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‶アシューの白い家″ 中田厚仁を覚えていますか?

中田厚仁は、UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)が実施したカンボジア初の総選挙の選挙監視員として1992年5月にカンボジアに渡り、投票日直前の93年4月8日にクメール・ルージュに殺害された(正確には特定されておらず、他説もある)青年です。当時はメディアでもたびたび取り上げられましたから、現在40代後半過ぎの方なら覚えていらっしゃるのではないかと思います。最近 You Tube で貴重な映像を発見したので、ここに貼り付けます。

一昨年9月のことですが、プノンペンの王宮近くに、ウナローム寺院という、15世紀に建てられた(ポルポト政権時にほぼ破壊され、後に再建)古刹があって、そこに中田厚仁の慰霊碑が建っているはずで探したことがありました。

寺域内をウロウロ探し回りましたが見つかりません。近くにいる人たちに聞いても、うまく言葉が通じません。もっとも、女性が僧侶に話しかけることは禁じられているので、それはできなかったのですが…。1日目はあきらめて、翌日また出かけました。

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それほど広い寺域ではないのですが、これはいよいよ、誰か男性を連れてきて、お坊さんにきいてもらうしかないと思っていたら、今さっき聞いた人がこっちこっちと、私を呼びに来てくれました。

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慰霊碑は、高い塀で囲まれた墓地の中にあったのです。左側は中田青年、右側は、当時共同通信のプノンペン支局長として赴任していて、やはりクメール・ルージュに捉われ、拘禁中に病死した石山幸基記者のものです。碑のまわりはきれいに掃除されていました。

中田厚仁の名前はなく、「世界市民ここに眠る」とだけ刻まれています。彼の葬儀はこの寺で営まれました。

中田厚仁は、1968年生まれ。父親の仕事の関係で幼い頃をポーランドで過ごし、アウシュビッツを訪れた時に衝撃を受けたそうで、小学校の卒業文集に、「国連で働きたい」と書いています。

「この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕がその誰かになりたい」というのが、彼が遺した言葉ですが、ほんとうにその言葉通りの人生を選んだのだなぁと、ようやく慰霊碑と対面した時には、思わず涙がこぼれてしまいました。

そして、私はシェムリアップに戻ったのですが、以来アツヒトのことが妙に気になって、彼が襲撃されて命を落とした場所にどうしても行きたくなり、2週間後、セイハーを伴って再び一路東へ車を走らせました。アツヒトが活動していた地域は、国道6号線をプノンペンに向かう途中のコンポントムというところです。

私が当時持っていた資料は、唯一「アツ小学校・中学校」の写真だけで、住所もわかりませんでした。私のコダワリを理解できないセイハーは、コンポントムは大きな町だし、そんな漠然とした情報だけでは見つからないと言い張ったのですが、私には自信がありました。なぜなら、たとえ26年前とはいえ、外国人がクメール・ルージュに殺害され、その後に、その日本人を記憶に残すために学校まで建てたということを、近隣の村人たちが覚えていないはずはないと思っていたからです。

今でこそ、村々にもスマホが行き渡っていますが、わりあいに最近まで、情報は当事者から直接、口から口へと語り伝えられ、とりわけ読み書きとはあまり縁のない人たちの脳裏には深く刻み込まれて風化することがない、ということを、私は12年間の中国黄土高原暮らしで、イヤというほど思い知らされていたからです。

6号線を2時間ほど走ったところで、だいたいの見当をつけて道を折れ、ほとんど人家のない道をしばらく走りました。そして15分ほど走ったところでようやく人影をみかけたので、写真を見せて、知らないかと聞いてみました。

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思っていた通り、その人はまだ若い男性でしたが、その道をまっすぐ行った先にあるというのです。その後に2度確認したのですが、2度とも同じ答えで、私たちがまずはと当たりをつけた、まさにその道の途中に「アツ小学校・中学校」はあったのです。

この学校は、村を大洪水が襲った時に食糧を買って欲しいと日本で募ったお金を、「食糧も喉から手が出るほど欲しいけれど、アツヒトのやったことを、自分たちの子どもや孫たちに伝えてゆくために学校を造りたい」という村人の希望に沿って1998年に建てられたものだそうです。

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学校は思いの外簡単に見つかりましたが、ちょうどお盆休暇の最中で、門は閉じられて人の気配はありませんでした。外からのぞいた校庭はきれいに手入れされ、樹木も茂っていて、とても気持ちの良い、美しい学校でした。正面にある「A」というモニュメントは、アツヒトの頭文字をとったものです。

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学校のすぐ隣に家が1軒あったのでのぞいてみると、まるで私を待っていたかのように、ひとりの老人が縁台に座っていました。さっそくセイハーに、アツヒトのことで何か覚えていないかと聞いてもらいました。ちなみに、村人たちは「アツヒト」ではなく、「アシュー」と呼んでいるようです。カンボジア人には、「ツ」という音を発音することが難しく、みな「ス」としか発音できないのです。

今年83歳という、カンボジアではきわめて稀な高齢の彼がいうには、自分はアシューとは会ったことはない。25年ほど前に、この家の前で銃撃されて死んだということを知っているだけだ。クメール・ルージュに殺されたというが、その中にもいろんな組織があって、誰が犯人かはわからない。ということでした。そして、学校の向かいにある白い建物を指さして、あの家は、アシューのお父さんが建てたものだというのです。

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学校の真ん前に瀟洒な白い家が建っていました。言われてみれば、カンボジアというよりはむしろ日本風な建物です。今は使われていないそうで、窓も扉も固く閉ざされていましたが、庭はきれいに整えられていて、荒れた感じはまったくありませんでした。村人たちが手入れをしているのでしょう。

この白い家を見たときに、私はアツヒトのことよりもむしろ、お父さんのことを考えて心がズキンズキンと音をたてました。遺体と対面した時に、「我が子ではなく、何かもっと崇高なものを見た気がした。」とおっしゃっていたお父さんは、商社員を辞めて、国連ボランティア名誉大使として活躍され、2016年に亡くなっています。

息子の追悼式が終わった後に、彼が生まれた時に植えた桜の木を、「厚仁とともに、おまえもこの世での務めを終えた。」と切り倒してしまったという、壮絶な逸話も私の心には強く残っています。

アツヒトが息を引き取ったまさにその場所に白い家を建て、きっと毎年ここに通っては、愛する息子の菩提を弔っておられたのだと思います。お父さんがこの家で過ごされた長い長い長い時間は、とてもとてもはかり知れないけれど、今頃はあの世とやらで、25歳で逝った愛しい息子とカンボジアのことやポーランドのこと、戦争について、平和について、自由とは何か、愛とは何かと……永遠に語り合うことができて、きっと幸福な時間を過ごされていると思います。今は無住となってしまった白い家とアシューが、村人たちの記憶の中にいつまでも残ってゆくことを祈るばかりです。

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