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「嫌い」を認めて「好き」を知る

わたしは基本的にネガティブな言葉はあまり好きではありません。言葉を書いたり発したりしたときに、一番最初に影響を受けるのは自分自身。自らの言葉により負の感情を増幅させることになるため、できるだけネガティブな言葉や文章は避けたい気持ちでいます。なにかネガティブな体験をポストするときも、それから得た学びにつながるように工夫することもあります。

そうはいってもわたしもひとりの人間です。毎日にこにこハッピーで埋め尽くされているわけではなく、時にはネガティブな感情に振り回されることもあります。
今回は、これまで体験したことのないような、体が震えるほどの「嫌悪」を体験してしまったので、その状態を分析するためにも、向き合ってみることにしました。

「この人ちょっと苦手だな」と感じていたけれど、敢えてそのまま気にしないように抑えていた人に関して、知りたくなかった事実を意図せず知ってしまい、鳥肌が立って体が震えてしまうほど、不快感と嫌悪感に襲われてしまいました。

わたしは不器用なので「この人苦手だな」と思う人とはそっと距離を置きます。心を殺して表面的にいい顔して付き合うという器用なことできないので、あからさまに目を逸らしたり、接触を避けたり、とてもわかりやすいタイプです。大人げないと思われるかもしれませんが、そうなってしまうのです。
相手に心当たりがなくて「?」と一瞬思わせてしまったとしても、わたしは自分の心を守るために、万人からの理解と好意は求めません。

だからこそ、心の中で疑心暗鬼だったり、本当は邪推の念を抱えたりしながら、ニコニコと仲良しの仮面をつけて近づいてくるような人が大変苦手です。「ミステリアス」なんて素敵なものではなく「この人は何を考えているのだろう」という恐怖にも似たものを感じます。
自分の利益のため、ポジションを死守するため、傷つかないように先手でバリアを張るため…いろいろな理由があるかと思いますが、「わたしは味方よ」「あなたに好感を持っているよ」といった媚びるような言動を取りながら、心の中では相手を見下していたり、邪魔者だと思っていたり、何かを聞き出そうとしたりする。でも、周囲に対する優越感、自己顕示、自己陶酔…そういう匂いが時々見え隠れする。そういう腹黒くて狡猾な人が一番苦手なんです。

すでにそんなふうに感じていた相手について、もらい事故的にちょっと受け入れ難い事実を突きつけられてしまい、そうなってしまうと悲しいもので、これまでなんとか保っていた「ちょっと苦手」というレッテルが、「もう無理」みたいになってしまいまいした。相手はなにも変わらないのに、人は本当に自分の都合だけで、相手への評価を勝手に目まぐるしく変えるものなのです。

しかし、以前のnoteに書いたように「どんな出会いも出来事も意味がある」のだとしたら、そういう人に出会ったことも、そこまでの感情を抱いていしまったことも、きっとなにか意味があるのかもしれません。相手を通して、自分の生き方を問い直すきっかけであったり、価値観を見直す必要があるというサインだったり。
「あなたはなぜわたしの前に現れたのか?」

さらに、「世界はグラデーション」というのも、わたしが大切にしている価値観のひとつです。影があるから光が際立つように、ものごとにはグラデーションがあり、その幅を広げるため、自分の器を広げるために、極端な体験をすることはマイナスにはならない、という考えです。
ぞわぞわと震えるほどの不快感を与えてくれる人に出会える機会はなかなかありません。これをなんとかわたしの特技である「ポジティブ変換術」で書き換えてみます。

腹黒い人が嫌い=わたしは素直でまっすぐな人が好き
狡猾な人が嫌い=わたしは不器用でも正直な人が好き
他人に媚びる人は不快=わたしは他人に嫌われても自分らしさを大切にしたい

「嫌い」によって「好き」を知る。それは、自分が大切にしたい価値観を、さらに浮き彫りにするチャンスなのかもしれません。

そしてどんな感情も、特定の事実や出来事が引き金にはなってはいるものの、その感情を生み出しているのは自分自身。それは「感情はコントロールできる」といったよくある表現とはちょっと違います。感情は自然発生的なもので、「今日は晴れている」「突然雨が降った」といった自然現象にも似た、コントロール不可能な部分が多いと思っています。

不意な出来事でいやな感情が湧き起こってしまうのは、突如発生した望ましくない自然災害、つまりゲリラ豪雨に襲われたようなもの。

ゲリラ豪雨に出会ってしまったらどうしますか?「どうして雨が降るんだよ!わたしを苦しめて許さない!」と、雨が止むまで天に向かって叫び続けるでしょうか?「雨のこんなところがきらいだ、あんなところもきらいだ、前からきらいだったんだ」と雨についていつまでも分析するでしょうか?そんなことをしたら、ますますゲリラ豪雨が憎くなってしまいますし、雨に濡れてびしょびしょになってしまいます。

正しい対処法は、「雨が当たらない場所に避難すること」です。安全で安心できる場所を見つけて、雨のことは一度忘れて、好きな本を読んだりおいしいコーヒーを飲んだりして、ただ雨が止むのを待つだけです。

誰もが好きに生きる権利があります。人を好きになったり、好きになれなかったり、好きだったけど好きじゃなくなったり。すべて自由です。真面目な人ほど「人を嫌ってはいけない」「あの人はいい人なのに」と無意識にネガティブな本心のカケラを抑えこんでしまうのかもしれません。
人と人との関係性は、人の数だけあります。「あの人苦手だな」というのは、わたしがあなたの魅力をうまく受け取れないだけ、わたしから見て好ましくない部分をキャッチしてしまうだけ。つまり、ただ相性が悪いだけです。誰も悪くありません。

これだけたくさんの人がいるのだから、100人に1人ぐらい、好きになれない人、嫌いになってしまった人がいたっていい。その何倍も大好きな人たちと出会えればラッキーで、大切にしたい人をできるだけ大切にできればいい。
わたしが苦手なあの人にも、大切な人や大切にしてくれる人がいるんだから、そこにわたしが無理して入り込む必要はない。そんなふうに「嫌い」を許せば、少しラクに生きられるような気がします。

元日に書くような文章ではありませんが、能登半島地震が起きてネットやSNSが混迷極まる中、メディアから距離を置いて静かに自分に向き合う時間とすることにしました。

わたしは書くことで着地点を見つける。事実を見つめ、感情を見つめ、書きながら整理して、文章を結ぶように感情も着地する。このプロセスを経て、書き終わる頃にはとてもすっきりと前向きな気持ちになれます。

読んでくださってありがとうございました。

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