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舞台の幕が下りたら

1月5日、祖母が104歳の誕生日を迎えた。

104年。1世紀以上。大正時代に生まれ、長い昭和、そして平成を経て令和。戦争を生き抜いた人でもある。

祖母は穏やかで気品にあふれ、一度も怒ったり取り乱した姿を見たことがない。私が物心ついてから今まで、おばあちゃんはいつも変わらず優しいおばあちゃんのままだ。物静かで、余計なことは言わず、いつも微笑を浮かべ、常に相手を思いやる祖母を悪く言う人はいない。

100歳を過ぎて、以前より耳が遠くなったり同じことを訊ねたりするようになったと、同居する叔母から聞いた。叔母はずっと祖父母と同居で暮らしてきて、三人の子育てを終えた今は祖母の身の回りのサポートもしている。とはいえ、悲壮感漂うような介護エピソードを聞いたことがないのは、祖母が100歳を過ぎても食事や入浴、排泄を人に頼らずこなしていたからかもしれない。余談だが「要介護1」というラベルは、デイサービスに行けば尊敬の的だったらしい(もう行ってないようだけど)。
とにかく、歳を重ねても自分の身の回りのことは自分で行い、毎日お粉をはたいて小綺麗な格好をするのは、祖母らしさを表しているように思う。きちんとした人なのだ。

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さて、2021年にコロナ禍で生まれた息子が祖母と初めて会ったのは、生後5ヶ月を過ぎた頃だった。三密回避で親戚の集いがなく、なんでもない週末に会いに行った。母や叔母が生まれ育った古い家屋で、叔母にすこし支えてもらいながら、祖母は変わらない笑顔で迎えてくれた。
息子の人見知りが始まる前に会いに行っておいて本当によかった。今じゃギャン泣き待ったなしだ。

第二子をどうするのか真剣に考え始めたのは、そんな頃だった。
息子が保育園に通い始めたこともあるし、同じタイミングで妊娠出産を経験した友人が妊活を再開したことにも影響されたと思う。

夫は第二子に対して慎重な考えを持っている。息子の存在が大事すぎて十分満たされているというが、ひょっとしたら私が出産時に危険な状態に陥ったことがトラウマになっているのかもしれない。けれど、それは親の事情であって、息子の人生においてきょうだいがいたほうがいいのか一人っ子がいいのかという話はまた別だと私は思っている。

夫も私も一人っ子ではないので、一人っ子が実際どんなものなのかはイマイチよくわからない。
ネットで検索してみると、同じような疑問を持っている親は割といるらしく、記事やクチコミがゴマンと出てくる。いくつか流し読みする中で、印象的な回答があった。

「私自身が一人っ子ですが、良いことばかりだと思っています。ただ、老後に親の介護を一人でしなければならないのと、親の死後に思い出話のできる相手がいないのは寂しいです」
こんな内容だった。

介護。親の死後。ガツンと衝撃を受けた。そうか、普通にいけば私と夫は息子より先に亡くなるわけで、私たちがいなくなった後の世界でも息子の人生は続くんだ。しかも、亡くなるまでの間に多少なり息子の世話になる可能性すらあるのか。頭ではわかっていたはずの老後が、急に現実味を帯びた。

息子はいつまでも赤ちゃんじゃない。恐らくずっと一緒に暮らすわけでもないし、私が息子の人生を見届けられるわけでもない。時が来れば、私は先に人生の幕を下ろすんだ。
それはどんな場面になるんだろう。父方の祖父母も、母方の祖父も、亡くなったときは病院だった。高齢になり何かの病気で入院し、痛み止めの薬のせいか判断能力が目に見えて鈍り、入院が長期化する前にあっさりと旅立っていった。死期を悟り「ありがとう…」と呟くと心電図がピーーッと鳴って心肺停止、なんてドラマは現実には滅多に起こらないと知った。そろそろかもしれないとの病院からの知らせを親から聞いてお見舞いに駆けつけたら、弱りきって意識も混濁した状態での面会で、なんとも言えない気持ちで帰宅した何日か後に知らせを受け取ったというのが現実に起こった共通のストーリーだ。
確率から言えば、私もそんな終わり方になるのだろうか。

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104歳を迎えた4週間後、祖母は亡くなった。

その日は金曜日で、よく晴れた冬の日だった。
心臓に持病があった祖母は秋頃から短い入退院を繰り返していて、サポートする叔母の心労が重なってきていた。叔母自身の通院もあったし、これから祖母は近隣の施設に入居しようかなんて話も出ていた。その日は叔母の通院の日で、行けないことはない距離に住む母が急遽前日から1泊することになった。

「明日の夕方から1泊で行ってくる事になった。もうベッドから一人で立ち上がれなくなったとかで、急に衰えがひどくなったように思う」
そんな母からのLINEを受け取ったのが水曜の夕方。反射的に「金曜午前に私も会いに行く」と伝えた。流れで、姉も行くことになった。自宅へお見舞いに行くなら母もいるときに訪問したほうが気楽だろうし、何より早く会いに行った方がいい気がしていた。

当日は、洗濯などをひととおり済ませて家を出て、乗り換えの渋谷で小さなお花とお菓子を買った。そういえば前回行ったときは、あんこ好きな叔父に合わせて和菓子を持って行ったっけ。今回は、母が好きなバウムクーヘンにしよう。といっても、ナイフで切るのはめんどくさいし洗い物増えるし、小分けになってるパックでいいや。治一郎の、小さなカットが4切れ入った、1パック300円のバウムクーヘンにしよう。おいくつですかと店員さんに聞かれて、なんとなく買った4パック。どうせそんなに食べないだろうけど、残っても個装されてるから大丈夫。

渋谷で埼京線に乗って、11時すぎに着くよと母にLINEした。しばらくして母から返信があった。

「おばあちゃんは、朝10時頃、亡くなったのよ。」

え?

到着したら、祖母は本当に亡くなっていた。
自室のベッドで、眠るように息を引き取っていた。指先が少し冷たくなってきちゃったけれど首元なんかはまだ温かいのよと言われたが、寒い中歩いてきた私の指先のほうがよっぽど冷たかった。

祖母の最期は、一人で静かに迎えたようだった。ベッドで一人になったわずかな時間に、命の灯火をふっと吹き消したようだった。
医師や看護師、ケアマネージャーの方々が口を揃えて「苦しまずに亡くなられたと思います」と言ったのは、残された私たちの心をいくぶんか和らげてくれた。

周囲に人がいないタイミングだったのは、祖母の意志だったのかもしれない。隣に誰かがいると、苦しいならお薬飲もうと言ってしまうし、食欲がないなら食べられるものを用意してしまうし、弱気になるなら励ましてしまう。優しい祖母はそれに応えてしまうから、誰もいない隙を見計らったんだろう。これが、おばあちゃんの選択した幕の下ろし方だったのかもしれない。

平日にも関わらず、祖母の元に続々と家族が集まってきた。従姉弟たち一家や、私の父も来て、あっという間に10人になった。
お茶とともに、私が持参したバウムクーヘンも広げた。こんなにみんな集まるだなんて思ってなかったよ。4パックじゃ全然足りなかったじゃない。

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「おばあちゃんはね、死ぬときは自宅がいいって言ってたのよ」母が言った。

やっぱり自分で決めて旅立ったんだね。
葬儀の日、棺の中に横になったおばあちゃんは相変わらず眠っているみたいで、苦しまずに亡くなったという言葉が頭の中でこだました。

家族だけのこぢんまりとしたアットホームな葬儀は、誰も涙を見せることなく全く湿っぽくならずに終えられた。私は不思議と晴れやかな気分だった。

みんなに愛されたおばあちゃんは、これから先もみんなに愛されたまま、天国で幸福に暮らしてゆくのだろうと確信している。私だってオーケストラの演奏で舞台に立ったことがあるから知ってるんだ。幕を下ろしたあとは「おつかれさま!」と笑顔で挨拶して、晴れ晴れとした気持ちで開放感を楽しむってことを。それに、私だって演劇や演奏会を鑑賞しに行ったことがあるから知ってるんだ。幕が下りて客席を立ってからも、感想を言い合ったり感動に浸ったりして余韻を楽しむってことを。

優しくて控えめなおばあちゃんが、実はとっても芯の強い女性だったことに最後の最後で気づいたよ。
棺の中にはおばあちゃんが大切にしていたものたちと、みんなで書いたたくさんの手紙、きれいなお花と色とりどりの折り鶴がいっぱいで、それはそれは素敵だった。斎場ではほかの葬儀も執り行われていたけれど、私たちの一角だけやたらと朗らかな雰囲気で、すこし浮いてたかもしれないね。葬儀のあとみんなで木曽路に行ってね、献杯の発声は「おばあちゃんの天国での幸せを祝して!」だったんだよ。笑っちゃうでしょ。

おばあちゃんがいなくなった後の世界でも、私の人生はしばらく続くみたい。いつか幕を下ろすその日まで。
また会おうね、おばあちゃん。

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