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黄土高原の“小北京”と“親日教育”


賀家湾小学校の先生をしているイーハーの学生時代の友達が「開化カイフォア」という村の小学校の先生をしているというのでさっそく行ってきました。イーハーは仕事があるので、まずは私ひとりで下見です。そのあたりはかつて八路軍の拠点だった「革命根拠地」のひとつだった、という話を聞いていたのでおおいに興味が膨らみます。

磧口や賀家湾は、臨県の最南部にあるのですが、開化は最北部にあります。それで行く前に磧口の人たちに聞いてみると、「開化へ行くんだって?あそこはほんとうに田舎で何もないビンボーなところだよ」と口を揃えるのです。

ちなみに、臨県は南で離石という地区に隣接していて、離石というのは大都会です。黄河に架かる鉄橋があって、そこから西安など西部に行く列車も通っているし、北京に行くバスも頻発しています。なので、臨県は、南部の方が発展していて、たしかに北部に行けば行くほど‶ビンボー″で不便な地域といわれているのです。

‶田舎である″ということは私には願ってもないことで、さっそくカップ麺やお菓子や水や、自分の椀と箸までそろえてバスに乗り込みました。ところが、途中で1度乗り換えて、7時間ほどかかると聞いていたのに、道がすっかりよくなっていて、4時間ほどで着いてしまったのです。そしてまず、バスが到着したところに10軒ほどの小さな店が並び、食堂まであって、あれっ?話が違うぞと首をひねりました。

すでにバスの中で私の身元は暴露されており(つまり、村に1本しかないバスによそ者が乗り込めば何から何まで詮索される)、一緒になった中学校の先生が、生徒に私の重い荷物を持たせて、小学校まで案内してくれました。これまた意外なことに、村には中学校まであったのです。校舎もヤオトンではなく、ふつうの2階建てのレンガ造りでした。

私が着いたのは、午後3時頃でしたが、イーハーの友達の郭先生と同僚たちは、なんと、教室の隣の部屋でトランプをしていたのです。予想外に早く着いた“珍客”にみなあわてて現金をポケットにしまい込みましたが、まぁこれはそれほど意外なことではありません。村の“若い衆”や‶年寄り‶とトランプ賭博は切っても切り離せない関係にあるのです。とはいっても掛け金はわずかなもので、村人たちの最大の娯楽といっていいでしょう。これは男女平等で、女性は女性でどこかの部屋に集まってやっています。

張先生のお母さん。残念ながら聞き取りはすでに無理な状況

私は職員室にでも泊めてもらうつもりで、シーツまで用意して行ったのですが、同僚の張先生の家が、改築したばかりで村一番のいい部屋で、おまけに83歳のおばあちゃんが一緒に住んでいると聞いて、シメタとばかり、そこでお世話になることにしました。そして夕方3人で張先生の家に行って、これまた予想外のことにびっくりしたのです。

張先生が案内してくれた村の避難壕の入り口。かなりスリムでないと入れません

去年2万元をかけて改築した彼の家(ヤオトン)の屋根には、太陽熱温水器が設置されており、シャワーどころかバスタブまであって、花模様のついた陶器の洗面台には、大きな鏡と2人の娘たちが使うシャンプーや化粧品が並んでいて、日本の団地の洗面所の光景となんら変わりなかったのです。しかも水は井戸から汲み上げているのでタダ、もちろん強烈な太陽熱で24時間温水が使えるのです。もっとも‶水道‶があるのは村でも張先生の家だけで、彼が自ら苦心惨憺して工事したのだそうです。水周りの工事は難しいので、はたして何年もつのか?すでに洗面台の下からチョロチョロ流れ出ている排水を横目に「先生の家は、まるで黄土高原の“小北京”ですね」と、半分お世辞半分本気で、まずはそつなく到着のあいさつをした私でした。
                           (2008-06-13)

黄土高原のおたまじゃくし
開化へは、まず磧口から臨県(臨県の行政所在地も臨県)まで行って、そこから開化行きのバスに乗り換えるのですが、臨県を出てすぐに、まわりの山の様子が違うことに気がつきました。緑が多いのです。途中で「退耕還林」(耕作を中止して森林に戻す)の標識も一度だけ目にしましたが、これはそもそも本来の自然条件に大きな差があるような気がしました。樹木がとても多いのです。ほとんどがヤナギとプラタナスですが、かなりの大木、古木が見られ、一部並木になっているところすらありました。賀家湾界隈でたまに見る大木というと、ほとんどがえんじゅで、プラタナスなど目にしたことはありません。

右下のあたりが本来の川筋。夏から秋にかけては雨が降り川になる

村に到着してわかったのですが、実はこの界隈はかなり水が豊富なところだったのです。村は黄河に流れ込む八堡水という支流に沿って開けており、川原にそれぞれが自家消費用の野菜畑を持ち、山の方で主食の粟やじゃがいもと、商品作物の紅棗を作っているようでした。川幅は5mにも満たない細い流れでしたが、一年を通して枯れることはないそうです。張先生の家のタダの水道も、この川の伏流水を汲み上げていたのです。そしてここには、賀家湾の人が1頭3000元で買ったという黄牛(茶色の耕作用の牛)を育てている農家が何軒もあり、つまり牧草が自給できるということでしょう。

臨県南部では見られない河原の石。板状に割ってそのまま建築資材として使う

私は到着した翌朝、川原に下りてみました。近くで見る川は、生活排水と家畜の糞尿で富栄養化がすすみ、アオミドロごっそりで、清流とはほど遠いのが残念でしたが、ここにはおたまじゃくしとカエルがもう何百匹もうごめいていたのです。南部の方では見ることのない湿地性の植物も目にしました。当たり前のことですが、やっぱり水があるところに生物が繁殖し、緑が萌え、樹木が茂り、人の営みがあるんだなぁと改めて感じ入りました。

“人のうわさ”とはほんとうにアテにならないものです。“何もないビンボーな村”と聞いていた開化村は、村人たちがとても純朴かつ開放的で、元気な子供たちがたくさんいて、おまけにかわいい子牛もたくさんいて、緑豊かな美しい村だったのです。                  (2008-06-15)

“親日教育”
5年生を担当している郭先生が、授業で何かしゃべってくれない?というので、3日目の昼過ぎに30人ほどの子供たちを前に30分ほど話をしました。私の中国語などお粗末きわまりないので、黒板に字や地図を書いて、身振り手振りの授業です。なぜか他の先生たちもやって来ました。

まず黒板に「こんにちわ」「私は日本から来ました」「今日は非常に暑いです」と3つの日本語を書き、日本語で読みました。もちろんみんなきょとんとしています。

次に、「こんにちわ」は別として、次のふたつの日本語の意味を推測してもらいました。中国語では「私→我」「暑→熱」ですが、推測は可能です。「日本、来、今日、非常」は中国語も文字は同じです。結果は思ったとおり、簡単にいい当てることができたのです。がぜん彼らは私の話に乗ってきました。日本語と中国語がこんなに近い言葉だとは思ってもいなかったからです。一般に農村部の中国人は、日本語が漢字を使う言語であることを知りません。

なぜ日本人は漢字を使うのか?私は「渡来人」「遣唐使」「孫文、魯迅、周恩来の日本留学」の3つについて、地図を使って簡単に話しました。なにしろド田舎の小学校5年生ですから、中日関係史など、日本の侵略以外に教えられてはいません。自分たちが今住んでいる黄河流域を祖の地とする人々の血が、現代の日本人の中にも流れ込んでいるという話は、彼らにとって新鮮な驚きだったようです。

侵略の歴史はもちろん忘れてはいけないけれど、同時に中日の歴史はとても長い悠久の時間の流れにあること、これからの若い世代に一番大事なことは中日友好!!ということで、私のつたない授業を締めくくりました。

そしておまけとして、テレビの‶抗日ドラマ″普及のおかげで中国人ならまず誰でも知っている、「バカヤロー」「メシメシ」「ヨシ」の3つの日本語の発音の練習をしたのですが、これが子供たちにもっとも受けたのはいうまでもありません。                   (2008-06-21)                      


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