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クメール・ルージュの少年カメラマン 11

Inside the Prisoners Cell

この悪名高い S-21 について私が知っている限りでは、ここで死を免れた収容者はいない。クメール・ルージュは、収容者から自白を得るために、彼らの肉体、精神、魂を怯えさせる10の取調べルールを開発した。収容者は人間として扱われることはなかった。

S-21 でクメール・ルージュのカメラマンを務めていた私は、自分の仕事を正確にこなし、素早く次の人に進まなければならないとわかっていた。通常、クメール・ルージュの警備員は、すでに手錠をかけられ、目隠しをされた収容者たちをトラックから降ろして運び込んできた。両手を縛られ、長いロープで一列につながれた収容者たちもいた。最初に私の写真スタジオに到着したとき、すべての収容者は目隠しをされたままだった。

彼らは写真を撮る目的も、次の行程がどうなるのかも知らなかったはずだ。彼らに説明する必要がないことはわかっていた。彼らが椅子に座ると、看守は彼らの顔から目隠しを外す。時々目隠しを外すのを手伝ったこともある。写真撮影後、各収容者は再び目隠しをされ、S-21 敷地内の A、B、C、D 棟の独房か、あるいは外にあった拘置所に向かって歩くよう指示された。看守は、収容所長の直接の監視の下、収容者一人一人を注意深く独房へ連れていった。

各収容者が指定された独房に到着すると、看守は片足をコンクリートの壁に取り付けられた鎖にロックした。収容者の足が金属製の鎖で固定されると、看守は再び収容者の顔から目隠しを外し、次の収容者の確保に移った。旧政府高官の何人かは、S-21 の外にあったもっと広い房に送られた。しかし、彼、あるいは彼女の足は、ベッドやドアに取り付けられた金属製の鎖にロックされたままだった。前政権からの政府職員とみなされた収容者たちは、大勢の収容者と一緒に雑居房に入れられ、足枷をはめられたまま、一列ずつ横たわらされた。

クメール・ルージュは各房に、本物の弾薬箱から作られた再利用可能なトイレ用バケツを収容者たちのために用意した。各房に空気が通るための小さな穴を作った。窓がある部屋もあった。しかし、内部にシャワーはなかった。房の内部に個人の持ち物を持ち込むこともできなかった。房では特別に静かにしなければならず、収容者が不注意に足を動かして鎖の音を出したりすると、懲罰が待っていた。

クメール・ルージュは、収容者から最後の自白を入手するまで彼らが生き続けるために必要な栄養として、水っぽい米のスープを与えた。収容者たちはいつも腹ペコだった。しかし彼らは、あらたな懲罰、あるいは処刑のかわりに食べ物を要求することはなかった。また、収容者たちが飲んだりシャワーを浴びたりするのに十分な水もなかった。クメール・ルージュが収容者に週に何回シャワーを浴びさせたか、正確には知らない。しかし、彼らは長いホースで収容者にシャワーのための水をかけていた。

S-21 に連行されたすべての収容者は拷問され、尋問され、最終的にはクメール・ルージュによって殺された。収容者が早く自白すればするほど、その収容者は早く処刑され、そして拷問による苦痛から解放された。S-21 の尋問チームは通常、収容者を1日約3時間かそれ以上拷問した。彼らの拷問の方法は、棒やねじったロープ、針金で殴る、電気ショック、逆さ吊り、水責め、爪を剥がすなどだった。S-21 からの生還者 Chum Mey が経験したように。

数千人もの犠牲者を拘束し、拷問し、尋問し、そして最後に処刑するという点で、ここがどれほど恐ろしい場所であったか、私個人はそれまで想像もできなかった。S-21 は、殺されるために連れてこられた子供たちを含む、無実の犠牲者たちの悲鳴が響く、まさにこの世の地獄だった。

S-21 でクメール・ルージュに殺されたすべての犠牲者にとって、そこは絶対的に不正義な場所だったと思う。おそらく、そこに連れてこられた人々のうち、本当にクメール・ルージュの敵であったのは全体の1パーセント程度であったろう。残りは何もしていない罪のない人々だった。クメール・ルージュは何の証拠もなしに彼らを逮捕し、告発した。しかし、たとえクメール・ルージュに逮捕されたのが正しい判断でなかったとしても、その人間が自由の身になることはなかった。クメール・ルージュは自分たちが手に入れた犠牲者を釈放する代わりに、すべて殺害した。S-21 に連行された収容者が自由人として独房を出るチャンスは決してなかった。セカンドチャンスを与えられる収容者はいなかった。彼らの目的はすべてを殺すことだった。

そこで働いている間中、故郷の親族に会えるまで生きていられるかどうか、それは私にとって確かなことではなかった。私の命、そして収容者たちの命は、常に大きな危険の中にあった。あの体制が今もカンボジアに存在していたら、私はまだ生きていたかどうかわからない。

次章:Cambodia’s Genocide-Lessons Learned


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