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日本滞在11日間記

4月15日、シェムリアップ新空港からベトナム航空夜行便でハノイ経由中部国際空港着16日午前7時。

住民票が置いてある名古屋の友人宅にスーツケースを預け、区役所で健康保険証を受け取り、名古屋駅から新幹線に飛び乗って新横浜→関内。予約を入れておいたY眼科に到着したのですが、そこには驚愕の事態が待ち受けていたのです。

私は1年ほど前から、夜間視力というものが急速に衰えつつあり、運転中対向車のライトがまぶしくて手元付近がはっきりせず、日が暮れてからの運転は控えていました。ネットでいろいろ調べてみると、やはり白内障の典型的な症状のようです。日中はなんら問題なく視力も0.8あったのですが、とにかくカンボジアは、バイクも自転車も人も動物も縦横無尽に飛び出してくるお国柄なので、幼い子でも撥ね飛ばしたら我が人生も終わるな、と思って早めの手術を受けようと決意しました。

やはり眼の手術ですし、技術的な問題もあり、かつ医療費は私の場合1割負担なので日本で受けようと思い、調べてみると、今どき白内障の手術は半年待ちはザラとかで、これはもうコネに頼るしかない。で、横浜に住む友人のA医師にメールしました。彼は精神科の医師なのですが、医学部の同級生名簿の中から眼科のB医師を探し出してくれたのです。私の条件は1か月以内の滞在ですが、B医師は「1か月あればなんとか……」といってくれたそうなので、私はそこで手術を受けることを決意したのです。

まずは飛行機代を工面し、畑の段取りも済ませ、水やりも頼み、かつカンボジアが最も暑い時期の1か月と定めて、4月16日に診断の予約を入れてもらいました。

16日の診断の結果は、やはり初期の白内障でした。他の原因だったら面倒だなと思っていたのでむしろホッとして、「手術はいつになりますか?」と聞くと、なんとっ!6月13日だというのです。えっ?えっ!え〜っ?

私の眼は完全に点になりました。「あのぉ~、私は1か月しか日本にはいられないのですがぁ~」と何かの間違いではないかと恐る恐る聞いてみても、一番早くてこの日です、というすげない返事。

なぜこういうことになったのかというと、実はY眼科の医師は、1か月でなんとか……といってくれたB医師ではなく、そこからまた話が廻って行ったC医師で、C医師には、1か月という期限までは伝わっていなかったということだったのです。

もう、絶句しかありませんでした。いったいぜんたい、私は前世に何か許されない悪事でもはたらいたのでしょうか?

しかし、もともとがコネというズルをしてるし、この期に及んでジタバタするのも見苦しいので、きっぱりあきらめて水戸に向かいました。術後はケアが必要で、Sさんのお宅におじゃますることになっていたのです。

Sさんのお宅でおでん(大根がおいしかった!)と感涙ものの手作り純米酒(愛好家が何人か集まって毎年造っているとか)をいただき、翌日、ひたち海浜公園というところに連れて行ってもらいました。ネモフィラという花の見ごろということで、ウィークデイにもかかわらず多くの人で賑わっていました。カンボジアの強烈な日差しの下ではこういった光景は見られないので、久々に日本の優しいお花畑を堪能。春先にはチューリップ、秋にはコキアでこの丘が埋め尽くされるそうです。

ピントが合っていませんが、エリザベス女王陛下ご愛玩だったコーギー。とにかく犬を連れている人は子連れよりも多いくらいでした。カンボジアでは This is a dog. といった雑種しか見ませんから、犬好きな私は、花よりもついついそっちに目が移ってしまいます。一番多いのはトイプードルでしたが、その他にチワワ、シーズー、レトリーバー、パピヨン、フレンチブル、ハスキー、ダックスフント、ポメラニアン、マルチーズ、シュナウザーなどなどを見ましたが、なぜか柴犬をみなかったのです。なぜでしょう?

ほぼ全員、服を着せられ、時には帽子を被らされ、靴まで履かされ、その上に犬車(?)に乗せられて、可哀そうに……と私は思ってしまうのですが……。

その後に3年ぶりの回転寿司に行って、夜はSさんとあれこれおしゃべり。同性同世代というのは、やっぱり気が置けなくていいですね。カンボジア歴は私より長く、地雷除去のNPO活動に関わっていた人で話もはずみました。

翌日はいったん東京駅まで出て、そこからバスで名古屋へ。途中、久しぶりに富士山を見ました。世界のいろんな山を見たことがありますが、やっぱり富士山はきれいですね。

名古屋では、図書館に行ってネットを繋いだり、区役所へ手続きに行ったり、カンボジアに持ち帰る食料品、医薬品の買い出しなど。それにしてもびっくりしたのは、外国人の多さでした。東京、関西圏ならともかく、名古屋なんて、外国人が観光したいところなんてありそうもないのに、駅界隈や地下街など、一目で観光客とわかる風情の人々がゾロゾロウロウロしていて、ああ、円が安いんだなぁと、あらためて深~いため息。いよいよ日本の生き残り策は″観光立国″なんだろうかと情けない気持ちになります。

もうひとつ。日本はなんて老人が多い国なんだろうということ。これはかなり前から感じていたことなのですが、カンボジアが飛び切りに若い人たちの国なので、なおさらです。最も、これはポル・ポト政権時に、当時の若者たちが大量に殺されてしまったという結果に他ならないのですが。ちなみに、国民平均年齢は2021年のデータで、日本45歳、カンボジア27歳。

シェムリアップで、自力で街をウロつける高齢者の3本指に間違いなく入る(冗談ではなく本当です)私としては、日中の地下街やターミナル界隈は、若い人は仕事中とはいえ、老人ばかりで異様な感すらおぼえました。これは実際に外国で暮らして比較してみないとわからない感覚だと思いますが、日本マジでヤバいです。

名古屋から直接帰った方が手間もお金も少なくて済んだのですが、どうしても会っておきたい人がいて、関空から戻ることにしました。豊中市に住むAさん夫妻は、とにかく私が学生時代からず~~~~っとお世話になりっぱなしの人たちで、これまでも関空経由の時はA家発、A家着とほとんど自分の家のように使っていました。それが今回はなぜだかわからないけれど「もしかしたら、今生の別れになるかも」という気にせかされて仕方がなかったのです。

で、″今生の別れ″という言葉で私がすぐに思い浮かぶのが、中国山西省の軍閥閻錫山のいとこの五妹子という女性です。1949年、国共内戦に敗れた閻錫山は台湾に逃亡するのですが、最後の戦場となった太原で、五妹子は「絶命電」といわれる有名な電文を打ち、閻錫山に今生の別れを告げた後に自決します。その「絶命電」をちょっと見てみたいなと思って検索をかけていたら、なんと、私が2013年に書いたブログが出てきたのです。使わなくても長く残っているものなんですね。関心のある方は以下からどうぞ。

Aさんのお宅に寄りたかったのは、もうひとつ理由があって、オクさんのまさ子さんの手料理が食べたかったのです。まぁ、こっちの方が重要だったのかもしれません。とにかく私は偏食で他人との外食が大の苦手な人間ですが、まさ子さんの作るものは、何でもすべて口に合う。どんな高級レストランに行くよりもおいしいのです。

異国で暮らす身にはなによりのごちそう。絶品です。たらふく食べて、最終日には弁当も作ってもらい、シェムリアップの自室に着いてから食べました。まさ子さんが隣にいたら、絶対に食べるなと言ったでしょうが、まぁ、少々のことなら百草丸呑みながらでも食べますね、私は。

私がA家に来るという情報を知って、2日目に函館のOさんから、「数の子の松前漬け」なるものが宅配便で届きました。これはコロナ前に寄った時、小樽のEさんから届いていたものを食べたことがあったのですが、″世の中にこんなに贅沢なものがあるのか″と感嘆し、″生涯にもう一度口にできる日がくるだろうか″とまで思ったものでした。こんなはた迷惑な風来坊のために、わざわざ函館から送ってくれる友がいるなんて、幸せ者です。

Aさんのところは、ずっと昔から、知人友人親族etc.……から様々な情報が集まって来る場所になっていて、私がいた時にも、アメリカに住むAさんの姪御さんから連絡が入っていて、彼女の娘さんが在籍するコロンビア大学でパレスチナ支援の抗議行動が日に日に激しくなっているという状況が伝わって来ていました。

25日は、京都府美山町にある「かやぶきの里」へ連れて行ってもらいました。A家もこの5月で車を返上するそうで、最後のドライブということになります。私も車さえ手放せば、当面白内障の手術もしなくていいし、事故る不安もなくなるし、ガソリン代、保険代、維持費etc.……生活もずっと楽になるのですが、なかなか決断ができません。

京都市内から30分ほどなので、さぞかし外国人が多いだろうと思っていたら、それほどでもなく、それでも賑やかに広東語とか聞こえてきました。町も積極的に呼び入れているのでしょう、Aさんたちが先回来た時は、入った蕎麦屋の日本人客はAさんたちだけだったそうです。

かや葺きといえば、我がトッケイファームもかや葺きですが、葺いてあるかやは1重だけ、ここみたいな何重にも葺いてあるところは維持、修理が大変でしょうね。職人さんもどんどんいなくなっているし、そもそも大量のかやを入手するのは難しいのでは?ウチの場合は、お隣のジョクさんが葺けるし、かやも簡単に手に入ります。

のんびりと村内を散策して蕎麦を食べて、帰りに道の駅に寄って美山ソフトクリームを食べ(美山は牧場で有名)、夜はまた数の子の松前漬けで西の関を飲んで、最上階にあるAさんの部屋のベランダから外を眺めると、伊丹空港に着陸する航空機の明かりが1機また1機……、あぁ、明日はまた機上の人となるんだなぁ……。

翌朝5時起床。新大阪まで送ってもらって、特急はるか(ここにも世界最強猫キティちゃん)で関空まで。来た時は空席が目立つ機内でしたが、今回はゴールデンウィーク直前、チェックインカウンターには長い列ができていました。しかし、見回してみるとやはり高齢の観光客が目につき、こんな一年で一番暑い時期にアンコール・ワットなんて無理じゃないかと心配になります。

機内で『ラーゲリより愛を込めて』を観ました。こういう実話があったということは以前から知っていましたが、満鉄帰りを父に持つ私としては、またいろいろ考えさせられるところがありました。

ナホトカの氷の海から引き揚げられるクロ。当時の朝日新聞より

最後の方に、氷の海を走って引き揚げ船を追いかけるクロという犬の映像が出てきますが、あれも実話だそうで、クロは引揚者と一緒に舞鶴に上陸し、日本で子どもも産み、生涯を終えたそうです。この話も知っていましたが、私はどうしてもなつめに重ねて、ボロボロ涙が出て仕方がありませんでした。今回はなつめに会えなかったことだけが心残りです。

以上が、日本滞在11日間のあれこれです。しょっぱなの事態は衝撃でしたが、事故にでも遭ったと割り切って、あとはけっこうのんびり″観光旅行″が楽しめました。そして何より、こんな私をいろんな人が支えてくれているんだなぁと思い至り、しみじみ感謝した11日間でした。

26日午後5時半、定刻通りにシェムリアップ国際空港に到着。着陸時の機内放送では、外気温40℃!またまた″過酷な日々″が始まります。

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