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クメール・ルージュの少年カメラマン 1

クメール・ルージュの少年カメラマン Nhem En

年明けに似つかわしくないタイトルで恐縮ですが、昨年末、私は↑この本を日本人の知り合いからもらいました。このナム・エンという人は、私が3か月前まで住んでいた家の、つい目と鼻の先に暮らしていて、そうと知って口をきいたことはなかったけれど、必ずやどこかで、もしかしたら何度もすれ違っていた人です。

カンボジアに行ったことがある方、カンボジアに関心が強い方にとって、決して避けては通れない暗黒の現代史の証左「S-21」(ポル・ポト政権下では収容所など公的な施設はすべて暗号で呼ばれ、最大の″政治犯収容所″が「シークレット-21」で、現在は地名から「トゥール・スレン虐殺博物館」となっている)。当時15,000人から20,000人いたといわれる収容者の中で、わずか8名の生存が確認されているようです(当初7名といわれていたが、後になって、他の収容所に移送されていた人が名乗り出た)。

かつてはリセの校舎だった施設に、1976年に″政治犯収容所″がつくられた。

クメール・ルージュがプノンペンを支配下に置くまでは、少年少女たちの学びの場であったいくつかの部屋に、1000枚ほどの″収容者″の上半身の写真が展示されています。私が初めてここを訪れたのは2018年でしたが、恐怖と憤怒と悲哀と絶望に彩られた2000の瞳に射抜かれて、ただただ立ち尽くす他すべはありませんでした。

その時に、これらの写真はいったい誰がどのようにして撮ったのだろう?という強烈な疑問がわき上がりました。シャッターを押す刹那にカメラマンはいったい何を思ったのだろうか、と。

それが、昨年末に、思いもかけない形で突如判明したのです。カメラマンは6人いたようですが、ナムさんがそのチーフだったようです。驚愕したことは、彼がその″死のカメラ″のシャッターを押していた時、わずか14歳だったということです!12歳でクメール・ルージュの″少年兵狩り″にあい、その後選抜されて上海で訓練を受け、半年で帰国して、S-21で任務についたそうです。

おそらくは、この人がナムさん。持っているカメラは、日本製YASHICA

https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%99%90%E6%AE%BA%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

「キリングフィールド」からの生還者の証言や、過酷な労働に従事させられたプノンペン市民たちの証言などはいくつか文章化されていて目にすることができますが、クメール・ルージュ側からの証言、まして少年兵の記憶というのはこれまで読んだことはありませんでした。とても興味深い内容で、量的にもさほどのものではないので、ここでみなさんにご紹介したいと思います。

『NHEM EN  THE KHMER ROUGE'S PHOTOGRAPHER AT S-21』は、A5版80ページの本で英文。おそらくは、当初からトゥール・スレン虐殺博物館を訪れる外国人を対象に、ナムさんが語ったものを誰かが聞き取って英文化したものと思われます。確かに、出口辺りで何かを売っている人がいたのは覚えていますが、そういう気分にもなれず、一度も近寄ったことはありませんでした。

翻訳ソフトに入れた方が早くて正確だと思われるのですが、どうしても直訳になって読みづらいので、私自身が辞書ひきひき翻訳しました。

全部で13の章に分かれているのですが、第1章に関しては、地名、人名が多くわかりづらいので、要約としました。2章目からは全訳します。

地名、特に人名に関しては、もともとクメール語を英語表記しているために、時に読み方に無理があって、カンボジア人ですら首をかしげるところもあり、英語表記のままにしました。(*………)は、私が書いた注です。

A Brief Biography of Nhem En
私の名前は Nhem En。1961年9月9日、Kampong Chhnang (*コンポンチュナン プノンペン北西部に隣接)州 Kampong Leng 郡の村で生まれた。父の名は Nhem Meas(1986年死亡)。母の名前は Huon Chea で、1963年、私が2歳の時に亡くなった。私には8人の兄弟がおり、私が末っ子だった。長男、次男、3男、5男、7男はすでに死亡している。7男の Nhem Oeung は、1986年にタイ国境付近をパトロール中に地雷の爆発で命を落とした。

私は55歳の時に結婚し、7人の子どもをもうけたが、うち一人はクメール・ルージュの難民キャンプで暮らしていた時に病死している。

私の教育に関しては、1967年から1970年3月18日にアメリカの支援でロン・ノルがクーデターを起こして、シハヌーク国王を追い落とすまでは、Kampong Leng 郡の Wat Phnom 小学校で勉強した。

70年のロン・ノルのクーデターから、クメール・ルージュが、75年4月17日に国を掌握するまでの間、学校に行くことはなかった。なぜならこの時期、私は Democratic Kampuchea (*民主カンプチア ポル・ポト政権下の正式な国名)の革命戦線に参加していたからだ。私が最初に Democratic Kampuchea 運動に参加したのは11歳の頃だった。71年から75年の初期まで、ダンスやドラム、みなの前で革命歌を歌うことも私の活動だった。同時にKampong Chhnang 州の戦場へ食糧や弾薬を運ぶのを手伝うことも私の仕事だった。

私の教育は、その時から1995年に新しいカンボジア政府ができるまで、ストップしていた。私の家族はクメール・ルージュの拠点に残っていたが、1995年に帰還した。その後に私はプノンペンで高校に行き、2004年に卒業証書を受け取ってから、National University of Management で2004年(*原文のママ)に卒業するまで勉強した。

次章は → Cambodia Falls Under the Khmer Rouge Regime

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