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初めての出産は命懸けだった

元気な赤ちゃんを出産しました!母子ともに健康です!
というお決まりの台詞はついに言えなかった。
5日前に分娩室で産まれたときツーショット写真を撮った我が子。その後、私は写真や動画でしか彼の姿を見ることができていない。

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破水したのは日曜未明のことだった。
とっくに出産予定日をすぎ、あまりに産まれる気配がないため数時間後には入院する段取りが取られていたその当日のことだった。手早く病院に電話し、夫の運転する車で急ぎ向かう。到着後いくつか検査をし、すぐに入院生活が始まった。
高齢出産で無痛分娩希望の私がずっと頼りにしている、家から車で20分の大病院だ。

無痛分娩には、大きく分けて2パターンある。
一つは計画無痛分娩と呼ばれる、前もって決めた日に入院したら陣痛促進剤と麻酔で痛みを緩和しながら陣痛を起こし分娩するパターン。
もう一つは、自然に陣痛が起こるのを待って入院し、ある程度の陣痛が確認できてから促進剤と麻酔で痛みを軽減しながら子宮口を開き分娩に至るパターン(一般には和痛分娩とも呼ばれる)。
私の通う病院では、初産婦は後者で出産することになっていた。

出産では子宮口が何センチ開いたかが、産んでよいタイミングかどうかを測る最大のKPIとなる。
出産時以外は閉じている子宮口が10cm開けば大体の場合赤ちゃんは通過できるので、分娩可能と判断されることが多い。1cm、2cm…と徐々に開いていって10cmに至るまでの所要時間などは人それぞれだ。
私の場合は、麻酔があってもなくても、促進剤を使っても、非常に進みが遅かった。

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日曜未明から破水とともに始まった陣痛は、火曜朝時点でも終わっていなかった。50時間経過して、子宮口の開きは7cm程度。まだ足りない。
体力回復のため夜間の促進剤を停止して休憩したりはしたものの、どこからともなくやってきた咳となぜか麻酔さえも効かない激痛にうめいていたら夜が明けた。

幸いにも赤ちゃんの心拍は元気いっぱいだった一方で、経過時間と母体の体力消耗を考慮して、あまりにも産まれないようなら最後は緊急帝王切開でとにかくその火曜中に産むことが決まった。
さあ、促進剤を入れて分娩にむけ再起動だ。

ところが、私本人は明るくポジティブにがんばるぞ!なんて言える状況ではまるでなかった。
激しい咳、朦朧とする頭、痛いと叫ばないとどうにかなってしまいそうな激痛。麻酔は効いていたが、私が認識できる範囲において麻酔による痛みの緩和は15分のうち1〜2分で、残りの時間は強烈に痛かった。

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再開して2時間が経過した。子宮口は7cm強だった。
今すぐ帝王切開に切り替えられないですかと懇願してみたが、医師の側からすると赤ちゃんの心拍も正常で切り替える条件は満たされていなかった。


さらに2時間が経過した。子宮口は8cmに満たなかった。
急に助産師さんたちが移動の準備を始め、私は自分がどこかに運ばれることを認識した。ついに帝王切開だろうか。帝王切開になれば、じきに痛みから解放され、リスクはあれど赤ちゃんの命は守られるはずだ。

「私、どこに移動するんですか?」忙しそうな助産師さんに聞いてみた。

「分娩室に行きます」

えっ。
分娩できる状態かよ。昨日から一度も深呼吸できてないよ。徹夜で痛みにのたうち回って体力もう残ってないよ。ここから子宮口全開まで何時間かかるんだよ。

ふと、さっき取ったPCR検査のことを思い出した。昨日のPCR検査は陰性だったけど、さっきのPCR検査が陽性だったらすぐに緊急帝王切開になるはずだ。
でも、聞いてみたら、やはり陰性だったという。


移動の間、酸素吸入は止められた。
本当は1分程度の移動距離が何キロにも感じられた。
朦朧とする意識の中で、さすがに私これでもう死ぬかもなと思った。
赤ちゃんが元気ならそれでいいと思った。夫の顔が思い浮かんだ。あの人は赤ちゃんを幸せにしてくれる人だと思った。そして、なぜか仕事のことを思い出し、出産前に全部リセットしてよかったなと思った。きっと誰にも迷惑はかからないだろう。



分娩室に入り、固い分娩台に上がった。助産師さんが「いきんでもいいですよ」と言った。
勝手に産み落としていいですよという意味ではない。いきんだほうが子宮口が開く場合があるということだ。私は何度も全身に力を入れて赤ちゃんの進みを後押しした。

20分以上経っただろうか。分娩室にどんどん医師やスタッフが集まってきた。みるみるうちに器材が増え、シートが敷かれ、分娩室っぽさに拍車がかかった。

「子宮口、全開になりましたよ!」

そこから先のことはあまり覚えていない。

先生に言われるがままに息を吸い、吐き、いきみ、休み、を何度か繰り返した。
あとでわかったこととしては、そのとき私は39度の発熱とともに両方の肺炎を起こしていた。画像でみると真っ白でおまけに水もたまっている肺。喘息の既往歴もなく身近に肺炎患者もなく、入院時には咳ひとつ出ていなかった肺。
入院から実に55時間が経過していた。


そして、息子は産まれた。

息子は小さな産声をあげ、手足を動かした。長いお産だったけれど、この子が生きててよかったなと思った。そしてどうやら自分も、生きてここにいることができているらしい。

「二人とも、気が気じゃなかったよ」あとで夫がそうつぶやいた。
立ち会い出産ができないこのご時世で、連絡が来るのを待つしかできない状態はどんなにしんどかったことだろう。

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赤ちゃんの名前は、何ヶ月も前から夫婦で検討してきた。音の響きや漢字の意味、字画などを考慮したたくさんの候補からああでもないこうでもないと話し合ってきた。名前は親から子へのプレゼントだから、いろんな期待や願いを込めて最良の名前を探してきた。

でも、今回の出産を経て、その考えは少し変わった。親の期待や願いはほどほどでよく、個性を大切にして生きているだけで十分なんじゃないかと私たちは思った。
出産に向き合ったこの3日間だけでも、息子の個性を感じられるエピソードはいくつもあった。単純に彼の個性をそのまま受け止めて名づけよう。

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息子は今、心配される点がありNICU(新生児用の集中治療室)に入院している。
目と鼻の先にいるはずだが、肺炎患者の私は入室できないエリアだ。代わりに夫が仕事の合間に足しげく通い、動画や写真を撮ったり抱っこしてみたり先生の説明を聞いてきてくれる。息子の発育スピードは速く、毎日何かしらの明るいニュースがあるのが楽しい。



息子も私もそのうち退院できるだろう。そして、家族3人での新生活が始まるだろう。

楽しくやろう。せっかく、生きてるんだから。

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