓国文化院の施設となっており、音楽、パフォーミングアーツ、映画、伝統芸能、食等、韓国文化の総合的な発信地として、ますます盛り上がりを見せるだろう。

2月に122 E 32nd Streetにオープンした韓国文化院の外観

チャンは昨年、95歳で他界したが、彼のカツラブームがその発展の基礎となった32丁目界隈のコリアンタウンは、依然として活気に溢れ、コリアンコミュニティの成長の勢いが生き生きと感じられる場所となっている。

晩年のチャンは、ニューヨークでボランティア活動や財団等でチャリティ活動を静かに行い、90歳を超えてからは、子供の住むサンフランシスコに移住したという。

現在も若者たちで賑わい、活気に溢れるコリアンタウンだが、チャンが火付け役となった韓国産カツラブームなしには存在しなかったであろう。筆者を含め、多くのニューヨーカーたちが今もなお、その恩恵にあずかっている。カツラブームへの先見の明はもちろん、32丁目にビルを丸ごと購入するという、チャンの勇気と決断を称えたい。


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