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【日曜小劇場】女心を置いていけないから歯ブラシを持って帰りたい。

GO TO EAT レストランでのショッキングな出来事



1月も半ばごろ。GO TO EAT運営局から「期限が間近」というメールが届く。2020年に発売されたチケットが延期のまま、やっと2022年の秋に再開したが、その頃私はGO TO EATを使って楽しい食事をするという気がしなかった。

でも「期限間近」の知らせに焦りの気持ちになる。今年に入ってすぐに友人らと食事した時に使用したGO TO EAT。今度はデートに使ってみようか。でも誘いたい男性もいなくて、だからといって、アプリで探す気もない。
試しにアプリをダウンロードしてみたけど、ネットで使い方を検索しているうちに、やる気がすっかり失せてしまった。アプリでパートナーが見つかるなんて夢見る頃はとっくに遅すぎたみたい。それにアプリで相手を探す男は、セクシーじゃない気がする。

「男好きする女」と言う言葉がある。美人というわけではないけど、なぜか男性が寄ってくる女。男からすると「セックスしたくなる」のだそうだ。つまり本能を刺激されるってわけね。
たくさんの女性達に遭ってきたせいか、私も「男好きする女」がわかるようになった。男好きする女には、女が知らない秘密の匂いがする。一瞬手が届きそうだけど、簡単になれないのは、男を一瞬にしてオスにしてしまうから。男好きする女は、生きている実感を味わいつくしている。底光りの生命力を放つ女に、男たちはノックアウトされる。いわば女神だ。かないっこなんかない。
 
一方、「女好きする男」も確かにいる。いつの間にか女が寄りついてしまい。口説かなくても気がついたら女に告白させてしまう男。そういう男のほとんどが無口だ。おしゃべりな男とセクシーさは相反する。
黙って女を楽しませてくれる男を、女は離すものかとしがみつく。しがみつくと執着が生じて、相手との境界線がわからなくなり、やがてしがみついていたはずの男の手が自分の手からすっと離れていく。音を立てないのが「女好きする男」の常套手段だ。もちろん、無言のままで。


GO TO EATで食事したい。でも相手がいない私は、けっきょくおひとり様で予約することにする。
「GO TO EAT使用可能店舗」一覧からランチを選んでみた。たくさんありすぎて目移りする。特に目的もなくただおひとり様でも気楽に入れそうな店。あまり高くない店。GO TO EATの残金が2000円。だからせいぜい3000円ぐらいの予算かな。
スマホをスクロールしているうちに、こじゃれたシティーホテルにあるレストランを発見した。60種類のメニューが揃うビッフェスタイルで、ランチ料金は2000円。GO TO EATの残りのチケットを使えて、しかもレストランはグーグルや食べログでも高得点だ。これは期待しちゃうよね。

「孤独のグルメ」や「ソロ活女子」などドラマがヒットしたおかげで、今やひとり飯ブームが起こった。だけどやっぱり食事は誰かと一緒に楽しく食べたいなあ。ホテルのビッフェランチなら、ひょっとしたらテーブルで相席になるかもしれない。
なぜか私は「相席で面白い出会いがあるかもしれない」と思いを巡らせた。コロナ禍でひとり飯に飽き飽きしていたからだろう。楽しいこと、わくわくすることが待っているかもしれないとそのとき私は期待した。期待したかったのかもしれない。

最後のGO TO EATチケット。その日は土曜日だった。大門駅から徒歩10分ぐらいの住宅地に、クリーム色のホテルの外観が見える。途端に空腹を覚えた。
レストランの入り口に制服姿の眼鏡の年配女性が立っていた。「予約した者です」と名前を告げると、いきなり女性が「コースは二つです。700円追加の飲茶と、1300円追加の飲茶とローストビーフです」
ネットの案内ではビッフェランチは2000円。追加で2種類なんてなかったはず。どうなっているのだろう。尋ねようとしたが、目の前の眼鏡女性から「さっさと選んで!」と圧を感じる。ちょっと怖い。無言の圧で催促された私は「飲茶とローストビーフ」二種類で1300円を選んだ。
すると女性はすばやく端末機器に注文を打ちこんで、先に歩く。「承りました。こちらへどうぞ」の一言もない。なんて無愛想なんだろう。不愉快なことでもあったのかしら。
黙って後に続くと「こちらにどうぞ」と案内されたのは、窓際の狭いカウンター席だった。

まるで近所のドトールコーヒーのカウンター席のように、狭苦しい席だった。せいぜい飲み物とお皿2枚ぐらいしか置けないスペース。ビッフェランチならお皿を数枚以上置くかもしれない。戸惑っていると前方に二人掛けのテーブル席で食事をしているおひとり様の男性を発見した。そこで「すみません、テーブル席でお願いします。あの男性のように」と言うと、眼鏡女性が全身で「不機嫌」と意思表示する。やっぱり怖い。でも諦めるものか。私はビッフェランチを楽しみたいのだ。なんだか意地になってきた。

やっと女性が歩き出す。そして一番奥にある一人用の小さいテーブル席を案内した。だがその席は窓に向かっていて、『おひとり様ですよ~』と孤独を宣言する隔離席のようだった。カウンター席から、隔離されたおひとり様テーブル席に変わっただけだった。

嫌な予感がする。こういう場合の予感というのは実によく当たるものだ。私は女性に「すみませんが、ローストビーフはなしにして、700円の飲茶コースに変更してください」と申し出た。“ホスピタリティを感じられないこの店のローストビーフはきっと不味いよ”。頭の中で危険信号が点滅する。
眼鏡女性は「変えるんですか」とますます不機嫌な顔をして伝票の端末機器を操作する。「変更しました」と伝票をテーブルに置き、「飲茶はここにあるQRコードを読み取って自分で注文してください」とさっさと入り口に戻った。

私は隔離席の印象を払しょくしたくて、窓際に向かっているテーブル席をビッフェメニューが並ぶ方角へと位置を変えた。
すると周囲のテーブル席では、ホール係の若い女性がにこやかにランチの過ごし方をお客さんに説明しているではないか。そこで私はホール係の若い女性を呼び止めて、「いま席に着いたので、説明してください」というと、「かしこまりました」と快活な表情で若い女性が丁寧に説明してくれた。やっと歓迎された気がして、思わず深呼吸をする。

いざ60種類のメニューが並ぶビッフェランチへ。ところがお皿を取った私は少し不安になった。料理の食材が小粒過ぎるのだ。生野菜も、煮込み魚も、唐揚げも、ハンバーグも全部小さい。物価高騰の影響がビッフェランチまで及んでいるのか。でも見た目より中身が大事よ。美味しければそれでよい。
私は気を取り直して、生野菜サラダの野菜たちを小皿に入れてオニオンドレッシングをふりかけ、大きめのお皿に白魚のトマト煮込や唐揚げ、中華風豆腐料理、ハンバーグ、ペンネアラビアータなどを次々と盛り合わせた。 
ウーロン茶とお皿たちを並べると、やはりカウンター席からテーブル席に移動して正解だと頷いてから、ランチタイムススタート!午後2時過ぎ、空腹に勝てず、ぱくついてしまうよ。ぱくぱく。
あれ?なんだかおかしい。白魚のトマト煮の薄味がまずい、豆腐料理もぼやけた味で、パスタも不味い。ハンバーグはつなぎの風味だけでひき肉はどこにあるの?さらにしなびたレタスにふりかけたオニオンドレッシングも、ぜーんぶ、まずい。いやまさか、こんなことがあるの?
コーンスターチで揚げた唐揚げのパリパリ感にやっと救われたが、でもどうしてこんなに不味い料理を作れるのだろう。謎だ。物価高騰のあおりで食材を節約したかもしれない。でも料理人の腕次第で美味しくできるのに。
食事を中断してしまった。箸が動かない。隣のテーブル席に若いホール係の女性がローストビーフを運んでいた。

ローストビーフ ――それは厚めのベーコンを焼いたもの。私が想像していたローストされたコールドミードに西洋ニンニクにドレッシング添えの料理とはまるきり違う。コースを変更をして良かったと安堵したが、それにしてもどうしてこんなにも不味いのだろう。不味い理由をいろいろと考えているうちに、やっと飲茶が運ばれた。

小籠包の見た目は美味しそうだ。では味はどうか。飲茶は別料金。これも食欲が失せるほど不味かったら、ここで食事を中断しよう。
皿に残されている食事達がだんだん冷たくなっていく。まるで死んでいるみたい。熱々の小籠包も残してしまったら籠の中でやがて死んだように冷たくなってしまうのだろう。フードロストはいけない。理性ではわかっている。でも食べたくないものは食べられないのだ。
小籠包も冷たく死んでしまわないようにと願いながら、私はふーふー、しながら皮が崩れないように醤油につけこんで、ゆっくりと口の中にもっていく。
口の中でじゅわっと汁がとろける。肉と皮のバランスもとれている。美味しい。ふーふー。次々と口に入れてから、ほっと安堵した。やっとおひとりさま飯を楽しめる気がした。
勢いに乗って追加で焼売も注文。でも数に制限があり、追加すると15分から20分もかかるという。LINEで注文してから、ウーロン茶を飲み、小籠包の余韻を楽しんだ。

待っている間にデザートコーナーを覗いてみる。カッティングされたフルーツたちは小さくてしなびかけていた。シフォンケーキは小さく切ったカステラのよう。シュークリームはベビーシュークリームみたい。そそられるデザートがなくて、私は落胆してしまった。席に戻って焼売を待とうと思ったその時に、やっと見つけた!自家製プリン。薄いイエローのプリンが小さな陶器に、こぢんまりと落ち着いていた。これしかないよね。私はそっとプリン入りの陶器をつまんで、小さな皿に置いた。やっと見つけた美味しそうなデザートを最後に楽しむか、それとも焼売を待っている間に食べちゃうか。迷った末に、焼売を食べ終わった後にまたもう一つ食べるとよいのだ。
決め手から、いざプリン!さてプリン!どうだプリン!

ところが。いやはや。がっくり千万。期待が玉砕。滑らかさはあるけど風味が薄すぎる。私が作ったプリンの方が格段に美味しい。不味い原因は材料も調味料もけちっているからだ。そう、このランチビッフェは食材も味付けも、おもてなしの心まで、全てが節約されているのだ。だから、うんと不味い。

焼売が到着した。籠の中はさっきの小籠包よりもっとほかほかだ。辛子醤油につけて口の中へ。うわっ、さっきの小籠包とは雲泥の差。もちもちし過ぎて、ねちねちな食感。冷凍食品のような、まさかの風味。人の手が入っていない味。さようなら。諦めました。未練はありません。残念なだけです。私のランチタイムはあっけなく終わってしまった。

赤い帽子の女性に導かれた先に遭ったもの


ランチタイム終了まで40分以上もある。アメリカンのような薄いブラックコーヒーをすすって帰り支度をしようと何気に窓から外を見ると、赤い帽子を被った女性が通り過ぎていく。ゴールドやグリーン、イエローの花柄が鮮やかな帽子を軽やかに、まるで舞台衣装のように華やか。エレガントな歩き方で横丁を曲がったところにある小さな洋菓子店を覗いていた。
そこは駅からレストランの途中にあり、温かみのあるハンドメイドなケーキがショーウィンドーに並んでいたのだ。
私は突然「スイーツを食べ直したい」と思った。レストランではがっかりしたけど、別の美味しいものを食べ直せばよいだけのことだ。
私は急いでコートを着込み、伝票を抱えて入り口にあるキャッシャーに向かった。
年配の女性は「ここに番号をかいてください」と伝票にGO TO EATの店舗番号の記入を催促する。「店舗番号を教えてください。前回はお店の人がタッチパネルで打ってくれました」と私。すると女性は無言でキャッシャーの前に掲げてある数字を指で差した。
最後までおもてなしの心がないレストラン。二度と来ることはないでしょう。残念な出会いでした。

外に出て洋菓子店まで走っていくが、赤い帽子の女性の姿が見えない。私は駆け足で探す。すると駅に向かう別の路地を歩いている。別の洋菓子店に入った。Nという店の前にはいかにもサクサク感あふれる大きなパイのポスターが誇らしげに貼りついていた。

店に入ると、ショーケースには小ぶりサイズのケーキがずらりと並んでいた。パーティーや祝い事用の細くて長い美しいケーキらも綺麗に陳列されている。店を囲むような棚にはクロワッサンやキッシュなどのパイ生地のパンも風味豊かな表情で佇む。品の良い焼き菓子もあった。
赤い帽子の女性は注文の品々を確認していた。予約したケーキや焼き菓子を確認しながら、笑みを浮かべてとても幸せそう。これから楽しいことが待ち受けているようなわくわく感が伝わる。私もガラスケースにあるシュークリームを注文し、今まで見たことのない丸い形の厚みのあるキッシュをパントレーに入れた。「食べ直し」という発想の転換に満足する。その時だった。

ある夜の、男の部屋での出来事


初めて訪れた男の部屋で私は歓迎されなかった。
最初からそうではなかった。一目ぼれした年下の男性に半年ぐらい片思いをして、やっと食事デートが実現した。渋谷のカフェで待ち合わせをして、直感で入った座敷居酒屋の料理が美味しかったけど、彼のことが好きすぎた私はたくさん食べることができなかった。帰るとき彼がロングブーツの紐を結ぶ仕草がとても美しいと思った。もう一軒いこうということになって、私たちは桜町近辺の狭いカウンターバーに入った。バーにはあまり若くないけど新米ですと紹介された男性バーテンダーと私たちだけだった。年下の彼がプロデュースしたインディーズの曲をここで流していいですかと新米バーテンダーに尋ねると、いいですよと承諾したので、彼が曲を流したら、バーテンダーがいい曲ですね、故郷を思い出しますと涙ぐんだ。店内には私だけだったので、彼は別の曲を流し、バーテンダーはそのたびに涙ぐんだ。

最終電車を逃したことに気づいたのは、0時を回った頃だった。タクシーで帰るわと言うと、彼が僕の家に来ませんか、三軒茶屋に住んでいるからタクシー代はたぶんあなたより安いと思いますよ。
彼の部屋に行く。全くの想定外だった。彼の家に泊まることになったという流れに、ときめきと戸惑いがなかったといえばウソになる。断る理由もないからいいですよと答えたが、頭の片隅には妄想がうごめいている。こういう時は誘ったほうに身をゆだねた方が良いよね。深く考えずにね。私はイージーな方向へと向かっていった。そういえば過去にも「僕のうちに来ませんか」もあったなあ。でも好きでたまらない男に誘われたのは初めてだった。彼は私が好意を持っていることに気づいているかもしれないけど、私が彼よりもずっと彼を好きだということを知らない。

バーが閉店したのは深夜の1時過ぎ。渋谷からタクシーで向かう三軒茶屋にはあっという間に着いた。家賃13万円の彼のマンションはどこにでもある普通の建物に見える。隣にあるコンビニで彼が「水を買う」というので一緒に入ると、お腹空いたと言った彼はおにぎりコーナーで大きめのおにぎりをむんずと長い指でつかんだ。パッケージには“いくらの醤油漬け”とある。「これ、美味しいんだよ」と無邪気な彼。抱きしめたくなるほど愛おしい。私も食べたいわ。すると彼は私の分をその細い指で握りしめて籠に入れた。

エレベーターで降りたのは、7階だったような気がする。ドアの前で「ちょっと片付けるから待って」と恥ずかしそうに部屋に入る。待っている私は通路から夜の街を眺めた。知らない街は私を歓迎しているのだろうか。深夜1時半過ぎ。ちっとも眠くなかった。でも好きな男の部屋に入るというのに、あまりドキドキ感はない。どうしてだろう。きっと彼の方が慌てているからだ。私はゲスト。ゆったりとしていればそれでよい。私は少し気が軽くなった。

ドアが開いて「どうぞ」と招いてくれる。細長の2LDKの一室はリビングで楽器があった。奥の部屋にはベッドとデスク、本棚には意外にも音楽関係だけでなく、小説やビジネス書もある。本棚をじろじろ見るのははしたないと思いながら、ちらちらと見てしまう。村上春樹よりも、村上龍の小説が多い。自然に笑みがこぼれる。
おにぎりを食べて彼が入れてくれた温かいお茶を飲んでいたら、大好きな作品なんだよと言って「ショーシャンクの空に」のDVDを流した。確かに素晴らしい作品ねと頷きながら、襲ってくる睡魔に勝てなくなってきた。時計を見ると午前4時過ぎ。眠っていいと聞くとうんと答えた彼がソファーに枕を置いてくれて、薄い掛け布団を持ってきてくれた。ソファーが私の寝床、彼は隣の部屋のベッドで眠るのだろう。
ロングドレスがくしゃくしゃになるのが嫌なので、スカート脱いでいいと聞くとうんと答えたので、彼が隣の部屋に移動したら、スカートを脱いで畳み、ソファーの下に入れて隠すつもりだった。ストッキングを履いたまま、ソファーに潜り込もうとしたときだ。彼はソファーの私の隣に敷き布団を引いて、シンプルな寝床を作ったのだ。

これは一緒に寝ましょうということなのだろうか。それとも単に隣で眠らせてもらいますということなのだろうか。睡魔と混乱が入り混じって、妄想の世界のある深遠の淵に私を追い込んでいく。するの?しないの?したいの?したくないの?考えることも駆け引きをすることも、睡魔でもうろうとしている。彼は部屋の明かりを消す。でも眠れるはずもない。私はロングドレスを脱いで畳む前に、彼に聞いた。

「ストッキングも脱いでいいですか」

朝方の6時半ぐらいだったと思う。彼に起こされた。
新しい歯ブラシがシャワールームにあるから使っていいという。事務的な口調だった。私は無言で下着とストキングを履き、くしゃくしゃになったロングドレスを整える。
リビングの椅子で彼が難しい顔をしながら、コーヒーを飲んでいる。今にも爪を噛みそうな悩める少年のようだ。
シャワー―ルームに入ると、歯ブラシはあるけどタオルはない。タオルを貸してと言おうしたけど、彼の表情が変わっていないので、歯を磨くだけにした。

朝方の余韻が体に残っている。その瞬間彼が「え?どうして」と戸惑った声を挙げたので、てっきりストップするのだと思った。でも重なって動くことを彼も止めない。やがて妊娠しそうになるくらい感じてしまった。初めての男なのになぜ知っているの?きっと彼のことが好きすぎるから感じるのよと言うもう一人の私の声が心の中でこだまする。そうね、きっとそうね。だから彼に溺れていくんだわ。快感が体のすむずみまで浸透していくのがとても嬉しかった。
でも彼は余韻を消し去ろうとした。「どうしてこんなことになったの」という一言で。

歯を磨いても顔は洗わなかった。ファンデーションを薄く塗って、アイメイクとリップスティックで整えた。鏡の前の女の顔はぼんやりとしたあいまいな表情をしている。恋する女の顔の喜びが消えていた。
リビングに戻って彼が煎れてくれたコーヒーを飲んだ。マンションの目の前の停留所から三軒茶屋駅行きのバスが出ているよ。彼の声がくぐもっていた。歯ブラシを持って帰りましょうか、と私。彼にはきっと恋人がいるに違いない、だから朝方のことを後悔して私を早く追い出そうとしているのだ。

ようやく私は彼の不機嫌な表情のわけがわかり始めていた。彼は朝方のことはなかったことにしたほうがいいのだ。でも私にはなかったことなんか、できるはずなんかない。
ええ?どうして歯ブラシを持って帰るの、と彼。私が捨てたほうがいいと思うから。彼があいまいな表情をする。歯ブラシは私がここにいた痕跡、ここでの思い出、二人だけの秘密。でも悪いことをしたなんて思ってもいない。自分の気持ちに正直になっただけよ。でもこの悲しさは何だろう。恋をしただけなのに、悪い女になってしまったような、一生懸命に好きだったのに報われない女のこの気持ちをどこに持っていたらいいのだろう。女心を置いていけないから、歯ブラシを持って帰りたい。


N洋菓子店で会計を済ませた私は、大門駅に向かった。歓迎されず不味い食事でがっかりしても、別の美味しい店で楽しめばよい。当たり前のことだ。
でも、と思う。外食は食べ直しができるけど、好きな男は取り換えが効かない。

男と別れたら、前の男と全くタイプの違う男を選んでしまう。それは前の男からもらった傷を癒すために必要なことだ。前の男との失敗を繰り返したくない。もっと愛されたいから。
タイプが違い男と新しい恋をしているうちに、その人が運命の男になるのだろうか。忘れてしまった男もいれば、取り返えができない男もいる。
忘れられないのは、男そのものではなく、二人で過ごした時間や、一緒に食べた食事や、彼の汗の匂いや握ってくれた指の感触、そして愛情あふれる彼の表情だ。遠い恋になればなるほど、思い出すことはないけど、生きていると不意に蘇ることもある。切なくなるか、それとも懐かしくなるか。それはその時の私次第。今が幸せか、そうではないかという目安にもなる。

N洋菓子店のシュークリームは、皮がかちっとしていて形が崩れない。綺麗なアーチのまま。カスタードクリームもとろとろの甘く優しく、私を慰めた。


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